第16話 幸せへの選択で、ましまし(3)
結果。
わたしはエレベーターのドアに腰を挟まれ、「ギョえっ」という蛙が潰されるような声をあげた。
「主任!」
慌てて早崎くんが、わたしとドアの間に腕を突っ込む。ドアは一旦開いて、無情にもがったんっと閉まった。つまり又挟まれた。痛いぞ、ちくしょう。助けるなら、きちんと助けてくれ。
わたしは早崎くんをキッと睨むが、まったく伝わっていない。「セーフ」なんて能天気に言っている。アウトだよ! 思いっきりアウト!
呆れたように広瀬さんが「開」ボタンを押してくれる。しかし油断すると、そのまま閉めて逃げだすかもしれない。わたしは再度挟まれるのを覚悟で、ドアに手をかけ、躯をもたせかけた。
「メジローずは、わたしのメジロです」
にーくんみたいに、きりっと格好よく言ってみたいが、今は無理だ。
「今はね」
「ずっとです」
「丹羽くんに、あげるくせに」
「あげるんじゃない。
「言い方を、ちょっとばかり格好良く飾っているだけじゃない」
広瀬さんが馬鹿にしたように言う。
いや、実際バカにしている感満載だ。目つきで分かる。それだけ長い付き合いだ。
「じゃあ、どうすりゃいいって言うんです? わたしには仕事がある。一人暮らしで、頼れる家族もいない。部屋だって狭い。あいつらに快適な環境なんて保証できない。情けないですが、どうにもなりません」
「そうかしら?」
「そうでしょう! だから善三だって忠告しに来たんだ」
「あなたって、本当に人の言う事を鵜呑みにしすぎだわ。そのうち結婚詐欺にあわないか、心配になる」
広瀬さんが、ため息をもらす。
「丹羽くんは、あなたに
「覚悟?」
わたしは首を傾げた。
「そもそも、その結論に至るまでに、前迫くんはメジロちゃん達ときちんと話し合ったわけ?」
「……いえ」
思わず
メジローずに意見はきいていない。辛くて訊くに訊けなかった。そこを広瀬さんは的確に突いてくる。
「どうせ、ツライとか悲しいとか。いじいじした理由で、ちゃんと向き合っていないんでしょう。
子供には向き合えって、言ったわよね? いい? もう一度言うわよ。子育てに正解はないの。失敗したら、その時そこから又考えてやってきゃいいの!」
「そんな育児書みたいな意見で、どうすりゃいいって言うんですか? 広瀬さんがメジロの世話をしてみようって言うのだって、物理的に余裕があるからでしょう? でも、わたしは違う。一人なんです。一人で全部なんて、とてもじゃないができないんです! 無理なんですよ!!」
わたしは叫んだ。本心だった。
実家暮らしだったら。恋人がいたら。何度も
映画やドラマだったら盛り上がる場面だ。壮大なBGM が、ながれるはずだ。
なのにこんな状況で、エレベーターの点滅する赤数字をチラチラと横目で確認してしまう。こういうとことが、小心者なのだ。他の階から苦情がこないかと、ついつい気になってしまう。
わたしの視線がそれた瞬間だった。
広瀬さんがドアを支えていたわたしの腕に、がばと抱きついてきた。両腕で絡めとられる。ここで、まさかの
恐ろしさにたたらを踏んだ。
「うわっ」
背後に居た早崎くんは、わたしを支えるどころか、マッハで逃げる。
わたしは腕に広瀬さんを巻き付けたまま、ものの見事に後ろにコケた。背中から廊下に倒れ込む。痺れるような痛みが、もの凄い速さで脳まで伝わる。さらに広瀬さんがわたしをクッションにして、どんっと乗り上げてきた。
女性に体重を聞くなんて、死んでもしてはならない行為だ。だが声を大にして言いたい。もしや、わたしよりも重いのですか? 重いんですよね!
うううう、息が詰まる。
酸素を求めて口を開ける。呼吸が上手くできない。広瀬さんの全体重が、どっしりとのしかかっている。
巴投げではなかった。しかしなんたるアサシン技。恐るべし。
呼吸が。息が、くるしい。ダメかもしれない……
前迫篤。ここに散る。床にそう刻んでください。入院給付つきの保険は入っています。
そう思って意識を手放そうとした時だ。
広瀬さんは両腕を伸ばし、わたしとの間に隙間を作った。おかげで
万歳。昇天には速すぎる。
しかし油断もつかの間。これ見ようによっては、大変まずい体制ではなかろうか。公衆の面前で、押し倒されているよ。
見上げる広瀬さんのどアップに、心臓がきゅっと縮まる。
「そこよ! 前迫くん!」
わたしの羞恥心と怖じ気になど一ミリの興味も示さずに、広瀬さんが叫ぶ。
止めてください。唾が飛びます。
「一人で無理なら、誰かに頼れば良いじゃない!」
今度はわたしの上にどすんと座り、ワイシャツの首を両手でぐいぐい締め上げてくる。
苦しい。首が絞められる。わたしは又もや酸欠状態だ。
「なんで私に相談しないの? なんで自分で何もかも決めて、諦めてしまうの? そんな人生、ちっとも面白くないじゃない!
