第12話

 僕は姉の事を思い出していた。


 山井晶子、享年十五歳、交通事故だった。

 あれは僕の心の一番暗いところに沈んでいる記憶。

 思い出したくない、思い出せない記憶。

 慌ただしく集まってきた親戚たち。線香の匂い。泣いている姉の同級生たち。


 十二歳の僕は、その一連の儀式の最中、ずっと震えていた。

 通夜の時も葬式の時も母親の後ろに隠れるようにひっつき、ただずっと足元を見ていた。

 なんであの時、僕は震えていたのだろうか。あの時の僕は悲しみより恐怖を抱いていた。

 何に? 覚えていない。思い出せない、思い出したくない。

 式場の床のタイルの白さと、通夜の席での乾いた寿司。そして、あの得体の知れない恐怖だけが今も心の奥で消化されずに残っている。

 気がついたら、姉の死から幾月か経っていた。知らない街で、新しい生活が始まっていた。姉が死んでからの数ヶ月の出来事がすっぽりと記憶から欠落していた。それだけではない。姉が居たころの記憶ですら、思い出せなかった。

 新しい学校、初めての制服。まるで初めから姉などいなかったように、世界は回っていたのだった。

 気がつけば周りには友人がたくさんいた。中学入学当初はつまはじきにされていたのに。気がつくと当たり前のように友達がいた。

 今思えば、充実していた。作り笑いは苦手だったのだが楽しいことがあれば笑う事はできた。

 次第に僕は姉のことなど、初めからいなかったように思い始めたのだった。姉の居た日々は遠く記憶のそこに沈んでいく。もう、誰にも引き上げられないように。

 中学の仲間は誰も僕にきょうだいがいたなんて知らない。僕も過去の話なんてしなかった。そうするとだんだん自分でも、もともと一人っ子だったような気がしてくるのだ。なぜ、姉を忘れようとしてしまったのかは分からない。

 姉のすぐ怒鳴るあの声も、肩まで伸びた真っ黒なストレートヘアも、母の日に一緒にカーネーションを買いに行った事も、レストランのドリンクバーでメロンソーダばかり僕に取りに行かせることも、ケーキを買うとき絶対にモンブランをねだることも、全てがまるで遠い夢のように感じるようになった。

 しかし、忘れた頃になると、決まって夢の中にあの女が現れた。

 暗い道で僕が立ちすくんでいると遠くのほうで彼女が「ノブ」と僕を呼ぶのだ。


「私ガ死ンデ、ナンデ、アナタガ生キテイルノ……」



 遠くから呼ばれているので、顔は判別できない。姉かどうかなんてわからない。だが、夢の中の僕はすぐに気づく。そして僕は恐怖で動けなくなる。

 僕のことをノブと呼ぶのは姉の晶子だけだった。姉弟とも「アキ」で始まる名前だったから、姉は僕の名前の後ろの文字を取ってノブと呼んでいたのだ。

 夢に出てくる女は血にまみれた体をじたばたと動かし、血の跡を地面に残しながら這っては、僕にこう言うのだ。



「ノブ、私ノコト忘レタノ?」


「ノブ、ナンデアンタダケガ楽シク生活シテイルノ」

「ノブ、アンタノセイデ私ハ……死ンダンダヨ」


「ノブ、許サナイ。絶対ニ許サナイ」



 僕は汗だくになって飛び起きる。


 そして、ごめんなさいごめんなさいと布団にくるまり許しを乞うのだった。



 しかし、時は平等に降り積もる。人が入らない部屋に埃が溜まっていくように。

 高校に入ってから、しばらくあの夢を見ることは無くなっていた。同時に姉のことを思い出すことも皆無に等しかったのだ。


 熱にうなされてなかなか寝付けなかった。無理してプールに入ったからなのか。体温はぐんぐん上がっていた。

 あの時、僕は亜希子に晶子の霊が乗り移っているのかと本気で考えてしまっていた。

 馬鹿馬鹿しい。漫画の読みすぎだ。今思えばなんて恥ずかしい醜態をさらしてしまったんだろう。 

 考えてもみろ。普通に考えて有り得ないではないか。友達の友達にだったら霊感が強い奴はいるが、実際、僕の知り合いには霊感が強いという奴はひとりもいない。僕自身、霊なんて今まで一度だって見たとことはない。


