第2話

「今日も笹井は休みか」


 
朝のホームルームで出席を取っていた担任のミスターがぽつりと呟いた。


「こまったな。休んでる笹井にプリントを持って行ってくれる奴はいないか。明日までに提出のプリントなんだがな」


 ミスターは教室内を見渡していたが、気まずい沈黙の中で、手を挙げる生徒はいなかった。


 新学期が始まってもう二ヶ月も経っている。

 新しいクラスの親睦と結束を図るために催された球技大会も終えた六月、それまでのぎくしゃくした教室内の雰囲気はほぐれ、クラスにもそれなりに一体感が備わってきていた。

 それは良いことなのだが、生徒達がだらけてくるのもこの時期だ。

 かく言う僕も最近、遅刻気味になっている。


 朝だというのに教室には弛み切った空気が漂い、生徒たちは気怠そうに一日の始まりを迎えていた。でも、それも見慣れたいつも通りの朝だった。

 いつもと違う点を探せば、窓の外が快晴だったことくらいだろう。久しぶりに顔を出した太陽が生徒達のシャツを眩しく照らしていた。

 西高の愛称で呼ばれる都立西玉川高等学校は、東京都と神奈川県との境界線でもある多摩川のほとりにある普通科の高校だ。

 部活動で優秀な成績を収めるでもなく、偏差値もお世辞にも高いとは言えない。要するに特筆すべき点のない、どこにでもある一般的な高校だ。宣伝文句に困ったのだろうか、近隣の中学校に配る学校案内のパンフレットには「豊かな環境と個性を尊重する自由な校風が売り」と印刷されている。物は言いようだ。

 その自由な校風が売りの西高は服装に関しても規則はゆるく、色つきのシャツや、ブレザーの下にパーカーを着込むといった制服の着崩しにも寛大であった。よって、衣替えという言葉は何の強制力も持っていない。特に寒暖の差がある今のような梅雨時期には夏服と冬服の生徒が混在することになる。

 とはいえ、今日のこの暑さの中、冬服のブレザーを着てきたのは隣の席のただしくらいだったけど。


「そうだ。それはそうと、お前たちに悪いお知らせがあったんだ。昨日、生活指導の山田先生が風紀の乱れに関して怒っていたぞ。別に髪の色は個性だからいいと思うし、制服の着崩しもお前ら的にはお洒落なんだろうから、それは別にいいんだけど、女子はスカート短すぎるんだよ。目のやり場に困るからやめろ」


 女子から「へんたーい」という笑い声が飛んだ。 


「うるせえ。で、本題はこっちだ。煙草の吸殻が男子トイレにあったらしい。それだけは辞めろ。俺はこのクラスの生徒が犯人だとは思っていないが、一応言っておくぞ。あのな、自由ってのは何をしてもいいってことじゃないんだからな」


 真剣な表情のミスター。

 確かに自由、個性というものほど不確かなものはない。学校側の求める個性と生徒が主張する個性では、同音異義である。言葉は同じでも中身は別物なのだ。生徒が認めて欲しい個性というのは、教師にとっては幼稚な我儘でしかなく、教師が求める個性というものは、生徒にとっては枠にはめられる事でしかなく窮屈でしかない。自由という言葉も同じだ。

 僕は髪も染めていないし煙草を吸う様な不良じゃないが、個性を外見に求める生徒達の気持ちは理解できる。自分は皆とは違うという虚栄心を振りかざしていないと不安なのだろう。

 頭が良いわけでもスポーツができるわけでもない。そういう生徒が外見に個性を求めるのは仕方のない事なのだ。不良ぶっていてもまだまだガキなんだ。


「個性というのは確かに大事だ。こんなこと言ったら山田先生に怒られるけど、煙草だって吸いたきゃ吸えば良いと思う。体にはひとっつも良くねえけどな。ま、自己責任だ。だけど、学校で煙草吸ってバレたらどうなるか位は自分の頭で考えろよ。お前らまだまだ若いんだから馬鹿なことで人生棒に振るんじゃないぞ」



