第18話

「まだ寝てたの?」

頭上で響く声。

 顔を背けるように寝返りをうつ。寝ぼけ眼で枕元の目覚まし時計を見る。まだ七時半じゃないか。ダッシュで自転車をこげば八時に出れば間に合うんだから。


「ノブ。先行くよ?」


 ノブ?その声に飛び起きた。 


「あっちゃん!?」


「朝メール送っても返事ないから来たんだけど。こんなことだと思った」


「母ちゃん!起こしてよ」

もう既に食事を終わらせている母親に不満をぶつける。


「起こさなかったんじゃなくて起きなかったんでしょう」


 母親は食後のコーヒーをすすりながら言う。くそばばあ。


「先行くよ」

亜希子がスタスタと玄関へ向かって歩き出す。


「ちょ、ちょっと待ってよ」

大慌てで準備する。制服に着替えて、ネクタイをしようと思ってやめる。丸めて鞄に入れた。そんな悠長なことしている場合じゃないんだ。


「早くしてよ」

玄関で亜希子がせかす。

 髪の毛は寝癖だけどまあいいか。玄関で靴を履く。


「顔洗った?」


 眉間に皺を寄せて亜希子が言う。


「洗っていいの?」


「置いてくけどね」

 非情な娘だ。


「じゃあいいよ、このままで」


「歯は?」


「ガム噛むからいい」


 呆れたというふうに亜希子はため息をついた。


「もう、やってきなよ。待っててあげるから」

 やれやれと亜希子は玄関に座った。


「おー。サンキュー」


 洗面所に駆け込む。母親が僕の代わりに亜希子に謝っているのを背中で聞きながら歯を磨く。


「大丈夫だよ。こんなことだろうと思っていつもより早く家出たし」


 亜希子の声。やっぱり全然信用されてないなぁ。


「そういえばあっちゃんさ……」


 母親の声が急に真面目にそして小さくなった。内緒話をするように。僕には歯磨き音のせいで母親が何を話しているのかは聞き取れなかった。


 外は快晴って程でもないけど曇天って程でもない。形容しづらいくらい普通の晴れ。

 ただ、もう夏なんだっていうのは蝉の声でわかる。駅まで十分くらいだけど、亜希子と一緒に歩けるのは嬉しかった。昔を思い出す。そういえば、昔も姉ともども亜希子に起こされていたような気がする。

 本当に僕はなんで亜希子のことを忘れていたんだろう。

 駅に着くと、どちらからともなく会話を終えて別々の乗車口から電車に乗った。

 いつか、学校まで一緒に歩けるといいな。僕は亜希子には言わないけれど、そう思っていた。そして学校でみんなと打ち解けて、普通に楽しい高校生活を送れるようになって欲しい、そんな勝手な期待をもっていた。

 でも、それは叶わなかった。

 この二人の通学はこの日限りだったのだ。

 正確に言えば、亜希子が西高に来たのはこの日が最後だった。



 二時間目が終わった段階で、僕と亜希子の通学はクラス中に知れ渡っていた。

 世間は狭いっていうけど、本当に狭いみたいだ。僕の家から駅までの道のりを他クラスの噂好き生徒に見られたらしい。

 夏休みまで残り少ない話題も乏しいこの時期。野球で例えるなら消化試合をこなす最下位球団のように弛緩していたクラスは、僕と亜希子の話題で一気に優勝争いに躍り出たかのように色めき立った。

 この時、僕が火消しに奔れば亜希子が学校に来なくなるという事態にはならなかったかもしれない。しかし、全ては後の祭りだ。

 僕はこの時、好機だと思ってしまった。判断を誤ったのだ。僕はゆくゆくは亜希子がクラスに溶け込んで欲しいと勝手に思っていて、だから、好奇の目に晒された時に、誤解を生むようなことを口走ってしまったのだった。何様のつもりだろう。僕は亜希子の何を理解したつもりになっていたんだろう。僕は亜希子の保護者気取りだったのか。

