第16話 幸せへの選択で、ましまし(1)



 社のカレンダーに赤丸で囲まれた日付がある。

 なるべく目にしたくない数字は、遠く離れていても、まるで浮き上がってくるようにわたしの目を刺す。

 そしてどんなに目をそむけようにも、一日は二十四時間。印まで着々と時間は過ぎていく。

 わたしは出社すると、カレンダーに黒マジックでおおきく×印をつける。斎藤さんが「やりましょうか」と、言ってくれたが断った。わたしが決めたのだ。わたしがすべきだ。第一家のカレンダーでも、同じ作業を毎朝おこなっている。ひとつがふたつに増えたところで、何ら身体的負担ではない。


 社の皆は、そろってこの話題には触れない。

 分かっていて、あえて沈黙を守っている。その心づかいがありがたくも、切なくなってくる。誰か一人でもわたしに異を唱えないだろうかと、ひそかに期待してしまう弱い自分がいる。

 例えば所長が上司命令で、わたしに詰め寄るとか。

 広瀬さんが武力行使で訴えてくるとか。そうなれば、わたしは簡単に主旨替えをするかもしれない。

 誰でも良い。

 永井さんあたりが、「力になりますから、一緒に頑張りましょう!」そう言ってくれたら、わたしは喜んで頷いてしまうだろう。だのに誰もわたしに意見しない。わたしの考えを尊重してくれる。だから毎朝黙々と×印をつける。つけたくなくとも、つける。

 善三は元よりナニも言わない。

 毎日昼にパソコン片手にやって来ては、メジロ共の映像を披露し、おいなりさんを食べ、軽口を叩き、皆を笑わせている。


 善三からその話しを聞かされたのは、卵をみつけた午後だった。

 昼休みに勝手にやってきて、どんどんぱふぱふしている現場をみつけたわたしは怒髪天どはつてんく思いから、善三の腕を掴んだ。

「もりあがっているところ、すみません」

 所長にはニッコリと断りをいれ、無理矢理善三を廊下のどん詰まり。給湯室きゅうとうしつへ連れ出した。


「最初から知っていたんだな?」

 わたしの質問に、「何ナニ? やっくんがメスだって事?」と、言う。その口元はゆがんでいる。笑いたいのをこらえている様子に腹がたった。

「そうだよ!」

 わたしは大声で叫んだ。

「やっくんはメスだったし。糞つまりはあったけど、産卵だった。なんで教えてくれなかったんだ。おまけに、あの映像はなんだよ!! なんでお前のパソコンに巣箱の映像が映し出されているんだ」

 め寄るわたしに、

「まず、ひとつ」

 善三が右人差し指を立てる。

「映像については至極簡単。元々メジロボールの顧客へ送る巣箱には、定点カメラを内臓しているから。標準装備です。あ、巣箱の尻にちゃんと記載されているから。次に二」

 中指を立てる。

「まえちゃんがメジロボールの取扱説明書を読んでいないのを、俺は知らなかった」

 取扱説明書? そんなのあったか?

「その顔。そもそもトリセツの存在を忘れているみたいだね。

 くじ引きをする。当たる。袋のなかにはメロンボールそっくりの、メジロボールがある。一緒にトリセツも入っている。以上。ちなみにトリセツはこんくらいの、」

 そう言って左右の親指と人差し指で四角を作る。

「大きさに折りたたまれたやつで、読めばちゃんと書いてある。メジロボールの基本は、雌雄のペアです、って」

 そんなもの……目にした覚えは……


 わたしは過去の記憶をなぞった。

 やぶ源の帰りにくじを引いた。覚えているぞ。早崎くんが辞退したから、引いたのだった。あれが運命の分かれ道ってやつであった。

 社に戻って当たったメロンボールを食っちまおうとしたら、蓋が開かなかった。そうだ。それで、早崎くんが……何か、言っていたな。それメロンボールじゃないとか何とか。

 これがメロンボールじゃなかったら、一体全体何だと言うのだ。そう思った記憶があるぞ。その時だ。あいつ、読み上げていた……ような。

 アレか!

