第3話

 白いワイシャツさえ着ていれば光り輝いて見える。と永島が表現した我がクラスのなかで、一箇所だけ訂正しなければいけない箇所がある。

 この教室の隅、正確に言うならば窓側の後ろから二列目だ。そこには異質な闇がある。

 それが訂正箇所であり、笹井亜希子という生徒だった。

 彼女は誰とも口を聞こうとしない。自分の殻に閉じこもっているのか、誰かに話しかけられても言葉を発することは無い。

 クラス替えしてからこの二ヶ月、その様子は徹底していた。

 僕の所属する二年一組は問題児も少なく、どちらかといえば仲の良いクラスであるのだが、その中で亜希子だけが異彩を放っていた。同じ十七歳の高校生とは思えないほど諦観の漂ったどろりとした瞳。固く結ばれたまま永久に開かないのではないかと思える唇。

 新学年になってからの二ヶ月間、笹井亜希子が誰かと話しているところを見たことがない。 

 今はもう、誰も笹井亜希子に干渉しない。彼女はまるで空気のような存在になっていた。誰もが彼女をいないものとして生活していたのだ。

 だが、それは無視しているとか、いじめているといったものでは決してない。

 なぜなら僕たちが笹井亜希子から、そうするように強制されているといっても過言ではないからだ。彼女は誰とも接触しようとしなかったし、もっと言えば明らかに拒絶していた。

 人間、理解出来ないものが一番怖い。幽霊にしたって夜道で突然下半身を露出する変質者にしたって、要するに何を考えているのか分からないから怖いのだ。

 皆、心の奥では何を考えているのか分からない笹井亜希子に対して恐怖心があるようだった。だから、誰も彼女に話しかけないのだ。

 そして、それは僕とて同じこと。僕もクラスの連中と同じように、触らぬ神に祟り無し、と距離をとっていた。

 それなのに。それなのに。


「ったくなんで俺があいつんち行かなきゃならないんだよ。ミスターの奴、職務怠慢だろー」

 携帯電話スマホの向こう側へ不満をぶちまける。

「自分で引き受けたんだろ。天丼ごときで買収されやがって」

 携帯電話の向こうから響く低い声の主は熊倉正也だ。彼とは去年は同じクラスだったが、今年は別クラス。でも、ほぼ毎日つるんでいる悪友だ。悪いことばっか誘ってくるんだから困った奴なのだが、悪い奴じゃない。

 交換条件で昼飯を食えるのだから文句は言うべきではないのだが、こうも暑いと愚痴の一つでも言いたくなる。

 五日ぶりの太陽は、頭上で輝きを放ち灼熱地獄を創造していた。さすが偉大な太陽様だ。梅雨に入ったばかりだってのに何か勘違いしているんじゃないのか。出番は約一ヶ月はない予定なんだけどな。僕は湧き出る汗を拭いながら炎天下の中、自転車を漕いでいた。

 今日は午前授業だったから、バイトまでの時間を正也とゲーセンにでも寄って過ごそうと思っていたのに、放課後の廊下でミスターに捕まったのが運のつきだった。


「で、明信は俺とのゲーセンの約束を蹴ってまでその女子の家に行くんだな。卑しい奴め」

「いやいや、俺だって行きたくて行ってるわけじゃないんだけどさ」

「ホントかよ、結構うきうきしてんじゃねえの? その笹井って子は明信とオナチュウなんだろ?」

 正也は冷やかすように言ってくる。約束をすっぽかされたのと、僕が女子の家に行くことに対してのやっかみなのだろう。

 ちなみにオナチュウというのは『同じ中学校』の略。高校入学当初「オナチュウ」という言葉が行き交ってるのを聞いた時、意味がわからず、僕はエッチな言葉だとばかり思っていた。まだ誰もがクラスに慣れていない頃、趣味思考のわからない男たちと手っ取り早く打ち解ける為の話題と言ったら、下ネタだったからである。男とはとても単純な生き物なのだ。

 しかし、女子もこのいやらしい響きの言葉を使っているのを聞いて、どうやら自分が思ってる意味とは違うらしいと気がついたのだった。なんでもかんでも略すればいいってもんじゃねえよ、と当時は思ったのだが……。


「オナチュウはオナチュウだけどなぁ、話した事もないんだぜ。クラスも違ったしなぁ」


 そう、今となっては何の抵抗もなくこの略語を使用していた。すぐ周りに流される。我ながら情けないと思う。しかし、そういった新しい言語に対する拒否反応のなさも高校生くらいまでだろう。年を重ねれば重ねるほど略語や新語に抵抗感を覚えるものだ。

 僕もじいさんになったら、最近の若いモンの言葉使いはなっちょらん、なんて言い出すんだろうな。多分。



「これを機に仲良くなっちまえばいいじゃんか。羨ましいなぁ、女子ん家かぁ。なあ明信、その笹井さんって子可愛いのか?」


 正也はまた見当はずれのことを言っている。どうやら彼は笹井亜希子の事を知らないようだ。まあそうだ。同じクラスだって話した人間がいないくらいなのだから。


「ダメダメ、可愛いとか可愛くないとかって以前の問題だよ。変な奴だよ。まったく喋んないし暗いし。なんつったっけ、皆がよく言う、アレだよ。柳川系って奴だよ」
「うわ、マジかよー、柳川系かー。そりゃご愁傷様」


