第16話 幸せへの選択で、ましまし(2)



 その日のうちから、わたしの葛藤かっとうは始まった。

 カレンダー上の数字は、善三の告げたタイムリミットに情け容赦なく近づいていく。社の人間は見守るばかり。どうやら広瀬さんが全員に説明をし、尚かつ口をはさむべからずと説得したようだ。おかげで早崎くんさえ大人しい。そしてわたしは、揺れている。

 毎日どころか、分刻みで心は揺れ動くばかりだ。

 自分がこんなにも優柔不断だとは思ってもみなかった。決断は速い方だと自任じにんしていた。しかし違った。


 本当は告白したかった、話しもできなかったおんなの子。

 もうちょい上を狙いたかった大学受験。

 別れたくなかった彼女。

 就職だってそうだ。今の職場に不満はない。人間関係は良好だ。給料は高いわけではないが、延滞はない。しかしやりたかった仕事かと問われれば違う。

 わたしは決断が速いのではない。諦めが速かったのだ。

 高嶺の花だから、最初からダメだと諦め。

 上を狙って落ちた時を想像し、妥協し。

 自分よりもふさわしい男がいるからと、彼女をひきとめもせず。

 やりたい事ができる人間は一握りだからと、深く考えもせずに仕事を決めた。もうひと頑張りができない。

 だから自信をもって決められない。

 善三に全てを任せるのが、間違いないはずだ。最善を選ぶなら、羽鳥組だ。その方がメジロもわたしも安心だ。なのに、ぐずぐずと決められずにいる。

 昼休みに善三が来る。

 その度にわたしは、用事をつくって外へ出た。善三と顔を会わせれば、穏やかではいられなかった。善三は何か言いたげだが、口にはださない。いつもはあんなにうるさい男なのに、黙ってわたしの背を見送るばかりだ。その視線が痛い。速く決断しろと催促さいそくされている様な、焦りを覚える。