私は相談されたら喜んで手伝う。他にも同じ思いの人はいるはず。メジロちゃんファンに声をかけなさい。手伝ってくださいって、言いなさいよ!」
柔道から、一転のレスリング。そして興奮気味に、舌はまわり、瞳は光る。形成は以前広瀬さんの圧倒的有利。
気がつけばかわたし達の周りを、所長以下三名が囲んでいる。一様に涙ぐみながら、笑顔で拍手喝采をしている。拍手はいらない。助けてください。
エレベーターがチンっという小気味良い音と共に開いた。倒れたわたしの位置から、男もののうす汚れた運動靴が見える。
ああ、あれは……なんでこのタイミングなんだ、お前って奴は。
「あ〜、なんか。盛り上がってるとこに来たみたい? 俺、もしかしてかなりお邪魔?」
糸目を見開いてわたしを見下ろす男は善三だ。
何故なのか片手にスマホをかざしている。まさか動画を撮っているわけじゃないよな、お前。確認と文句を言いたいにの、それさえ無理。わたしはノックダウン状態であった。
事の
わたしはただ今、自室で正座をさせられている。
「まったくご主人は
やっくんがケッとガラの悪い声をだす。おすまし顔は、もはや遠い過去だ。どこにもナイ。
「全く。まったく。ちょっと目を離すとコレで、ましまし。やれやれで、ましまし」
まっしーが頭を、左右に振る。
「ホント。残念飼い主よね」
わたしの右横。椅子に足を組んで座りながら、饅頭を頬張っているのは広瀬さんだ。
「あら、これ美味しい」
「私の一押し。佐佐木の酒饅頭。前迫くんに言えば買って来てくれるわよ。あ、お茶のお代わり淹れる」
そう言って、我が物顔で
なのに、居る。こいつまで居る。
「あ、俺。火傷しそうに、あっちいのでお願いします」
ずうずうしく
わたしの狭い部屋に、大人が四人。狭い。せますぎる。先ほど打った腰やら背も痛い。正座の足は痺れてきた。なのにやっくんは興がのってきたのか、説教スピーチに終わりは見えない。
広瀬さんのレスリング技の後。わたしは社員全員に励まされた。
痛さと
「あら。だってこれから前迫くんの所に、ひっきりなしに社員が出入りするんだから。大家さんには、ひと言あってしかるべきじゃない」
そうだ。満場一致で、「たまごちゃん見守り隊」は結成された。なんとメンバー表と役割分担まで既に決定済みであった。そこには善三の名まである。その事実に、わたしは目の前が真っ暗になる思いであった。
こいつら全員グルだった。
わたしのここ数日間の悩みと焦り。噛みしめてきた悲哀は何だったのだ。
恥ずかしくて、地中深く穴を掘って埋まってしまいたい。しかしできるわけもない。
もう逃げる事も、諦める事もできない立場になってしまった。
わたしは威張って説教スピーチを続けるやっくんを見た。横には、広瀬さんからもらった饅頭を
巣箱にいるにーくんの気配を感じ、卵たちを思った。
広瀬さんと大家さんはすでに意気投合して、長年の茶飲み友達みたいだ。
「それなら私もぜひ一肌脱がせてもらう! 大家にとって、店子は我が子も同然。メジロちゃん達の為ですもの」
そう言って逞しい二の腕で、ガッツポーズをしている。
「ま、俺がいたら大船ところか、豪華客船なみの安心感や」
善三が番茶に息を吹きかけながら、胸を叩く。
なんて事だ、まったく。
わたしは唇を噛みしめて、うつむいた。
やかましくて、手に負えない。
うっとおしくも、頼もしい。
愛すべき仲間たちとメジローずに囲まれている自分が居る。ずっとそうだった。気がつかなかっただけだった。
なんだ、そうか。そうだったのか。わたしは一人じゃなかったのだ。
「どうぞよろしくお願いします」
わたしは至極素直に頭をさげた。
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