 そうだ。亜希子は晶子のふりをしているのだ。そうして僕を意地の悪いいたずらでからかっているのだ。絶対にそうだ。間違いない。

 でも、なんでだろう。原因も目的も分からない。何か怨みでもあるのだろうか。……無いはずだ。

 それとも驚かすこと自体が目的だったのだろうか。ならばそれは成功と言える。僕は亜希子の目論見どおり錯乱した。思い出せば思い出すほど、ただただ恥ずかしい。

 ついこの前まで僕の世界には笹井亜希子という人物は存在しなかった。同じクラスにいたとしても、認識していなければいないのと同義だ。それが、このたった一ヶ月の間で僕の世界の大部分を亜希子に占拠されてしまった。

 笹井亜希子とはいったい何者なのか。


 蔦巻中学校に三年の七月に転校してきた。時期としては妙だ。ただ、親の都合ならば仕方がないと言えなくもない。確か母子家庭だといっていた。母親は亜希子と亜希子の姉の二人を養うために急な転勤にも文句が言えなかったのかもしれない。

 中学時代、いやごく最近まで亜希子とは一言も口を聞いたことがなかった。僕は亜希子の存在自体を知らなかったし、彼女も僕とは話したことはないと明言していた。

 中学校は一学年に五クラスもあったが、なんだかんだ他のクラスの生徒とも関わりはある。顔と名前が一致しない生徒も多少はいるが、完全に存在を知らない生徒などほぼいない。だが、誰とも話さない亜季子なら、それはわからない。

 そして、中学の友人は一人も僕に姉がいたことを知らないのに、今まで一度だって話したことのなかった亜希子が僕に姉がいた事実を知っていた。一番の疑問はそこだ。

 なぜなのだ。

 過去にどこかで会っていて、その時に僕が姉のことを口走ってしまったのだろうか。だけど、それなら僕が亜希子のことを忘れるはずはない。仲の良い友人だからこそ話せないという事柄も世の中にはあるが、得たいの知れない人に気軽に話せるほど僕の中であの出来事は消化されていない。それに、僕自身も不思議なくらい当時の記憶がないのも事実だ。

 亜希子は僕のことを姉の晶子しか呼ばなかったあだ名で呼んだ。「ノブ」と。

 いや、待てよ、姉しか僕の事をノブと呼ばなかったのは間違いないが、僕のことをノブと呼ぶ姉を亜希子がどこかで見ていたのだとしたら、僕のことをノブと呼んでもおかしくはない。

 いや、だめだ。すこし考えてそれはないと確信する。亜希子は姉の死後三年も経ってから転校してきたのだ。姉が僕をノブと呼ぶところなど見ていたはずがない。


 いったい、亜希子は何者なのだろうか。

 やはり、亜希子は姉の晶子なのではないのか。そんな馬鹿げたことが有り得るはずがないのだが、頭の中のもう一人の自分はそう言っているのだ


 違う。晶子は死んだんだ。もういない。死んだ人間が蘇るなんて映画や小説の中だけだ。


 ならば、なぜ晶子と思わせるようなことを言うのだ?

 わからない。悪質な悪戯に決まっている。けど、それこそ何のために?