「はい。お祝い」

 そう言って、わたしに自販機の缶珈琲を投げてよこしたのは、山田准教授だ。わたしは館大事務室前の長椅子にいた。入札が終わったのだ。

 空中で受け取った缶は暖かい。手のひらに伝わってくる熱が、わたしにあいつらを思い出せる。

 にーくんの手伝いをしろと、まっしーも家に置いて来ている。肩からも、ポケットからも、メジロ共の暖かさは消えてしまった。

 いつもだったら嬉しい山田准教授との出会いも。奢りの缶珈琲も、なんだかやるせなくて、わたしは手にした缶を、むやみやたらとねくり回した。


「ありがとうございます」

「心ここにあらずだねえ」

 そう言って山田准教授は隣に腰かける。

「いえ、終わったら、ちょっと気が抜けちゃって。ハハ」

 笑い声がむなしく響く。山田准教授が眉をひそめる。

 そりゃそうだ。どっからどう見ても、今のわたしは腑抜ふぬけだ。結果は我が社の採用だったのに、このありさま。

 昨年からの案件だ。嬉しくないはずがない。嬉しいんだ。なのに心は、いまひとつ浮き立たない。

 もしメジローずがいたらと、想像してしまう。チータカチータカ、ラインダンスのひとつでも踊ってくれただろう。


ーーお祝いでありますな。

 きっと、にーくんは真っ先に喜んでくれる。

ーーでは、やつがれは安納さんでの乾杯を、おすすめするであります。

 無理矢理自分優先で希望をだすのは、やっくんだ。

ーー乾杯とは飲み物で、ましまし。午後ティーで祝杯で、ましまし。

 やっくんにツッコむのは、まっしーのはずだ。

 いかん。想像してしまうと、余計にむなしくなる。わたしは頭を左右に振った。山田准教授は、いぶかしそうな目つきをしている。いたたまれない。

「書類できましたから、サインお願いしまーーす」

 都合よく、事務員さんがわたしを呼ぶ。

「あ、はい」

 椅子から立ち上がると、山田准教授に頭を下げる。

「珈琲ありがとうございました。納品については、追って事務を通して黒崎教授にご連絡致します」

 そのまますたこらと、事務員さんの待つ窓口へ行く。

 山田准教授も善三も、前向きで明るく、逞しい。自分をしっかともっていて、まぶしすぎる人達だ。今のわたしは彼らの近くに居ると、少しだけ苦しくなってしまう。


 就業時間の過ぎた事務所で、わたしはカレンダーの前に立った。

 ×印は五ヶ連なっている。明日は土曜日。そして明後日には善三がきった期日がくる。決断しなければならない。いや、とっくに決めていた。

 やっくんと、にーくん。かえってくる雛たちを思えば、わたしが決める答えはとうに出ていた。もう迷っている場合ではない。

 わたしは更衣室から出て来た広瀬さんに声をかけた。

「広瀬さん!」

 わたしの呼びかけに「なに?」広瀬さんが、こちらに来る。

 その様子がいつもと違う。もはや死語になりつつある花金はなきんだからか? 本日の広瀬さんは気合いのはいったよそおいだ。

 普段の適当なトレーナーとズボン姿ではない。目にも鮮やかな真っ青なスーツ。しかも妙に時代とずれたデザイン。けれど力がはいっているのは分かる。化粧の厚さも完璧だ。これはもしやプライベート飲み会か、ご主人とのデートであろうか。だとしたら速攻告げてしまって、この苦悩には幕を下ろしてしまうんだ。

 わたしは目の前に立った広瀬さんに、「今回のメジロの件では、お世話になりました。腹が決まりました」そう告げた。

 広瀬さんは「そう」静かに頷く

 あまり広瀬さんらしからぬ、物言いではあったが、なにせわたしも切羽詰まっていた。彼女の神妙な顔つきを気にもせずに、新入社員よろしく気をつけの姿勢をとると、一気に言った。

「やっくんと、にーくんは卵ごと、羽鳥組にお願いします」

 誰かがひゅっ、と息を吸い込んだ音がした。

「そう」

 広瀬さんはあくまで静かだ。落ち着いている。

「はい」

 ついに、言った。宣言してしまった。

 これでもう後戻りはできない。これで迷いの退路はふさいだ。

 だからと言って迷いが消えるわけではない。悔いを噛み締める夜は、いくつもあるだろう。けれど考えて、迷って。答えはひとつしかなかった。

 善三の条件を、わたしが半月の間やりとげる自信はない。

 失敗して、卵をダメにしてしまうのが恐ろしい。にーくんとやっくんの初めての卵だ。万全の準備のできる環境で、孵って欲しい。

 その為には、わたしのちっぽけな感傷や寂しさなど考えるな。

 これは諦めじゃない。最善を選ぶための我慢だ。そう何度も自分に言い聞かせた。


「前迫くんが決めた事に、私は口をはさまない。あなたも色々悩んで大変だったでしょうし」

 わたしは広瀬さんの慰めの言葉に、気をつけの姿勢を崩した。あげていた顔をさげ、広瀬さんを見下ろした。

「あの、今回は色々と、ホント心配をおかけしてしまい……」

 言葉に詰まった。

 端的たんてきに言って、広瀬さんは怒っていた。口調とは裏腹に、鬼の形相もかくやという顔つきであった。そのギャップに背筋が凍る。

「……あの。なにか、気にさわりましたか、ええと」

「いいえ。全然」


 鬼のまま、広瀬さんはにっこりと口元だけで笑う。

 わたし達を中心に、事務所内の温度が一気に下がる。

 所長は音をたてながら、新聞を広げた。斎藤さんはとっくに電源をおとしているパソコンの前に覆いかぶさる。そして外回りから戻って来た早崎くんが、ドアの取っ手に手をかけたまま、フリーズしているのが目の端に映る。

 頼む、入って来てくれ。空気を読まないお前の発言で、この場を何とかしてくれ。カツ丼でもケーキセットでも奢ってやるから。そう目で訴えたのに、そこは早崎くんだ。見事なまでのスルーで、そっとドアを閉めやがった。

