第24話

 思っていたより入院費が高くて驚いた。

 母親と受付で支払いを終えてタクシーに乗り込む。今月のバイト代は多めに家に入れようと決め、昨日あずさに色々払わされたことを悔やんだ。自分が悪いくせに。

 家に帰ると「今日は静かにしてなさい」と母は言い残し仕事に戻っていった。家に帰ってから気づいたのだが、携帯電話は壊れてしまったようだ。机の上に液晶画面が虹色になってしまった携帯電話が置いてあった。

 これじゃ、亜希子にも誰にも連絡できないじゃないか。まあ、家にいると言っていたから、行けばいいだろう、と僕は家を出た。

 駐輪場で気付いた。そうだ、自転車も無いんだった。この炎天下、歩いていくのは辛いが仕方ない。僕はとぼとぼと歩きはじめた。 

 亜希子は家にいた。チャイムを押してもノックをしても、うんともすんとも言わないから、試しにドアノブを回してみたら鍵が開いていた。

 大声で挨拶しながら入る。

「ちわーす。明信ですけど、あっちゃんいんの?」

 返事はない。忍び足で部屋に入る。別に泥棒じゃないのだから堂々と入ればいいのだけど。

 リビングに入ると亜希子がいた。亜希子は音楽を聞いていた。金比羅団の鍵という曲だった。


『目の前には扉があってさ

 多分向こう側には未来が広がってんだ

 でも、扉には鍵がかかっててさ

 押しても引いてもダメなんだ

 周りを見渡すとみんなおんなじように

 扉の前で立ち往生してんだ

 時々、ガチャって音がして誰かが扉を開けてんだ

 ねえ、扉が開いたなら その鍵はもう要らないだろ

 だったら俺に貸してくれ 俺も向こうに行きたいんだ


 目の前には扉があってさ

 多分向こう側には未来が広がってんだ

 扉を開けて出ていった奴らが置いてった鍵を

 必死で奪いあうんだ みんな向こうへ行きたいんだ

 だけど、同じ人間がいないように 同じ悩みがないように

 他人の鍵じゃ自分の扉は開かないんだ

 自分の扉は苦労して自分で開けなきゃいけないんだ

  そして、扉の向こうには 多分また扉があるんだろうけど

  輝いてる人ってのは目の前の扉のその先に

 また扉があることを望んでる

 俺たちは向こうで会えるかな

 何百もの扉の向こうで』

 

「いい曲だよな。鍵」

 僕が言うと亜希子は驚いたように振り返った。

「ごめん、チャイム鳴らしても誰も出なかったからさ、結構大声で挨拶しながら入ってきたんだけど……」

「こちらこそごめん。全然気づかなかった」

 亜希子は慌てた様子でオーディオの音量を下げた。

「この歌ってさ、とっても残酷だよね。人のアドバイスなんか為にならないって言ってるんだもんね」

 僕はそうは思わなかったけど、否定はしなかった。

「お茶出すね」亜希子は冷蔵庫から麦茶を取り出して注いでくれた。

 亜希子はそわそわしていた。僕らは当たり障りのない会話をしながら、金比羅団のCDを聴いていた。

 四曲ほど聴いていただろうか。その間亜希子は麦茶を三杯も飲んだ。亜希子の緊張が僕にも伝わってくる。

「あのさ、いいんだよ、言いづらいようなことだったら無理に言わなくて」

 僕の言葉に亜希子は頷いた。

「ありがとう。でも、私が迷っているのはそういう意味じゃないの。こんな話したらノブに嫌われちゃうんじゃないかと思って」

「ううん、俺は大丈夫だよ。あっちゃんのこと嫌いになんかなんないよ」

 内心、どんな話が飛び出すのか不安でしょうがなかったが、悩みなんてものは自分ひとりで抱えているとどんどん大きくなってしまうが、誰かに言うだけで随分楽になるものもあるんだ。 

