第5話

 女の子の家に入るなんていつ以来だろう。深い闇の底に沈んでしまっている古い記憶を手繰り寄せる。


 そういえば、幼い頃に家族ぐるみの付き合いをしていた女の子がいたな。彼女も僕の家と同様に母子家庭であったためか、保育園で母親同士が仲良くなったのだった。

 その子は僕の一つ年上で、よくお互いの家に泊まりに行ったり来たりした。今にして思えば、母親たちがお互いに子育てから少しの息抜きをする為だったのだろう。

 今、あの子はなにしてるんだろう。引っ越してしまったんだっけな。思い出せない。仲が良かった友人も、時が経てば忘れてしまう。僕は中学に上がるときに引っ越したのだが、疎遠になってしまった小学校時代のクラスメートを出席番号順に思い出そうとしても途中で分からなくなってしまう。結構、クラス全員と話していたはずなのにな。人間の記憶なんて曖昧だ。まあ、僕はただでさえ当時の記憶が曖昧なのだから仕方ないと言えば仕方ないのだが。


「で、何をやってるの?」


 亜希子の言葉にハッとする。昔のことなんか思い出してる場合じゃない。遂に亜希子が帰ってきてしまったのだ。さっさと帰ればよかったと後悔する。無表情の亜希子の口から発せられたその冷たい物言いに、どことなく責められているような心苦しさを感じた。


 何をやっているのか?


 確かに亜希子の言うとおりだ。僕は話したことも無い女子の家だというのに、両鼻にティッシュを詰め込んでいったい何をやってるんだろう。

 自分でもわかんないよ。


「えっと、今日さ、職員会議でミスターが来れないからってさ。代わりに届け物頼まれたんだよ」


 出来るだけ平静を装って言う。


「あ、そうだったんだ。ごめんね、わざわざ」


 亜希子は申し訳無さそうに頭を下げた。

 あれ、普通だ。亜希子の表情も学校の時と違う。近寄るなオーラは出ていない。自然体だ。なんだ、怒ってるわけじゃなかったんだ。胸を撫で下ろす。責められているように感じたのは気のせいだったみたいだ。


「いいよ気にしないでさ。俺んち近いしさ」


 亜希子の表情にびくびくしていた自分を情けなく感じながらも、努めて無神経を装って笑ってみせる。

 今まで学校で一言も話している所を見たことがなかった亜希子が思いのほか普通に話している。いつもの警戒心みたいなものも感じない。まるで別人みたいだ。 


「笹井って結構普通に話すんだな。俺、初めて声聞いたよ」


「えっ?ああ、そうかな?」


 とぼけた表情を見せて亜希子は姉の隣のソファに腰を下ろす。


「あれ? てか、あんた大学は?」


「い、行こうとしたら山井クンがドアの前で鼻血だしてんだもん、放ってはおけないでしょ!」


 慌てていいわけをする亜希子の姉。


「別に出したくて出してたわけじゃないんすけど……」

 口を挟んでみたのだが、亜希子の姉に睨まれて尻つぼみに俯いてしまった。


「ふーん、で、結局行かないの?大学」


「え? 大学? うーん、なんか面倒くさくなっちゃってるんだよね。実際」


「いいんだけどねー。どっちでも」


「そうだろ、出席とか取らない授業だしねぇ……」


 うんうんと頷いていた姉だが、亜希子から軽蔑の眼差しを向けられている事に気づいたようだ。


「……けど、やっぱり行くべきかなぁ」


 亜希子の表情を伺いながら姉は方向転換。亜希子は何も言わない。黙ったまま冷ややかな視線で姉を見つめている。


「行くべきだよな。うんうん、わかったよ、わかりましたよ。行きますよ。行くからその目はやめてくれい。ああもう面倒くせえなぁ」


 文句を言いながら亜希子の姉は部屋を出て行った。


「面白い人だね」

 二人になった部屋で僕は言った。


「変なだけだよ」


 亜希子がぶっきらぼうに言うので思わず笑ってしまった。


「そうかもね。でも笹井だって最近学校休んでたじゃん。人のこと言えんのかよ」
「私? 私は仕方ないんだよ。父親が死んだからね」


「え?」あまりにあっさりと亜希子が言ったので、その意味が一瞬わからなかった。


 死んだ?父親が?

