第23話

 ぼおっと病室の天井を見上げているところに母親が現れたのは夕方だった。仕事を早退してきたのだろう。真っ青な顔をしていたが、僕の様子を見ると安心したのか、安堵の表情を浮かべ近寄ってきた。

「よかった……。心配したんだからね。頭打ったって聞いたけど大丈夫なの?」

「下向くと痛いけど、大丈夫」

 僕の表情を覗き込む母の瞳には涙が溜まっていた。なんかその様子を見て、ふと、母親が急に小さく見えた。

「本当に心配したんだからね」

「ごめん……」

 母がハンカチで目を押さえているのを見て、僕は初めて事故にあったんだという実感がわいた。姉が事故に会った時も母はこうして会社を早退して病院へ行き、そして動かなくなった姉を見たのだ。母の頭にあの時の思いが浮かばないはずはなかった。

 違ったのは、僕は奇跡的に軽症で済んだということだろう。自転車はフレームが曲がってしまってお釈迦様になったのだが、僕は少し擦り傷を作ったくらいで済んだのだ。

 検査のため一泊の入院という形になったが、多分なんともないだろうと思う。逆にショックでIQが飛躍的に上がったりしないかなという馬鹿な考えが浮かんだくらい僕は呑気だった。

 母の涙は僕を反省させたが、初めての入院に少しだけ興奮していたのも事実だった。勿論母親には言わなかったが、大きな怪我もなく元気だし明日学校を休めるのもちょっと嬉しかった。自分の事ながらつくづくガキだなあと思った。

 しかし、母親が帰り、お泊り会みたいな高揚感も二時間も経てばなくなった。ひま。ひま。ひまである。消灯時間は早いし、カードを買ってもらえなかったからテレビは見れないし、同室のジジイのいびきがうるさいし。ナースはおばさんだし。ついてないなあ。なんて考えていたら全然眠れなかった。

  

 次の日。味の薄い朝食を取り、売店で買った漫画雑誌をベッドでごろごろしながら読んでいたら亜希子が来た。

「ノブ! ごめんなさい!」

 開口一番叫ばれ、びっくりした僕はベッドの上で正座する勢いだった。相部屋のいびきのうるさかったおじさんが何事かとカーテンを開けてこちらを覗いた。

「私が昨日突然呼び出したせいでこんなことになっちゃって……」

 正確に言うのならば、亜希子の約束を忘れて女の子と食事をしていた上によそ見して携帯をいじくりながら自転車に乗っていたから起きた事故なのだが、そうとは言えないよな。やっぱり。

「そんなことないよ。それに、無傷に近いしさ」

 本当に、そんなことはないのだ。逆に心配させてしまった罪悪感のほうがが強い。

「良かった。お母さんがね、ノブが交通事故で入院したって話を陽子さんから聞いたなんて言うから、てっきり重傷なのかと思って……」

 そうか、だからそんな大げさに花なんかを持ってきているのか。母ちゃんが悪いのか久恵ちゃんが悪いのか。いや、僕が悪いんだろうな。

「全然平気だよ。検査結果も異常無しっていうし。母ちゃんが来たら帰れるんだけど。昼過ぎだっていうからさ」

「よかった……」

 昨日の母親みたいに亜希子は泣きだしそうな顔になっていた。相部屋のおじさんはずっとニヤニヤしながらこっちを見ている。気恥ずかしくなった僕は、表に出よう、と亜希子を連れて部屋を出た。


 行く当てもなかったが、一晩中辛気臭い病院にいたので少し風に当たりたかった。病院の玄関を抜けるとむわっとした風が吹いた。

「わざわざごめんね。お見舞いに来てもらっちゃって」

 僕らは病院の庭に出た。テニスコートくらいの大きさの庭には花壇が並び、ベンチがいくつか置いてあり、パジャマ姿の患者さんが新聞を広げていたり、車椅子の老人が花を眺めていたりした。僕らは端のベンチに腰掛けた。

「この前ノブんちに行ったときさ、アキ姉のことでノブに言ったじゃない。事故はノブのせいじゃないって。覚えてる?」

 忘れるわけない。

「ノブが昨日事故にあったって聞いて、私のせいだと思った。もしもノブに後遺症とか残るようなことになったらどうしようって」

「ピンピンしててなんか逆にごめん」

 おどけて見せると亜希子は笑った。 

「ホント、心配させるだけさせといて。でも、よかった。なんともなくて」 

「学校もサボれたしね。俺もよかった」

 二人で笑った。

「私さ。偉そうに、アキ姉の事故で責任を感じなくていいってノブに言ったけど、あんなの自分がその体験をしてないから言えるような勝手な綺麗事だったんだ」

「ううん、そうじゃないよ。あっちゃんの言っていることは間違っていないと思う。ただ、最後は自分なんだよね。姉ちゃんを殺したと思うか、不幸な事故だったって思うかは。俺は、あっちゃんと話して初めて姉ちゃんと、ちゃんと向き合えたんだとと思う。それまでずっと逃げてたから」

 亜希子は頷いた。相変わらずジーパンに長袖シャツ姿。薄手ではあるがもう真夏だ。絶対に暑いと思う。

「俺は、自分のせいで姉ちゃんが死んだと思う。誰に言われてもそう思う。あっちゃんは違うって言ってくれるけど、それは俺自身が死ぬまで背負わなきゃいけない業なんだと俺は思うんだよね。それが俺ができる姉ちゃんに対しての償いなんだよ。きっと」