 ミスターは一限目の授業の教師が既に廊下にいる事に気付き、そそくさと話をまとめ、足早に教室を出て行った。僕はぼんやりと去っていくミスターを眺めていた。

 担任の『ミスター』というのはもちろんあだ名で、名は永島という。なぜミスターと呼ばれているのかは、僕自身も詳しくは知らないのだが、永島は生徒からミスターと呼ばれ親しまれていた。軽い性格でいい加減な男のように見えるけど、生徒から見れば歳も近いし兄貴分のような存在なので好かれていたのだった。


 まだ二十代のミスターは毎年生徒が夏服の白いシャツになるのを見ると嬉しくなるという。未来が輝いて見えるのだそうだ。

 白いシャツというのは十代の汚れなき精神や、精力に満ち溢れた健全な肉体などの象徴であり、それさえ着ていればそれこそ部活少年も不良もガリ勉もオタクだって同じ様に輝いて見えるのだ、とミスターは言う。だから学生らしくない柄物のシャツは着るなとも言う。


 だけど、僕自身はそういう言葉は大人の勝手な綺麗事だと思う。

 『高校生』という言葉の響きだけを耳にすると、上る太陽が朝露に濡れた若草を照らしだすような清々しい場面を思い浮かべてしまうが、現実はそんなに美しくない。

 世の高校生達全員が部活、勉強、友情、恋愛などなど、そんな万人が思い描く華やかな高校生活を謳歌しているわけなど無いのだ。

 決して僕が部活に入ってなくて、彼女もいない童貞野郎で、勉強も出来ないから、ひがんで言っているわけではない。……ホントだ。

 光は壁にぶつからなければ反射しない。闇があるから光の存在を肯定できる。学校生活において、部活や恋愛などが光だとするならば、不登校、いじめなどは闇であろう。残念ながらどんな学校にも光も闇も存在しているのだ。進学校だろうが不良校だろうがそれは同じことだ。

 勿論、西高にしたってそうだ。いじめは存在する。それがどの程度重大な問題なのかは分からない。現時点でそこまで大事になるような問題は僕の学年では起きていないが、誰だって自分より弱い立場の者を嘲笑の対象とすることによって精神の安らぎを得られるのだから、いじめはきっとなくならない。

 皆、居場所を探している。何処にいれば自分が優位に立てるのか、作り笑いを浮かべながら窺っている。部活内で、クラス内で、委員会内で。いい意味でも悪い意味でも自己の価値を証明するには人との繋がりは必要不可欠なのだ。

 相対的な幸福感に人間が支配されているのは揺ぎ無い事実だと思うんだ。自分だけの、他人を顧みない絶対的な幸福なんて、なかなか無いのだ。僕はひねくれ者なのだろうか。


 一日の授業が終わり禎と下駄箱に向かっている時のことだった。


「おーい、山井ちょっといいか」


 名を呼ばれ振り返るとミスターがこちらに近づいてきていた。普段はかったるそうな顔をしているミスターが、思いのほか真剣な表情をしていることに僕は戸惑った。そして反射的に身構えてしまった。

 最近何か怒られるようなことをしたっけな。

 一緒に立ち止まった禎は首をかしげている僕とは違い、振り向きもせずに硬直していた。


「ホルモンだ……」


 禎はそう微かに呟いた。一瞬なんのことか理解できなかったが、禎の硬い横顔を見ていてすぐに思い出した。

 あれは先週のことだった。


「ホルモンを食べよう」と禎は昼休みに突拍子もないことを言い出した。


 禎は僕を連れて誰もいない理科室に忍び込むや、得体の知れない肉の入ったビニール袋を懐から取り出して不敵に笑った。

 クラスの連中からも、後先考えない馬鹿と評される禎は理科室に備え付けられている実験用のバーナーを片手に持ち、あろうことか机の上にアルコールランプの液体を撒き、生肉を並べ始めた。僕は正気の沙汰とは思えない彼の行動を止めようとしたのだが、風が吹くように唐突に馬鹿をする、とクラスでも評判の禎の素早さに僕の制止は間に合わなかった。

 机の上に青い炎を撒き散らした禎。案の定、机の上には火柱があがった。自業自得の馬鹿なのだが。

 慌てに慌てた僕らは消火活動もせずに一目散に逃げ出した。たまたま次の授業で理科室を使用するクラスの生徒が小火の段階で発見したことで事なきを得たのだが、その日一日はこのぼや騒ぎで学校中がもちきりだった。幸運なことに目撃者がいなかったので、このホルモン事件の犯人は公式には謎のままだった。 