「通夜とか葬式とか色々あってね。別に行かなくても良かったんだけど」


「あ、そうなんだ、ごめん……」


「いいのよ、形だけの父親だったから」

 沈黙。またしても気まずい雰囲気になってしまった。


 形だけの父親ってどういう意味だろうとか、あの元気な姉ちゃんは行かなかったのか、とか色々瞬時に疑問は浮かんだが、そんなことは聞けなかった。聞けるはずもなかった。


 亜希子がおもむろにチャンネルを変えた。

 テレビに映し出されたのは再放送のドラマだ。

 テレビが二人の無言をぼやかしていた。亜希子は会話がないことは別段気にならないようで、学校にいるときと同じように文庫本を広げている。


 流石学校で一言も話さないだけのことはある。


 僕はといえば、気まずい気持ちでテレビを眺めていた。


 何度か見たことのあるドラマ。そういえば最近この俳優見なくなったな、などと思ってしばらくの間画面を見ていたが、よくよく考えてみたら封筒は既に渡したし、いつまでも長居する必要はない。さっさと帰ろう。腹も減っているし。


 僕はタイミングを計るようになんとなく亜希子が読んでいる文庫本に目を向けた。次の瞬間、自分でもびっくりするくらいの雄叫びにも近い声を上げてしまった。



「おお!笹井その小説好きなの?」

 
『孤独鬼』亜希子が手にしていた本のタイトル。著者は本神リューヂ。そうなのだ。亜希子が手にしていた文庫本は僕が好きな作者の小説だった。

 様々な趣味嗜好の中でも特に好きな小説家が同じというのは一気に親近感が増す。それがベストセラーを連発するような作家ではない場合はなおさら。

 突然大声をあげられ、いささか驚いた様子で亜希子は顔をあげた。

「っくりしたぁ。なによ?」


 驚いたというよりは突然大声をあげられてイラッとしたような言葉尻だったが、僕は興奮していたのでそれには気がつかないふりをした。


「本! その本! 本神リューヂっしょ? 好きなの?」


「え?ああ、うん、好きだよ」


 亜希子は何か納得したように頷いた。その亜希子の返答は相変わらず素っ気ないものだったが、僕はといえば前述のように亜希子に対して勝手に親近感を感じていた。


「いいよね! 面白いよね! なんだ、笹井も好きだったんだあ」

 僕は本神リューヂの著書は殆ど持っている。そのくらい好きなのだ。残念なことに友達にその面白さを分かち合える者はいなかったけれども。友人にも勧めてみたが残念ながら誰も興味を持たなかった。

 僕の友達は小説なんてあまり読まない連中ばっかりだ。若者の活字離れ、とかテレビで言ってるけど、やっぱりそうなのかもしれない。こっちがどれだけ面白さを熱弁しても、みんな一様に読むヒマがないとか言いやがって。

 正也に至っては授業中に読むとすぐ寝れるから逆に貸してくれと言い始める始末。
 だからこそ、僕は本神リューヂの本を読んでいる亜希子に親近感を覚えたのだ。


「じゃあさ、金毘羅団は?」


「CD持ってるよ」


 おお! とまた僕は歓喜の声をあげた。


 金毘羅団とは正式名称を『魁!金毘羅団』といい、本神リューヂがヴォーカルを務めていたロックバンドだ。


 バンドのヴォーカルが作家になることは多い。元々歌詞を書いているので文才がある人も多いのだろう。本神リューヂの場合は逆で作家がバンドを始めたのであって、よって歌も上手くないのだが。

 彼の独創的な世界観の歌詞と、メンバー全員が作曲することによってポップ、ロック、ファンク、メタルと節操がないと揶揄される程の楽曲の幅の広さ、またその一貫性のなさがコアなファンに人気のバンドであった。言い換えれば一般ウケはしないので、チャートに顔を出すことは、ほぼない。


 しかし、それがより一層カルトなファンを作り出している要因でもあったようだ。

 売れないミュージシャンの趣味が合うというのはとても、とっても親近感が沸くものなのだ。


「笹井もしかして結構なファン?」


「まあまあ、かな」


 文庫本から目は話さずに亜希子は答える。亜希子と自分には随分と温度差があるのはわかっていたが、金毘羅団を好きな同世代がいた事に興奮が抑えきれなかった。今まで誰とも出来なかった内容の会話が出来るのだ。


「俺も俺も!俺も昔から聞いてんだよね」


 競うように声を上げる。


「知ってるよ」


 亜希子は興味無さそうに言った。知ってる?なぜ?


