第14話
結局、なんの対策も立てられないまま日曜日は訪れてしまった。亜希子が普通の女の子だったら、どんなに今日が待ち遠しく感じられただろう。クラスメートの女子が家に来るというのは一大行事なんだけどな、普通は。
なんであの日、僕は簡単に家に来ることを了承してしまったんだろう。後悔するが、あの時はほとんどパニック状態だった。今冷静に考えれば、即答せずとも良かったのだが、あの雰囲気がそれを許してはくれなかった。
今日までの数日間、約束自体を断ってしまおうか、そんな思いが何度も頭をよぎったのだが、それはできなかった。
カッコ良く言えば、一度交わした約束を断るのが男らしくないと考えたからなのだが、亜希子が怖かったというのが恥ずかしながら本音だ。
そう、僕は蛇に睨まれた蛙状態なのだ。何も出来ないまま生きた心地のしない数日間を過ごし、ついに日曜日がやってきてしまったのだ。期末試験が終わっていて本当によかった。この精神状態じゃただでさえ低い点数がさらに下がってしまうところだった。
朝、いつもよりすこし遅めに起きて、シャワーを浴び朝食をとった。いつもどおりの休日。意識して出来るだけ普段通りにすることで気持ちを落ち着かせようとしたのだ。
亜希子は何が目的なのだろうか。僕の母親に会いたいと言っていた。なぜだろう。誰にも相談できずにいると不安は心の闇を栄養にものすごい速さで肥大化する。いつも通りの精神状態なら考えもしない最悪な展開が頭に浮かび蓄積していき心を重くする。
テレビをつけ休日特有の面白くもない情報番組を眺める。亜希子は昼過ぎに来るとか来ないとか。もう正午を十五分ほど過ぎている。
もういっそ逃げ出してしまおうか。もうどうにでもなれと半分やけになっていた。そしてもう半分の心は既に逃げ出している。対策を考えることからも僕は逃げ出しているのだ。
母親が洗濯物を抱えて来た。ベランダに洗濯物を干し始める。そういえば母親に亜希子が来るということをまったく言っていなかった。
怖かった。今回の件に関しては母親さえ僕の味方でいてくれる保障がもてなかったから。
「母さん、今日友達来るから」
出来るだけ平素を装って伝える。
「えー! ちょっとそういう事は早く言ってよね。熊倉君?」
パンパンとティーシャツの皺を正しながら母が声を上げる。
「いや、笹井亜希子って子」
「え?」母は勢いよく振り返った。
洗濯物も一緒にこちらを向く。
「女の子……よね?」
「そうだよ」
そんな名前の男どこにいるんだよ。テレビを見つめたまま答える。母親の浮き足だった表情が横目に映る。
「いつ来るって決まったの?」
「火曜だったかな」
「最近あんた変だよ。いっつもボーっとしてるし。シャキッとしなさい」
「そっかなあ」
ぶっきらぼうに答える僕へ母親の視線はずっと注がれている。
「恋?」
吹き出しそうになる。これが恋だったらどんなによかっただろうか。刑事ドラマと異世界ファンタジー映画くらい両極端な発想に少し笑いそうになった。
「ちがうわい」
でも、変な話ではあるが、いい意味で肩の力が抜けた。母親はなにやら期待と不安の入り混じった表情。何かを勘違いしていそうな母親は無視することにする。
「明信ももう高校生だもんね」
母親の穏やかな笑顔。
「どーいうことだよ!」
声を荒げてしまった。
「晩御飯食べてってもらおっか、何がいい?」
「いらないよ!」
暴走し始めないかとヒヤヒヤする。
「何時くらいに来るの?」
「昼過ぎとか言ってたけど」
昼過ぎね、と母は呟いてから思い出したように声を上げた。
「あんた部屋は片付けないの?」
「別に大丈夫だよ」
全然大丈夫じゃないけど、亜希子の思い通りに事が進んでいるのが癪なので片付けていない。これはささやかな抵抗なのだ。
汚い部屋を見てげんなりして早く帰ってくれればいい。
「大丈夫じゃないでしょ、ちゃんと片付けなさい。そんなんじゃ、すぐ帰られちゃうわよ」
「いいよ、別に」
「よくない! ほら、さっさと動く!」
母親はさっきとは打って変わって凄い見幕でテレビを消した。
「わかったよ、掃除すっから」
僕はしぶしぶ席を立った。
掃除自体は嫌いじゃない。部屋が綺麗になっていくのは気分もいい。だけど、いつも部屋は散らかっている。こりゃ不思議だ。