 どこにでも身内にしかわからない隠語があるように、西高にも西高生徒だけに通じる言葉がある。柳川系という言葉は何を考えているか分からない、ちょっと危ない生徒たちのことを指しているのだ。

 何年か前に西校に柳川君という生徒がいて、いじめられっ子だった彼は、ある時、逆上してカッターナイフを振り回し五人もの生徒を負傷させたという。


 その事件以後、いろんな系統の危ない奴をひっくるめた総称として柳川系という言葉が使われ始めたらしい。上下関係のある体育会系の部活で新入生が上級生からこの話を教えられる図式が成り立っているようで、色々な柳川系伝説が西高には存在する。

 僕は柳川系という言葉は滅多に使わない。柳川系という言葉に差別とか侮蔑とか、そういうニュアンスが感じられるからだ。

「柳川系には気をつけろよー、あいつら何考えてんのか全くわかんねーからな」


 正也は電話の終わり際に怖がらせようと、低い声を更に低くして言った。


 柳川系は怖い。これは共通認識だ。三組の仁田君はいつもニコニコしているのに自分の机にいつも彫刻刀で「殺」とか「死」とか物騒極まりない文字を彫っているらしいし、四組の田島さんは情緒不安定で何か不満があるとすぐに自分の手首を切るらしい。

 僕がこの目で見たわけじゃないし、真偽の程は分からないが、そんな強烈な話を聞かされてしまうと皆が怖気づくのも仕方ないと思う。


 僕は少し不安になった心を抱えながら笹井亜希子の家に向かった。並木道の日陰は太陽光線の直射を避けることはできるが、それでも気温は高いし湿気もすごい。六月でこの暑さなら真夏になったらどうなってしまうんだろう。頭のてっぺんくらい溶けるかな。そんな馬鹿げた想像をしてしまうほど暑かった。

 朦朧としながらしばらく自転車をこぐと、ミスターに教えられた通りの古いアパートが見えてきた。なんだ、本当に僕の家から近いじゃないか。

 編目のフェンスの奥は雑草が好き放題に生え、その奥にはレンガ調の茶色の壁がちらちらと見える。三階建ての集合住宅。『メゾン中町』笹井亜希子の家は302。


 自転車を適当に停めアパートの錆びた門を開けて敷地に入る。住人によって踏み固められた部分だけが獣道のように通路の役割を果たしていたが、空いたスペースには外からも見えているように好き勝手に雑草が生い茂っている。まるで食人植物の如き様相だ。

 小学校の学級文庫にあった怖い話の挿絵が頭に浮かんで、少し立ちすくんだ。むんむんと立ち込める湿気が不快さを増す。

 草木のせいか、先ほどの正也の話のせいかアパートは妖怪でも住んでいそうな雰囲気だった。

 恐る恐るポストを探した。ポストに封筒を入れてしまえば本人に会う手間も省けるし、わざわざ部屋の前に行く手間も省ける。

 集合住宅にはメインの玄関口に全ての部屋のポストが並んでいる場合が多い。それは郵便配達員などの苦労を減らすためのものなのだろうが、どうやらこのアパートには集合ポストはないようだ。


 古いアパートだし仕方ないか。


 集合ポストがないのでは直接部屋まで行かなければならない。しかし、エレベーターもないおんぼろアパートである。三階まで階段で上らなければならないのも嫌だったし、話した事もないクラスメートの部屋に近づくのも億劫だった。

 めんどくさいなぁ、と悪態をつきながら階段を上る。階段を上るだけで滝のように汗が出る。三階まで辿り着き廊下を歩き、ようやく笹井と名札のついた部屋の前まで来た。

 プリントの届け先が話したことのある生徒だったら麦茶のいっぱいでもせびるところだが、今回は呼び鈴を鳴らす気はなかった。別に笹井亜希子という生徒を嫌っているというわけではないし、話した事がないだけで言葉を交わせば案外いい奴なのかもしれない。

 そういえば正也を初めて見た時も、目つきの悪いとっつきにくそうな奴だと思ったんだ。こいつとは仲良くなれそうもないなと。それが今では毎日のようにつるんでいる。話してみたら意外と気が合う、というのは意外に多いんだよな。

 でも、そうはわかっていても、僕は柳川系の生徒と関わりたいとは思わなかった。僕は柳川系だといって馬鹿にしたり、からかったりはしない。だけど、率先して仲良くしようという気もなかった。先程の正也の言葉が頭に浮かぶ。



(柳川系には気をつけろよー、あいつら何考えてんのか全くわかんねーからな)


 確かにそうだった。何を考えているのかわからない奴は怖い。わざわざ持ってきてくれたのねん、などと変に好印象を持たれるのも嫌だったし、教師に良いように使われやがってと思われるのも嫌だった。僕は傍観者でありたいのだ。誰かが話しかけて、皆と交流を持つようになったら、その時は話してもいいと思う。僕はズルイ人間だ。