 温い風が亜希子の髪を揺らした。亜希子は黙って聞いていた。僕の意見に心から賛同してくれているのかはわからなかったが、亜希子は神妙な面持ちで頷いた。

「ノブがそう思って納得できるのだったら、私からは偉そうに何も言えない。でも本当無事でよかった」

 亜希子は本気で僕を心配してくれていたんだな。嬉しくなった。でも、同時に僕は亜希子に言わなきゃいけない事があったのだ。

「それより、俺、あっちゃんに謝りたかったんだ。あの日、無神経に皆があっちゃんに話しかけるようなことを言っちゃった。本当にごめん」

 早口に言い切り、頭を下げる。やはり下を向くと、まだ少し頭は痛むが、耐える。亜希子が何か言うまで頭を上げる気は無かった。

 しばしの沈黙のあと、亜希子は口を開いた。

「そのことね……。ノブ。私言ったよね。学校じゃ誰とも話したくないって」

 固い口調。怒りを感じる。

「本当ごめん」

 頭を下げたままもう一度謝る。亜希子は黙っている。やっぱり僕のせいで学校に来れなくなったんだ。いい加減下げっぱなしの頭が悲鳴を上げている。

「ウソ」

 亜希子がふふふと笑った。

「はあ?」

 顔を上げる。急に動かしたせいで頭が痛む。亜希子はくすくすと笑っていた。

「ど、どゆこと?」

「だから、ウソ。ノブのせいじゃないよ」

 亜希子は笑顔だった。でもどこか違和感を覚える。いつもの笑顔なのに。

「ノブも今言ったでしょ。全部自分なんだよね。確かにあの日に私はノブのせいだって思ったよ。ノブが余計なことしなければ私はあのままクラスにいれたのにって。でも、それって意味あるのかな。あそこで、あのまま誰とも話さずにクラスにいるのって何か意味があるのかなって、そう思ったんだ」

「じゃ、許してくれるの?」

 僕が訊ねると亜希子はまた笑った。

「許すとか許さないとかじゃないよ。ノブは私のことを思ってしてくれたんでしょ」 

「それはそうだけど……、じゃ学校辞めないよね?」

 亜希子は首を横に振った。戸惑いは無かった。

「ノブには悪いけど、学校は辞めるよ」

「なんで!?」

「それは……、ごめん」

 亜希子は黙ってしまった。心に冷たい風が吹いたみたいに寒くなる。亜希子は心を閉ざしてしまった。そう思った。違和感を感じた笑顔の意味がわかった。あの笑顔は仮面なんだ。本心を隠すための。

 亜希子は何か隠している。僕にはやはり言ってくれないのかな。せっかくお見舞いに来てくれたのに、こんな時に学校の話なんかしなければ良かった。そう思ったとき、亜希子が立ち上がった。思いつめた顔をしていた。大きな瞳が揺れる。

「ごめんなさい、帰るね」

 亜希子は身を翻して走り去ろうとした。

「待ってよ!」

 咄嗟に僕は彼女の腕を掴んだ。その瞬間、彼女は僕の手を激しく振り放った。

「触らないで!!」

 悲鳴にも似た叫び。明らかな拒絶だった。これほど露骨な否定を亜希子にされるとは思ってもみなかった。

 だが、驚いた表情をしていたのは僕だけではなかった。

 亜希子も立ち止まったまま動かなかった。彼女も自身の行動に驚いている様子だった。拒絶された手前、僕も近寄ることも出来ずにただ彼女の横顔を見つめていた。

 亜希子の瞳から涙が溢れるのが見えた。

「ごめんなさい」亜希子は再びそう言うと顔を抑えてしゃがみ込んでしまった。僕はおろおろしながらも亜希子に近づいた。出来るだけ穏やかな声で語りかける。

「あっちゃんは何にも悪くないよ。俺のほうこそ、あっちゃんがどれだけ辛いのかもわからないで偉そうにしてごめん」

 亜希子はしゃがんだまま泣いていた。

「あっちゃんが、辛いことがあって、もう学校行きたくないって言うなら、俺がどうのこうの言う資格なんて無いよね。そこまで追い詰める気持ちは無かったんだ。本当にごめん」

 亜希子の中で何かが壊れてしまったんだ。僕が壊してしまったのかもしれない。昨日に続いて今日も女の子を泣かせてしまった。 

「ごめんなさい、ごめんなさい」と亜希子はしゃがんだまま丸まった背中で繰り返した。

「ノブは違うって分かってるのに……。ごめんなさい」

 何の事を言っているのだろうか。亜希子は何も謝らなくていいのに。

 僕もしゃがんで亜希子と同じ目の高さになる。亜希子が落ち着くのを黙って待つ。

「ゴメンね。わけわかんないよね、突然泣き出して」

 嗚咽がようやく止み、亜希子は鼻をすすった。

「大丈夫?」

 僕が聞くと、こくりと亜希子は頷いた。

 庭の外ではせわしなく動き回る看護師、サイレンを鳴らして入ってくる救急車。ここは生と死の交差点なんだな。

「ノブ、私の話、聞いてくれる?」

 僕は頷いた。何を話すのか、表情でなんとなくわかった。亜希子も何かに向き合おうとしているのだろう。

 過ぎ行く救急車を横目に僕たちは立ち上がった。

「もし、体が大丈夫だったら後で私の家に来てもらっていいかな」

「うん」

「じゃあ、先帰るね。こんな赤い目してたら陽子さんにノブが怒られそうだから」

 硬い表情だったが亜希子は笑った。

「大丈夫だよ、一緒にタクシーで帰ろうよ。暑いし」

「ううん、大丈夫だから。また、後でね」

 亜希子は今度は振り向かず歩いていった。



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