「ありがとう……」

 亜希子はCDを止めた。

 緊張しているのが手に取るようにわかる。

 静寂に包まれる部屋の中で、亜希子はおもむろに自分の胸元に手をやった。何をするのかと見ていると。亜希子はするするとシャツのボタンを外し始めた。

「ええ!? ちょっと!?」

 慌てる僕の顔を見て微笑む亜希子。僕が両の掌で亜希子の体を隠すようにして目を逸らすと亜希子は言った。

「お願い。見て」

「いや、だってその……」

 僕は亜希子がその、なんというか死んだじいちゃんが見たら「けしからんっ!」と叫ぶようなことをしようとしてるのではないかと思ったわけだ。僕も亜希子も若いのだ。そりゃそういうことに興味がないわけはないではないが。いや、しかしこれは唐突である。唐突過ぎるよあっちゃん。俺、その、そういうの何にも持っていないし、もしものことがあったら俺責任なんか取れないよ。

 そんなことを一瞬のうちに目まぐるしく考えながら、指の隙間から亜希子を覗く。

 しかし、僕の予想は大きく外れていた。亜希子の唇は震えていた。開かれたシャツの中の、白い下着、その下、おなかの辺りに無数の痣というか、怪我のあとというか、そういうものがあった。

 そして、亜希子は震える唇で僕に尋ねた。

「これ、何だと思う」

 僕は知っていた。それを。同じクラスのあの不良の竹中の手首にも同じものがあった。でも、認めたくなかった。

 亜希子にそんなものがあるなんて。僕は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。

 そう、それは根性焼き。タバコを押し付けられた痕なのだ。


「私ね、転向した先の中学でね。クラスメートの男子達にレイプされたんだ。放課後の暗くなった更衣室に引きづり込まれて。地獄だった。散々弄ばれて、その後たまたま巡回に来た先生に見つかって。

 助かったと思ったのだけど、その先生、男子達を帰したのよ。見なかったことにするから早く帰りなさいって言ったの。本当に気の弱い先生だったわ。私はブルブル震えて動けなかった。そんな私にその先生なんて言ったと思う?

 学校始まって以来の不祥事だ、そう言うのよ。ボロ切れみたいになった私によ。
 そんなミニスカートで男子を挑発していたらこういうことされても仕方がないって言うの。君が中学生らしい格好さえしていればこんなこと起こらなかったんだって言うのよ。
あの時のショックは死ぬまで忘れられないんだろな。人間って結局自分のことしか考えないのよね。私を弄んだ男子たちも、なかったことにしようとする先生も憎かった。見て見ぬフリをしたクラスメート達も、街を歩く子どもも大人も、みんなみんな憎かった。楽しそうに寄り添うカップルも、幸せそうな家族も、みんなみんな殺してやりたかった。私がこんな目に合っているのに、どうして世界は当たり前のように存在してるのって。私、死のうと思った」


一気にまくしたてる亜希子に圧倒された。亜希子の瞳には涙が溜まっている。

「でもね、死ねなかった。蹂躙されて陵辱されて、もうこの世界なんか消えてなくなればいいと思ったのに、私死ねなかったの。死のうと思うと母親の顔やおばあちゃんの顔が浮かぶの。私のために本気で泣いてくれた二人の顔が。世界中の人間全員を嫌いになったつもりだったのにね。私、自分にも絶望した。死ねないのは死ぬ勇気もないからだって思った。それからは随分長い間部屋に引きこもったんだ。真っ暗な部屋で何日も何日も。ご飯も食べれなかった。食べても吐いちゃうんだ。お風呂も入れなかった。風呂も鏡に自分の裸が映るのが怖かった。
身体には声出すなって脅されて押し付けられたらこの煙草の跡がいっぱいあったし、一度身体を洗い始めたら血が出ても擦るのを止められなかったから。
死にたい死にたいって思ってるのに死ねないんだ。でも、死ねなかった。そのうち、寝てるのか起きてるのか、夢なのか現実なのかも分からなくなってきた。精神がおかしくなっていたんだと思う。その頃から私は妄想に取り付かれていたの。
人生のリセットボタンがどこかにあるんじゃないかっていう馬鹿げた妄想。そんなのあるわけないのにね。ずうっとボタンを探しているの。どこかに、どこかにリセットボタンがあるんじゃないかって。部屋中ぺたぺた触ってね。
人生がテレビゲームなら良かったのにって思った。そしたら私、すぐにリセットボタンを押すのにって。何もかも忘れて無邪気に遊んでられた頃にリセットして戻るのよ。ずっとそんなことばかり考えていた。リセットしたらね、やり直すところは決めてたんだ。あの頃に戻るんだって。ノブとアキ姉と遊んだあの頃に。ブランコで靴とばして、駄菓子屋さんに行って、アキ姉と一緒にお風呂入って、三人でゲームして、お泊まりに行って。ねえ、なんでアキ姉死んじゃったのかな。なんで私生きてんのかな」