「良かったー。まだ学校内にいて」


 ミスターが近づいてくる。理科室放火騒ぎ事件は現場に残された奇妙な肉片のせいでオカルトチックに噂が広がっていたが、僕達に疑いの目を向けられることもなかった。ミスターが知っているわけがない。と思いながらも胸の不安は高まった。


「お、俺部活行くわ。じゃあな」


 黒焦げになったホルモンみたいに硬くなった禎は固まったまま恐る恐るミスターとは逆の方向へ歩き出した。ギターを背負った禎が小さくなっていく。一瞬、僕も逃げようかとも思ったのだが、考えてみるとホルモンを持ってきたのも机ごと丸焦げにしたのも禎なのであって、僕自身は無関係なのだ。身の潔白を証明するためにも迂闊な行動は取らないほうが身のためだと考え直した。


「ミスター、なんか用ですか」


 身構えたまま尋ねる。ホルモン事件のことではなく、僕が思い出せないだけで他に何か怒られるような事があったかもしれない。

「そんな警戒した顔するなよー」

 ミスターは僕の表情から何か読み取ったのか意識して明るく笑った。どうやら、怒られるわけではなさそうだった。かんぐる僕を尻目に両手を合わせお願いのポーズをとるミスター。


「なあ山井、悪いんだけどよ。帰りに笹井んち寄って、この封筒を渡してきてくれねえかな」


 ミスターの口から発せられた言葉は予想だにしないものだった。

 ミスターはおもむろに懐から封筒を取り出した。
「笹井……?」

 笹井って同じクラスのあの笹井亜希子のことか。あのクラスで一番浮いているあの笹井亜希子のことか。

 僕は戸惑った。あの誰とも喋らない不気味な笹井亜希子の家に行けとミスターは言っているのか。


「そうだ、よろしく頼む」 


 当たり前のようにミスターは言う。


「なんで俺なんだよ! 嫌だよ! 自分で行けよ」


 僕は高らかに拒絶した。関わりたくない。あんな奴と。僕は面倒なことはしたくない主義なのだ。勘弁して欲しい。

 僕は彼女と仲良くしたことはないし、一度も話したことないんだぞ。

 今、脳味噌を総動員して、彼女の顔を思いだそうとしても、つまらなさそうにたたずむ彼女の後ろ姿を微かに思いだせる程度だった。

 話す機会は今までなかった。席も近くなかったし、彼女は地味だったからだ。

 そうだ、初めは地味な子という印象だったんだ。でも、二ヶ月も同じ教室にいると段々と気がついてくる。彼女は地味ではあったが目立たない生徒ではなかった。他の生徒と雰囲気が違った。彼女が纏うのは暗闇の如き全てを食らい尽くす負のエネルギーだった。

 ミスターは人差し指を口元に持っていき、静かに、とジェスチャーした。



「山井、蔦中つたちゅう出身だろう。同じ中学だったんだから、家も近いだろ。俺これから職員会議で抜けられないからさ。頼むよ。明日の昼飯は特別に教員用の出前食わせてやっからよ」


「え、笹井って蔦中だったの?」


 僕は笹井亜希子と同じ中学校だったという事実をこの時初めて知った。ミスターは僕と笹井亜希子が同じ中学校出身という理由で、プリントの配達係を押しつけてきたらしい。


「間違いない。というより、同じ中学の奴を覚えてないって言うほうが異常だぞ」


 確かにそれはそうだけど。 


「ともかくだ。よろしく頼むよ。天丼な。明日天丼の出前とってやるから」


 頼むと言いながら、ほぼ強制である。


「面倒くさいなぁ」


 そう言いながらも天丼という言葉に心は揺らぐ。

 ミスターがやたらと小声で頼んでくるのは何か大事な書類なのか、単に生徒に仕事を押しつけるのを他の人間に知られたくなかっただけなのかわからないが、兎にも角にも、僕は彼の言葉に乗せられてしまった。


「分かりました。上天丼で手を打ちましょう」


「てめえ、足元見やがって。くそ。仕方ない」


 ミスターから封筒を置け取る。渋い顔をして去っていくミスターを眺めつつ、僕は明日の昼食が楽しみだった。

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