「え?なんで?」


 聞くと亜希子ははじめて本から目が離れた。言い訳を探すよう亜希子の目は泳いだ。


「いや……、クラスで男子とそんなような会話してたよ」


 亜希子はそう言うと顔を隠すように本に目線を戻した。


「そうだっけ?」


「うん。盗み聞きしたとかじゃなくってさ。君、自分じゃわかんないかもだけど、結構声大きいんだよ」

「はぁ、それはごめん」


「別に気にしてないけど」


 自分ではそんなに大きい声のつもりないんだけどな。

 僕はさっきまで早く帰ろうと思っていたのに、今は亜希子に興味を持ち始めていた。


「笹井、何が本神リューヂの本で何が一番好き?」


「うーん」と少し考えて亜希子は答えた。

「冬の雨、かな」

「マニアックだねー。結構救われない結末じゃん、あれ」

「そうかな、私は十分幸せだと思うけどね」

 わかる人にしかわからない会話。でも、すごい楽しいぞ。 

「あれ持ってる?冬の雨のイメージアルバム」

 昔、雑誌の懸賞で当たる金毘羅団の非売品CDがあったことを思い出した。


「うん持ってるよ」


「すげー! よく当たったな! 俺も応募したけど外れちゃったんだよね」


「限定100枚だっけ」

 亜希子はまた文庫本に目を戻している。


「そうそう! へえ、いいなあ、当たったんだ、俺見たこと無いんだよね」

「ふうん」亜希子はすぐに集中して本が読める人みたいだ。上の空で返事をしている。

「うらやましいなあ、うん。ホントうらやましい。見てみたいなぁ」

 ようやく僕の意図に気づいたのか、本から目を離して苦笑した。

「持ってこよっか?」

「いいの?」大げさに驚いてみせる。


「うるさくて本読めないもん」


「やったー!」


 取ってくるね、と言って亜希子は席を立った。笹井ってぶっきらぼうだけど意外と良い奴じゃん。

 と、同時に僕自身も違和感なく亜希子と話せていることにも少し驚いた。

 話した事のない女子と一対一で会話をするなんて、いつもは緊張するのに。

 もしかしたら、僕は亜希子と気が合うのかもしれない。もっと早く話していればよかったなと、思いつつも、今日まで会話などしたくもないと思っていた自分に少し後ろめたさを感じた。


 でも、なぜ亜希子は学校では誰とも話さないのだろうか。今の亜希子は普通の女の子にしか見えない。いつもの近寄るなオーラもでていない。


 謎だ。もしかしたら僕が気づいていないだけで彼女は誰かにイジメられているのかもしれない。それで誰も信用できなくなって学校では心を塞いでいるのだ。今日はたまたま自分のテリトリー内だから素の表情が出ているだけなのだ。

 そう考えてみると、僕は心が少し痛いような気持ちになった。

 自分は学校では騒いだりなんだりして仲間と楽しくやっているのに、笹井はいつも一人ぼっちで自分の世界に閉じこもっている。

 それはどんな気持ちだろう。


「ちょっと!まだいんの?」


 廊下から亜希子の怒鳴り声が聞こえてきた。


「わぁってるよー、今行こうとしてたんだよ」


 続いて姉の声。玄関先から漫才のようなかけあいが聞こえてくる。

 姉妹の会話に頬が緩む。

 そうだ、そうだよな。たとえ学校に友達がいなくて居場所がなかったとしても、学校だけが人生の全てではない。

 学校と言う場所だけが自らの存在意義を証明する場なのではない。僕ら学生は一日の大半を学校で過ごすから忘れがちになるが、学校以外にだって世界は広がっている。そう、居場所はどこにでもいくらでもあるのだ。


 しばらくして亜希子が戻って来たので表情を元に戻そうとしたが、ぶっきらぼうな亜希子が怒鳴ってる所を想像してしまい結局笑ってしまった。結構面倒見の良いお母さんになりそうだ。


「何笑ってんのよ?」


 亜希子は訝しげに尋ねる


「いや、会話が面白くてさ。いいな、きょうだいって」
「何言ってんの」

 亜希子が突如険しい顔つきになる。

「え、何が?」

「自分だっているでしょ?」

 怪訝そうに僕の顔を見る。心拍数が上昇する。なんでだ?

「だ、誰かと勘違いしているんじゃない? 俺、きょうだいとかいないよ」

「なんでそんな良くわかんない嘘つくかな」

 不満げに首を傾げ僕にCD渡してきた。 


「あ、ありがと」


 亜希子はこちらを見ることもなく元いたソファに戻った。

 現在はネットオークションで高値がつくこともある程のレア物だ。興奮しないはずがない。しないはずがないのだが、僕は心臓をわしづかみされた気持ちだった。


 強張った表情をうまく崩せない。亜希子は確かに言った。

 僕にきょうだいがいると。

 なんでコイツがそんなことを言うのか。

 ありえない。


 だって僕にきょうだいなどいないんだ。

 ……いないことになっているのだ。それなのに何故……。


「ネェ、忘レチャッタノ? 私ノコト」


 ふと耳の奥から声がした気がした。

 僕は急激に乾いた喉に麦茶を流し込んだ。氷は既に溶けていて麦茶は生暖かくなっていた。


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