 
 僕は何も答えられなかった。ただ黙って聞いていた。何か気の聞いた言葉が欲しかった。でも、今自分の口から何を言ったとしても、全部嘘くさくなる。こんなに近くにいるのに、何もしてあげられない自分に腹が立った。僕は生きてきた中で今、一番強い怒りと哀しみと、自分の無力さを感じていた。自分が男であることが嫌になった。男である自分、時に女性を単なる性的対象としてしか見なかった事もある。そんな自分の弱さ、醜さ、汚さ。恥ずかしさ。亜希子を強姦したのは僕と同い年の奴なんだ。多分、僕と同じだ。今でもへらへら生きているのだろうか。殺してやりたい。全員殺してやりたい。


「一年間も私は外に出れなかった。母さんが色々考えてくれて、引っ越して母さんの方の苗字に変えて、新しい中学に入って、私のことを誰も知らない世界でもう一度やり直そうって、母さんは言った。でも、人間って簡単に出来てないんだよね。全然変われなかった。結局、転校先の蔦中の教室には一度も入れなかった。月に一度くらい保健室に登校してただけだから。授業中を見計らって生徒が歩き回らない時間帯を狙って登校するの。裏門の所で保険の先生に待っててもらって一緒に入るの。一人で廊下なんて歩けなかった。制服のスカートだって履けなかったし、今ほどじゃないけど男子が怖かったの。あの頃は廊下で男子生徒と目が合うだけで動けなくなるくらいだった。でもね、あの蔦中にノブがいるってわかったとき、凄い嬉しかったんだ。リセットボタンが見つかったって思ったの。登校時間の関係でちょうど昼休みだったんだよね。校庭で遊んでいる男子のボールが転がって来たの。走り寄ってきたのがノブだった。けど、成長したノブの姿をみて愕然とした。私をめちゃくちゃにした男子たちと同じ臭いがしたの。肩幅も広いし、声も低くなっていた。私が知ってるノブじゃなかった。それに、楽しそうだったの。私がこんなに辛い思いをして壊れちゃってるのに、ノブは楽しそうに友達とふざけてた。私のことなんか忘れて、私を壊したあの男子生徒達と同じ様に、女の子にちょっかいを出してふざけて笑ってた。
逆恨みよね。私、本当に卑屈になっちゃってたんだ。
その時の担任の先生は無理に来なくても卒業できるようになんとかするって、言ってくれた。元々二回目の三年生だったしね。
 蔦中時代にまともに会話できたのは担任の先生と、カウンセラーと、保健室の先生と、あとは女子大生の家庭教師だけ。みんな大人の女の人。大人でも男の人とは話せなかった。中卒じゃ後々後悔するから高校は行きなさいって母親に言われた。通信制でもなんでもいいって母親には言われたけど、正直、進学も就職も将来のことについては何も考えられなかった。だって、女としてもう壊されちゃってるんだよ。幸せな未来なんて私にはないんだもん。
共学でも公立の高校を選んだのは家の財政状況から。定時制を選ばなかったのは夜の校舎を見るとあの時を思い出しちゃうから。その程度の理由。通信制でもよかったけど、家にいると母親が心配するから。母親はそんな私の考えなんて知らないから、普通の高校を受けたことで少しずつ回復してるんだって思ってたみたい。確かに家ではちょっとずつ昔と同じ様に笑えるようになってたし、物も食べれるようになったし、出来は悪いけどお姉ちゃんみたいのができたしね。でも、外ではひとりぼっち。周りは全員敵に見えた。弱みは見せたら何をされるか分からないって思ってたから。
入学式で私は決めてた。友達は作らない。裏切られるのが怖かったんだ。だから誰とも関わらないって決めたの。存在しない存在になろうって。空気みたいに、目に見えない存在になろうって。そしたら、もう辛いことはないんだって思った。順調に行ってたんだけどな。
ふふ、なんでかな。ある日ね、家に帰ったらクラスメートの男子が家にいるの。鼻血たらしてね、大慌てであたふたしてるの」