「前迫さんの決断を私は尊重する。けれど、そういう考えなら私がメジローずの飼い主になります」

 ふんぬと、わたしを睨みつけ、広瀬さんは言った。


「いや。無理です!」

 わたしは、すぐさま叫んだ。

「わたしが涙を飲んで諦めるというのに、なんで棚からぼた餅で、広瀬さんがメジローずを手に入れるんですか!?」

「だって、前迫くんいらないんでしょう? だから私がもらってあげる」

 なんだよ、その上から目線。怒りがこみあげてくる。

「いりますよ! いるに決まっているじゃないですか。でも雛の安全を考えたら、わたしが世話をするのには限度と無理があるんです」

「前迫くんに限度と無理があっても、私なら大丈夫」

 広瀬さんは持論を引っ込めない。

「人間の赤ん坊は二十四時間態勢での授乳に抱っこ。ウンチとおしっこの始末。それが一年以上続く。けれどメジロちゃんは違う。日が落ちれば餌は欲しがらない。抱っこする必要もない。親鳥さえ育児放棄しなければ、保温も万全。排泄だって勝手にやってくれる。私なら絶対やりとげられる。だから安心して私に譲ってちょうだい」

「だから無理ですって。メジロボールの譲渡じょうとは禁じられているんです」

「それ、丹羽くんに、ちゃんと確かめたの?」

 広瀬さんが訊く。わたしは狼狽うろたえた。

「いえ、人から聞いた話しで。でもメジロボールの経験者からです。信憑性はあります」

「そうかもしれない」

 広瀬さんがずいっと、一歩前にでる。

「でも、丹羽くんがどう言うか、やってみなくちゃ分からないじゃない。一度目でダメでも二度目。それでもダメなら三度でも四度でも粘ればいいじゃない。なんなら土下座して、頭を地面にこすりつければ良いじゃない。私は、大事なものの為ならそこまでする。

 前迫くんは何にもしないで、大事なものを手放してしまうの? もっとどうにかできないかって、自分の足で確かめて、相手と交渉してみようって気概きがいはないの? あなた腐っても営業でしょう」

「それは……」

 言い淀んだわたしに、「まだまだヒヨッこねえ」フッと笑って、広瀬さんはわたしを追い越して行く。本気だ。きっと今から羽鳥組へ行き、善三に頼み込み、必要があれば土下座までしてメジローずを手にいれる気だ。

「待ってください」

 わたしは広瀬さんを引き止めた。

「急いでいるんだけど?」

 肩ごしに振り返った顔はまなじりが、あがっている。

「広瀬さん。わたしに言いましたよね? 外野は口をはさまないって」

「言ったわ」

「なのに、これはナイんじゃないですか? 口はさみまくりどころじゃないですよ。こんなの横暴にも程がある!」

 広瀬さんコワさも何もかも、どこぞに吹っ飛んだ。

「あら、前迫くん。よく覚えているじゃない」

 広瀬さんが、わたしなんぞに気圧けおされるわけもない。にっこりと微笑む。

「言ったわ。あなたが子育てするなら、口をはさまないって。でもあなたは子育てをしないんでしょう? その権利を放棄しちゃうんでしょう? だったら私がもらうだけだわ。ちょっと! 早崎くん」

 ドアに手をそえると、広瀬さんは外で縮こまっている早崎くんを呼ぶ。

「は、はいっ」

 早崎くんが直立不動になって返事をする。

「エレベーターボタン押してちょうだい」

「はいっ」

「じゃあね。前迫くん」

 広瀬さんがドアを開けて、出て行く。早崎くんがエレベーターボーイよろしく、ボタンを押す。

 わたしは見送るしかないのか? 散々悩んで結論をだした。それなのにホイホイ取られてしまうのか? 悔しい。やりきれない。

 エレベーターの階表示を示す赤ランプが、点滅をくり返す。近づいて来る。


「まえさこぉ!!」

 その時。所長が事務所内から大声でわたしを呼んだ。

 腹の底から絞り出すような怒号どごうであった。肩越しに振り返ると、新聞紙を床に放り投げ、仁王立ちで青筋を浮かべている。

「まけんなっ! 最後の一歩で、諦めるな!」

 それがわたしの背を押した。

 上司の指令。社畜の習性。算段があるわけじゃない。けれど。とにかく。行かせるわけにはいかない。わたしは無言で走り、事務所のドアを通り抜け、広瀬さんの姿を隠そうとしているエレベーターの閉まりかけのドアに、半身を滑り込ませた。


 

 

 

 

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