うちのアパートは2DKだ。元々は三人で暮らす予定だったから個室は持てないはずだったのだが姉が死んでしまい、そのおかげで僕は一人部屋を持てることになった。勿論、嬉しかったという訳ではない。
床に転がる雑誌やゴミを拾い一旦勉強机に置く。とりあえず見える床の面積を増やしていく。しばらくすると床は殆ど綺麗になった。変わりにそれまで何もなかった机の上が物で溢れたが。
いいんだよ、別に勉強なんてしないし。
積もり積もって山と化した机の前で、僕は自分を納得させるように呟いた。
部屋を掃除していると、次からは絶対に使ったものはすぐ元の場所に戻そうと決心するのだが、気がつくと以前と同じように散らかってしまうのはなぜだろう。
多分、僕は部屋を片付けるという行為が好きなのだ。だから、いつも部屋が綺麗だったら片付けるという大好きな行為自体が出来なくなってしまう。そう、僕はいつでも部屋を片付けることが出来るように、いつでも部屋を汚しているのだ。こういうのを詭弁という。
脱ぎ散らかした衣類を拾い集め洗濯機に入れる。
「今日の洗濯もう終わっちゃったわよ」
その様子を玄関で見ていた母親が言う。
「いいよ今日洗わなくても」
「もう、脱いだらすぐカゴに入れなさい」
呆れ顔の母親に、はいはいと生返事を返す。
「母さんちょっと買い物に行くから、お昼は適当に食べてね」
時計を見るとすでに十三時を過ぎていた。やばい、もういつ来てもおかしくない時間になってしまっている。
母親はすでに玄関で靴を履いている。
「どこ行くの?」
部屋から顔をだし尋ねる。
「晩御飯の買い物、欲しいもんある?」
「酒」
「あほ」
母親が出かけちゃうってことは亜希子を一人で向かえなければならないわけだ。これは吉と出るのか凶と出るのか。
母親が出て行ったので、玄関まで行き鍵を締める。さて、一人っきりになってしまった。妙な心細さをかき消すため居間のテレビを再び点ける。
昼飯は何を食べようか。冷蔵庫を漁っていると突如としてガチャガチャと玄関の方から音がした。
扉を開けようとドアノブを動かす音だ。
一瞬ドキッとさせられたが、「明信開けてー」という母親の声。
冷蔵庫を閉じて玄関までいく。自分が驚いたことに少し腹が立った。
「忘れ物?」
「財布忘れちゃった」と母はドタバタ部屋へ戻った。
ドジだなぁと母親の後ろ姿を眺める。
「母ちゃん、食うもん何もないんだけど」
「冷凍庫にご飯があるよー」
部屋から出てきた母は僕にそう伝えると、入って来た時と同じようにドタバタと出ていった。
冷凍庫かよ。炒飯でもつくるか。戸棚から中華鍋を取り出していた時だった。
玄関の扉を叩く音。
ドンドンドン。ドンドンドン。
鉄製の扉は響きすぎるくらいに良く響く。
またしてもドキッとした。また母親だ。何回忘れ物するんだよ。
「はいはい」と不機嫌を前面に押し出した声をあげながら扉を開ける。
「こんにちは」
乱暴に開けた扉の向こうには、亜希子が立っていた。
「でたー!」驚いて後退りしてしまった。
「な、何よ、人を化け物みたいに」亜希子も僕の大声に驚いていた。
「い、いや、急に来たからびっくりして」
「私もびっくりしたよ!あんな乱暴に開けるんだもん」
「ご、ごめんね、母親かと思って乱暴に開けちゃった。大丈夫?」
「大丈夫。ちょっとびっくりしただけだから」
ついに亜希子が来てしまった。が、警戒していたファーストコンタクトがこんなんだったので、逆に緊張しないでよかったのかも。心臓は爆発するかと思ったけど。
「汚いけど、どうぞ」
とりあえず部屋に招き入れる。今日の亜希子はジーンズにチェック長袖シャツ、それに似合ってんだかわかんない野球帽。
相変わらず年頃の女の子とは思えない格好だ。
「明信くんちチャイム壊れてるんだね」
「そうなんだよ、ビービー鳴るだけのタイプだから、直さなくてもいいじゃないって母ちゃんがケチってんの」
「ふふ、お母さんらしいや」
亜希子の発言にも、もういちいち驚いてもいられない。どうにでもなれ。
亜希子をリビングに案内する。食卓には椅子が3つあって、それは僕と母親と死んだ姉ののものだった。
当然、晶子のものは使い手がいないので客が来たとき以外はほとんど新聞や雑誌置き場になっている。