 この馬鹿野郎の自分本位なお節介が彼女の心を傷つけることになったんだ。


「明信。お前さんにも春が来ましたな」

 クラスの中でもあまり関わりたいとは思わない竹中が臭い顔を近づいてきた。

「……」

 僕は無視をしようとした。

 しかし、竹中は僕の机に勝手に座り動こうとしない。不細工な上にデリカシーもないからモテないんだよ。

「この、色男。いったいどういう経緯であの柳川系と親しくなったんだよ」

 くちゃくちゃとガムを噛んでいる。いくらごまかしたってヤニ臭さは消えないのに。

「……」

「おい、無視かよ」

 竹中はその細い目を更に細めて眉間に皺を寄せ、身を乗り出してくる。

「まあまあ、同じ中学なんだからさ、電車とかも一緒になるじゃん。そしたら普通は話したりもするんじゃない?」

 隣の席の禎はなんとか険悪な空気を和らげようとしてくれているのだが、その表情は引きつっている。

「あ? お前こいつらのことで何か知ってることあんのかよ」

「いやいや、俺は何も知らないけど」

「じゃあ黙ってろよ」

 禎は腰が引けていた。言葉に詰まり反論はできなかった。

「おー明信、体操着のズボン貸してくれー。ってどうした?」

 その時、熊倉正也が能天気な顔で教室に入ってきた。正也は忘れ物ばかりする。そのたび僕に頼ってくる。

 僕と竹中、そしてそれを遠巻きに見つめる他の生徒の異様な雰囲気に正也は気づいたようだ。

「なんだ? じゃまだったか?」

 わざと大きな声で竹中に尋ねる正也。

「いや。じゃあ明信、あとで聞かせてくれよ」

 竹中は机から飛び降り自分のグループの輪に戻っていった。

「なんだあいつ。おい、明信。喧嘩でも吹っかけられたのか?」

「なんでもないよ」

 ぶっきらぼうに答える僕の横で禎は、安堵の表情。

「そうか? ならいいんだけどよ。あ、それよりお前さ」

 正也は僕の肩に手を回し耳元で囁いた。

「笹井さんと朝歩いてたんだって? なんかうちのクラスの合田が言いふらしてたぞ。あの女、五十過ぎの暇な主婦みたいにあること無いこと言うんだ。気をつけといたほうがいいぞ」

 忠告はありがたいが、もう手遅れになっている。

「もうみんな知ってるよ」

 僕はむしゃくしゃした気持ちで答えた。

「ん? みんな知ってる?」

 正也は首を捻って考えていたが、すぐに意味を理解できたようだ。

「なるほどな、竹中の野郎、そういうことか」

 正也はクラスの隅で仲間とへらへら笑っている茶髪の竹中をキッと睨みつけた。

「マサヤ、いいんだよ。俺が中途半端なことするからいけなかったんだよ」

 正也は小さく舌打ちをして僕のほうに向き直った。

「笹井さんは?」クラスをぐるりと見渡して正也が聞く。

「……」

「体調崩して早退……」

 禎がちらちらとこちらを伺いながら正也に答える。禎が気を使ってそんなことを言ってくれているのは分かっている。登校時に元気だった亜希子が急に体調が悪くなるものか。僕のせいだ。

 黙って僕を見つめていた正也が口を開く。 

「明信。放課後、多摩川集合な」

 やけに真面目くさい顔になった正也は、そう言い残すと僕の返答も待たずに教室を出て行ってしまった。

 僕はズボンのポケットに手を突っ込んで椅子に座りなおした。僕は苛立っていた。くそったれな自分に。

 少しすると正也がバツの悪そうな顔をして戻ってきた。ぽりぽりと頭をかきながら近寄ってくる。

「明信。体育着、貸して」

 僕はポケットに入れてあったロッカーの鍵を正也に投げた。

「サンキュー。じゃ、後でな」



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