 鞄から封筒を出す。ドアの中央のはめ込み式のポストに手を伸ばす。見るとカタログのような冊子がポストから半分ほど頭を出していた。

 嫌な予感がした。

 見ると冊子はポストに無理やり押し込まれていた。他に入れるスペースなど無いほど無理やりに。

 後から入れる人のことも考えてくれよ。

 厄介だ。どうしたものか。少し考えてはみたものの、無い頭を捻っても何も出てこない。結局は隙間に無理やりねじ込むことにした。

 僅かな隙間を狙って力を込めるが、封筒は固い冊子とポストの鉄枠との板挟みで入らない。何度やってもダメ。

 既に封筒の角はひしゃげかけている。ならば、一旦カタログを取り出して先に封筒を入れればいいんだと思い、カタログを引っ張ってみるのだが、やはりびくともしない。カタログの配達員め。集合ポストがない事に対しての憤りをこのポストにぶつけやがったな。

 僕はそれでも呼び鈴を押すという発想には至らなかった。


 中学は同じだといっても笹井亜希子とは話した事もないし。そうでなくてもあんな無口な奴、下手したら自分とはこれからも関わることはないんじゃないかな、そう思っていた。

 なんとか、挟みさえすればいいんだ。多少折れ曲がったって構わない。読めりゃいいだろ、読めりゃ。

 封筒を丸め、ドアの前にしゃがみこむ。力が入りやすい姿勢になったのだ。ワイシャツを腕まくりする。指の関節を鳴らす。


 よっし、力任せだ。無理やりでもなんでもいいや、ねじ込もう。そしてとっとと帰ろう。


 そう思ったその時、ガチャンと頭上で音がした。


「へ?」


 僕が間抜けに顔を上げたのと、めいいっぱい力強くドアが開けられたのはほぼ同時であった。

 目の前の鉄製の扉が迫ってきた。

 そして、鈍い衝撃と共に辺りは真っ暗になって真っ白になった。上手く説明は出来ないけど、鼻が取れちゃったんじゃないかなって思うくらい痛いことだけは確かだった。

「ありゃ? あんた……、誰?」


 うずくまる僕に、不思議そうな顔をして若い女が問いかけてきた。薄目で見る。ショートカットの女。笹井亜希子じゃないのだけが不幸中の幸いだった。

「あ、亜希子さんのクラスメートっす……。担任にこれ渡してって言われて……」


 震える手で封筒を差し出す。痛みでこぶしを握り締めてしまったせいで封筒はぐしゃぐしゃだった。


「あ、そりゃサンキュ。亜希子の……。てか、大丈夫?なんかヤバそうな音したけど……」


 あんたのせいだよ! とは勿論言えなかった。


「大丈夫っす……。あの、自分帰りますんで、それお願いします……」


 痛みよりも早くこの場を去りたいという気持ちの方が強かった。

 出てきたのが笹井亜希子本人ではなくて幸いだったが、うかつにこの場に留まれれば本人に見つかってしまう。気づかれたくないとか柳川系と関わりたくないとか何とかってのもあるんだけど、なにより今の俺、すっげーダセぇじゃん。

 ふらふらと立ち上がる。


「待って!」


 方向転換して帰ろうとした所で腕を掴まれた。ひんやりとした細い指。どきりとして振り返る。


「君さ…、亜希子の友達?」


 期待のこもった眼差しに目を合わせていられなかった。


「いや、すんません、あんまり喋った事ないっス。家が近かったんで、それ持ってきただけっス」


「そっか……、亜希子あんなんだもんね」


 彼女は溜め息をついた。笹井亜希子の学校内での態度を知っているようだ。


「ちょっと今時間ある?」


「え?いや、ちょっと用事があって……」


 嘘ではない。夕方からコンビニのアルバイトだ。用事がなかったとしても、あまり長居して笹井亜希子にこの場を目撃されることは避けたかったが。


「ちょっと……、でいいんだけどさ」


 上目遣いの大きな瞳が潤んでいる。本気で妹を心配しているのだろう。二十歳くらいのボーイッシュなお姉さん。女子大生だろうか。よく見るとちょっと美人だ。そんな目で見られたら帰るに帰れないじゃないか。

 でも、面倒事に巻き込まれるのはごめんだ。やはり、ミスターの頼みなんか断れば良かったんだ。後悔してももう遅いけど。せめて明日の昼は特上天丼にしてやろう。そのくらい当然の権利だ。


「すみません! 失礼します」


 軽く会釈してくるりとターン。


「あのさ!」

 彼女が僕の背中に声をかける。駄目だ、振り返るな。それが賢明だ。

 二三歩進んだところで再び彼女が声をかけてきた。

「いやさ、君。思いっきり鼻血出てんだけど。あんまりそのまんまで帰らない方がいいと私は思うんだけどさ」

「へ?」


 予想外の一言に鼻を拭うと右手は真っ赤に染まったのだった。

 後ろでは彼女の高い笑い声。ああ、なるほど、さっきの彼女の潤んだ瞳のよく意味がわかった。

 泣くほど笑うなよ。

   







 

 

 

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