亜希子はその席に座った。
「お母さんはいないの?」
キョロキョロと辺りを見渡す。
「買い物に行っちゃったんだ。そのうち帰ってくるよ」
「そうなんだ……」
「うん」
会話が途切れる。自分の家のはずなのに、亜希子が来た瞬間に慣れ親しんだ空間の色がみるみる変わっていくのがわかる。
この居心地の悪さはなんなんだ。亜希子は椅子に座っている。姉の椅子にしゃんと背筋を伸ばして、それでも固くなっているのではなく、ごく自然に座っている。そう、自宅でくつろぐように。
僕のほうが落ち着かず台所を行ったり来たりしている。これじゃどっちの家だかわからないよ。
何か話題はあったっけ。黙っているのは気まずい。でも、無理に話を振るより、無言のほうが気が楽だ。亜希子はテレビを見ているし。
「明信くん」
亜希子がこちらを向く。
「何?」
鼓動が早まる。何を言われるのだろう。必要以上に警戒しながら聞き返してしまった。
「お昼ご飯食べた?」
亜希子の表情も口調も、いつもの亜希子だった。あの不気味なオーラは微塵も感じさせなかった。
「今から食べようって時にさあ、君が来たんだよ」
おどけて答えながらも、亜希子の表情に内心ホッとした。今のところ明るい表情の亜希子だ。
「ごめんね、もうちょっと遅く来れば良かったかな」
「いいよ、気にしないで。笹井は飯食ったの?」
「うん、食べてきた。あのね、ケーキ買ってきたからみんなで食べようと思ったんだけど。でも、明信くんしかいないみたいだから。冷蔵庫にでも入れといてよ」
「まじ?サンキュー。何ケーキだろ?見ていい?」
箱を開ける。ショートケーキ、チョコレートケーキ、モンブラン、チーズケーキ。四つ。四つだ。
過去の記憶がふと蘇る。
(晶子、また四つもケーキ買ってきて!)
(いいの、お父さんの分だもん)
(また姉ちゃんそんなこと言って、仏壇に供えるのは十分くらいじゃん。結局自分で食うんだろ)
(ノブ、半分あげようと思ったけど、やーめた)
姉は死んだお父さんの分と言って、いつも一つ余分に買ってきた。頭の隅で埃を被っていた記憶がふとしたきっかけで浮き上がってきた。
「う、うまそーだな!」
動揺を隠すように大げさに喜んで冷蔵庫にしまう。
「俺飯つくるからさ、テレビでも見ててくんねえ?」
「いいけど、私テレビより明信くんの部屋見てみたいな。こっちが明信くんの部屋?」
いきなりの部屋見物。
「そうだけど、汚れているからあんまり入らないほうがいいかもよ」
「気にしないよ」
俺が気になるんだよ。
「変な所見ないでよ」
台所に立ちながらも意識は自分の部屋に入った亜希子に釘付けだった。
亜希子の姿は台所からは死角になって見えない。気が気じゃないよ。机の引き出しとベッドの下は見ないでくれよ。
「明信くん、卒業アルバム見ていい?」
本棚を見ているのだろう。あそこには変な物はないはずだから見られても構わないけど。
「笹井も持ってんじゃないの?」
換気扇の音に負けないように叫ぶ。
「小学校のよ?」
「ああそっちか。恥ずかしいけど、まあいいよ」
僕が炒飯を食べ終えて食器を片付ける間、亜希子は音一つ立てなかった。三十分以上小学校のアルバムを見ているなんて、そんなに面白いものではないと思うのだけど。
「笹井?」
部屋を覗くと亜希子は真剣な表情でアルバムを見つめていた。
「どうしたの?」
亜希子はパッと顔を上げ、笑顔に変わった。
「いやいや、別に。明信くん坊主だったんだ」
「ああ、笑っちゃうくらいダサいでしょ」
「うん、ダサいね」
よかった。今のところ亜希子は普通の女の子バージョンだ。雰囲気があの時とは全然違う。本当に同一人物なのだろうか。それとも、僕の思い違いか。
「おい! お世辞でも格好いいとか言ってくれよ」
僕も自然と軽口を叩く。
「私、嘘はつけない人なんだよね」
亜希子がふふふと笑う。爽やかな笑顔だった。
「て、てめぇ」
「冗談だよ冗談、可愛い子だったんだね」
「思ってないだろ」
「あ、やっぱりわかる?」
僕も亜希子のそばに行き一緒にアルバムを見る。亜希子がパラパラとページをめくる。無理しているのではないかと疑いたくなるほど不自然に明るくふるまう亜希子。まあそれは僕にしても同じことだ。