 考えが堂々巡りになっていることに気づく。


 わからない。結局考えているだけでは何も分からないのだ。

 ベッドに寝転がる。明日学校行けるかな。暑い。暑い。寒い。

 僕は眠りにつくまで亜希子のあのべとっとした視線が頭から離れなかった。




「ネェ、忘レチャッタノ? 私ノコト」



 遠くで少女がどろっとした瞳で見つめている。暗闇でその人物が誰なのかわからない。這いつくばる彼女は髪が垂れ下がっており、表情をうかがうことは出来ない。ただ、何故か真っ赤な瞳をしていることだけはわかる。

 アキコだ。僕は直感する。

 目の前にいるのは紛れもなくアキコだ。


「私が死んだ時もノブは泣かなかったもんね」


 アキコが言う。

「ノブのせいで私死んだのよ。忘れたなんて言わせないから」


 アキコが言う。

「ほら見て、まるで糸が切れた操り人形みたいでしょ、手も足も醜く折れ曲がっちゃった哀れな操り人形よ。腐ったトマトを潰したみたいに痣だらけよ。とっても痛かったのよ」


 アキコが言う。突如、目の前の少女が、どんっと鈍い音と共に宙を舞いアスファルトに叩きつけられた。ぐしゃっと折れ曲がった少女は動かない。割れた頭から流れる血が灰色のアスファルトを染める。


「違うよ!僕のせいじゃない!」


「ノブ。あんたのせいだよ。あんたのせいで私は死んだんだよ」


 倒れていた少女がギクシャクと蜘蛛の様に身体をくねらせる。

 そして、まるで人間とは思えない動きで地面を這い近づいてる。

「違うよ、僕のせいじゃない!」


 僕は後ずさりするが、ぐにゃぐにゃと纏わりつくアスファルトに阻まれて思うように動けない。

「ノブ、なんでノブだけ楽しく暮らしているの?」

 もぞもぞとアスファルトを這いそれは近づいてくる。

「違うんだよ!僕じゃないんだ!」

「明信、あんたがお姉ちゃんを殺したんだよ」


 後ろから声をかけられ振り向く。そこは通夜の席。母親が泣きじゃくり叫ぶ姿。
「母さん違うんだよ!僕じゃない、僕じゃない!」


「お前だよ、お前だよ、明信!!」


 体を揺すられる。


「違う!俺じゃないんだよ!」


「いやいや、ヤバいって!お前だよ、明信!」


 机を揺り動かされて目を覚ます。隣の席の禎が体を揺すっていた。

「ん……」そこがなんの変哲もない、いつもの教室だと気づくのに少し時間がかかった。自分が夢を見ていたことに一瞬気がつかなかった。


「お…、やべ、寝てたわ」両手を広げて大あくび。


 まさか、学校ですらこの夢を見るとは思わなかった。中学の頃以来見ていなかった嫌な夢が最近毎晩のように現れる。それも当時より格段にパワーアップして。



「怖い夢だったなぁ」


 僕の呟きに反応する者がいた。


「怖い夢か。まあ、現実も怖いことばかりだからな。予行演習という意味では怖い夢も悪くないのかもしれんがな」


「へ?」目をこすりって声のする方を見る。自分の机のすぐ前に何かがある。灰色だ。灰色の布だ。いやスーツ。あれ、スーツ着てる奴なんかクラスにいたっけなぁ……、ああ、スーツ着てんのって生徒じゃなくて教師だよね。ってヤバくないかそれ。


「グッドモーニン、明信くん。良い夢見れたかね?」


 後悔したが後の祭りだ。見上げていくとそれは勿論生徒ではなく担任のミスターだった。


「いやぁ、おかげさまで……」


 応え終わる前に教科書で頭を叩かれる。 

 ドッと湧く教室。


「まったく、テスト終わったからって担任の授業で寝るなよ」

 呆れたようにミスターは言った。

「前の授業から寝てましたよ、明信」

 禎が余計なことを言う。

「もっとダメだな」ばしっと再度叩かれる。また教室が沸く。苦笑いしながら教室を見渡す。窓際の亜希子は何も聞こえていないのか、つまらなさそうに窓の外を見つめていた。



「罰として今日のプリント集めはお前な。後で準備室に持ってこいよ」


「はい、すんません」

 僕は素直に頭を下げた。


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