 涙目に笑みを浮かべて亜希子が言った。


「いや、あれはその、ナオミさんのせいなんだよ」


 僕もへたくそな作り笑い。


「本当言うとね、笑っちゃいそうだった。そのあたふたしてる姿が昔のまんまのノブだったから。なんか嬉しくって悲しくって」


「なんかごめんね、俺、あっちゃんのこと全然思い出せなかったよ」


「いいのよ。仕方ないよ。苗字も変わってたし、いろんなことがあったもん。でもなんでかな、私ね、ノブのことも他の男子とおんなじように怖かったんだけど、ノブとだけは話したい、仲良くなりたいって思ったんだ」


 真っ直ぐな瞳。涙で充血しきっていたが、綺麗だ。僕は素直に思った。


「うん。やっぱり俺、良い人オーラが滲み出ててるからなぁ」

 僕も涙が溢れてきそうだったけど、おどけて見せた。


「ホントそうだと思うよ」ふふふと笑って亜希子は言った。

「俺、あっちゃんのこと好きだよ」

 自然に言葉が出た。それは昔みたいな幼馴染としてではなかった。

「俺、あっちゃんのこと凄い綺麗だと思う。あっちゃんは辛いことがあっても生きていてくれた。自分がそんなに辛い目にあったのに、家族や自分を悲しんでくれる人のために死ぬのを思いとどまったんでしょ。それは弱さじゃないよ。優しさだよ。強さだよ」


 ぽろぽろと亜希子は涙を流した。

「俺は、あっちゃんにまた会えて本当に嬉しかった」

「ありがとう。ごめんね、聞きたくもない話を聞かせちゃって」


「そんなことない、こっちこそ、言いたくない話させちゃってごめん」


「ううん、多分、ノブには聞いてほしかったんだと思う。やっぱりノブは優しいね」
「そんなことないよ。もっと早く気づけたかもしれなかったのに」

 亜希子は震えていた。寒くもないのに震えていた。

「ねえ、手、握っていい?」

 先程、病院で僕が亜希子の腕を掴もうとしたら凄い拒絶を見せたのはやはり亜希子はまだ男に対して恐怖心があるということなのだろう。それが僕であったとしても。

 まだ事件から三年しかたっていないのだ。

「すこし怖い……けど、私もノブの手、握りたい。このままじゃ駄目だと思うから」

 僕は亜希子に近づく。亜希子は微かに震えている。亜希子は恐怖と戦っているのだ。僕はそっと手を伸ばす。亜希子も震えながら手を指し伸ばしてきた。

 指先が触れる。


「駄目!」

亜希子が手を引っ込めた。僕の指は行き先を無くしたまま空中を漂った。亜希子がかぶりを振る。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 見る見るうちに亜希子の顔が青ざめていく。

「ごめんなさい、怖い、怖いの。大好きなのに。私だってノブのことが大好きなのに、怖いの、ノブの手が、ノブの指が、男の人が怖いの。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 針のとんだレコードのように、ごめんなさいと繰り返す亜希子。

 僕には何も出来ないのだろうか。泣きじゃくる彼女を抱きしめることすら僕には出来ない。深い絶望感に包まれた。姉が死んだときと同様か、それ以上の。


 僕は亜希子が落ち着くまでの一時間弱、黙って彼女の隣に座っていた。

 なんでだろう、僕の世界では、こんな悲劇は起きないと思っていた。それなのに、現実はなんでこんなに残酷なのだろう。亜希子が何をしたというんだ。なんで亜希子がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。ちくしょう。ちくしょう。僕はこの怒りを何処にぶつければよいのだろう。


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