「ねえ、小学校の時の友達と今でも会う?」
「俺さぁ、中学に入るとき引越しちゃったからなぁ。行こうと思えば行ける距離なんだけど。あんまり会わないなぁ」
「そうなんだ」
「ほら、俺の隣で写ってる奴。田畑って奴なんだけど、小学校ん時は毎日遊んでたんだよ。この前さ、偶然会ったんだけど、全然話が合わなくてさ。また遊ぼうぜって言って別れたんだけど、なんか寂しいよな。そういうの」
「ふぅん。でも、覚えててもらえるだけ嬉しいじゃん。結構、忘れられてるもんなんだよ」
「確かにそうかもなぁ、もしかしたら駅とかで小学校のクラスメートとかとすれ違ったりしてんのかも。特に女子なんて変わりすぎ……」
自分で自分の言葉にハッとして亜希子の表情を覗き見る。自分の不用意さに舌打ちしたくなった。
「ふふ、忘れちゃうよね」
「そ、そういや、今日は明信くんって呼んでんな」 今日はまだノブとは呼んでこない。
「だって覚えてないんでしょ」
亜希子は不敵に笑う。
「全然思い出せないんだよね、ヒントくれよ、ヒント」
内心、激しく動揺しているのだが、能天気を装う。
しかし、亜希子の目は直視できない。
「もう充分過ぎるほどヒントはあげてるよ。本当はわかってるんじゃないの?」
「えーっと、はは。わかんないや」
言いあぐねていた。
「ふぅん。じゃ、最終ヒントです。昔、ノブが私を知っている頃の私は、笹井亜希子ではありませんでした」
驚きはしなかった。でも、怖かった。
「ははは、どういう意味だよ」
「考えてね」亜希子はアルバムを閉じて立ち上がった。
「あ、まだこれ使ってるんだ」
亜希子はアルバムを本棚に戻し、今度は机の奥にあるものを指差した。富士山もびっくりのゴミ山で埋もれている埃の被ったCDコンポ。
それは僕自身も覚えていないくらい昔から家にあったもので、購入した時ではそれなりにいい機種だったのだろうが、もう相当ボロがきていてテープの再生ができない。再生ボタンの破損が原因なのだが、僕が子供の頃でさえ、カセットテープなんて聞かなかったからあまり気にはしていない。
それに、最近は携帯プレーヤーでしか音楽は聴かないから電源すらしばらく入れていない気がする。
「そうだ、CD聞こうよ」
亜希子は勉強机の棚に並べられているCDを見つけるとそう言った。
「別にいいよ」僕は特に否定する気も起きなかったので、どれにしようか一つずつ手に取り吟味している亜希子を尻目に、食卓へ戻ってテレビを見始めた。
少しの間黙っていた亜希子が「これ懐かしい」と嬉しそうに声を上げた。見ると亜希子は笑顔で、こちらに見えるように両手でCDを掲げている。
僕は懐かしさとちょっとの恥ずかしさを抱いた。
亜希子は勝手知ったる他人の家といった様子で机の上のゴミをどかし、コンポの電源をつけて蓋を開けディスクを入れた。
久しぶりに稼動させられたコンポはディスクを読み取ろうと必死に回転させている。全然読み込まないのでもう壊れてしまっているのかと疑い始めた頃、ようやくイントロが流れ始めた。流れるピアノの旋律。マーチのような前奏。小学校の時に好きだったアニメの主題歌だ。
ありがちなヒーローもので、曲も必殺技の名前が何度も出てくるような定番の代物だった。それは僕が初めて自分で買ったCD だったから、もう聞かなくなっても、なんとなく捨てることも出来ずCDラックの目立たないところに置いてあったのだが、まさかこんな折に日の目を見ようとは。
「懐かしいね。これ」
亜希子は本当に懐かしそうに微笑んでいる。
「そうだね」同意する。
ぼおっと聞いていたが、曲がサビに入った瞬間に僕はガツンと頭を殴られたような感覚に襲われた。
思い出してしまった。全てを。フラッシュバックとでもいうのか。怒涛の勢いで迫る記憶の波。
僕の閉ざしていた記憶の扉の鍵がこんなアニメのCDだったなんて。めまいに襲われた僕は手に持っていたテレビのリモコンを床に落としてしまった。
「どうしたの?」
亜希子がこちらを見る。僕は立ち上がる。
そうだ、そうだったんだ。
そう、姉が死んだあの日、僕はこれを聞いていた。このCDをこのコンポで流していたんだ。
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