 思いだしたぞ。

 そうか。早崎くんは取扱説明書を読んでそう言ったわけだ! だよな。でなけえば、あの状況でメロンボールが実はメジロボールでした、なんて誰が想像できようか。

「あったな。うん。あった気がする……読んでいない」

 悔しいが認めるしかない。善三の笑みが深くなる。

「みっつ」

 善三が薬指を立てる。

「やっくんの腹をさすった時に、卵らしい手応えはあった。けれど確証はなかった。鳥は想像妊娠だってするんだよね。おまけに時期が速すぎる。憶測で発言したら、まえちゃんは確実に動揺する。それに糞がつまっていたのは事実。ならばまずはそちらだけ告げよう。そう判断した」

「……そうか」

「そうだ」

 善三が立てた指を、これ見よがしにぐにぐにと動かす。くそっ、お前を責めたわたしがお門違かどちがいだって言うんだな。ああ、そうでした! 悪いのはうっかり者のわたしだよ。チクショウ。

「それで、本日やって来たのは卵が産まれたお祝いと」

 そう言うと、善三は懐から妙に皺しわな紙を取り出した。

「メジローずの今後のスケジュールを、まえちゃんに教えに来たってわけだ」


 悪のりした善三が、ふざけて我が社に押しかけたのではなかった。それどころか、善三が告げた内容は寝耳に水。昨日から上手く機能していないわたしの頭を、さらに混乱させるものであった。

「通常。メジロの産卵は春から初夏にかけて行なわれる。どうしてか、分かる?」

 紙を手に善三が質問をする。

 わたしは頭を左右に振る。分かるわけがない。そういうのは家族そろって鳥マニアの永井家一同に問いかけるべきだ。

「まず。春だと樹木につくった巣は、生い茂った葉に隠れる。これで天敵のカラスや蛇に見つかる危険性が減る。そして、餌が豊富である」

 ふむふむ。わたしは頷いた。

「ところが今回。まえちゃんとこは冬に産んでしまった」

「なんでだ? 食い過ぎが原因とか?」

「まあ、食べ物が豊富に与えられたってのも、ひとつの要因ではあるよ。飼い主のいるメジロボールのメジロの環境は快適だからね。室内は暖かい。天敵はいない。餌は豊富。だからまえちゃんとこだけに限らず、過去に同じ事例はある」

「そうか」

 わたしは内心胸をなで下ろした。

 これで食い過ぎが原因で、我が家だけ変てこな時期に卵が産まれてしまったとなると、責任を感じてしまう。やれやれだ。

「けど、やっぱり問題点はあるわけ」

 そんなわたしの気持ちを、善三は容赦なく打ち砕きにくる。

「なんだ?」

 胸騒ぎがするぞ。これが子供を持つ親の心境ってやつなのか? 子供はいくつになっても心配だと、常々母親が言っていたっけ。

「卵がかえってからの、ひなの生育が、冬期は春より難しくなる。

 まず気温が低い。雛の餌となる虫がいない」

「じゃあ、育たないのか?」

 ひんやりと、冷たい手で心臓を掴まれたような気分だ。わたしは身震いをおさえた。

「外での飼育だったら難しい。だからペットのインコや文鳥並みに、飼い主の協力が必要になる。巣箱のある室内は暖かくしておく。親鳥が雛に与えられる餌を用意してやる。虫だとペットショップで買える。それか、すり餌を用意する。そして静かな環境をつくる。いくら羽鳥組うちのメジロだといっても、相互理解には限界がある。親鳥がストレスを感じたら、育児放棄だってありえる」

「それくらいだったら……」

 呟くと、

「できるの? 最後まで責任もって」

 たたみけてくるように、善三が言う。

「気楽に想像するんじゃなくて、きちんとイメージを掘り下げなきゃダメだ。まえちゃんは、雛の命を預かる覚悟を迫られている。

 ひとつ。室内の暖かさ。暖房費がかさむ。

 ふたつ。日中の餌の用意。それもなるべく新鮮なもの。虫は費用がかかる。すり餌だったら、さらに手間がかかる。

 みっつ。静かな環境。夜遅くに明りをつけるなんて問題外になる。

 この間、まえちゃんの部屋にあがらせてもらった。失礼を承知で言うけど、ワンルームだよね? それって雛にとって快適といえるかな。それに一人暮らしだよね? 全部ひとりで、仕事しながらするんだよ。

 できれば良いな。じゃダメなんだ。どんなに面倒で、イヤになっても途中で投げ出せない。生活の大半をメジロ中心で考える必要がある。その間おおよそ、半月だ」

 善三は至極まじめな目つきをしていた。

 言葉は重かった。いつものおちゃらけた感じは、どこにもなかった。わたしはぐうの音もでなかった。

「俺もさ」

 善三が肩をすくめる。

「ここまで飼い主に要求するのは、どうかなって気持ちはある。突き詰めて考えれば、産んだのも育てるのもメジロだ。本来の責任は親メジロにある。でもさ、飼い主って立場は親とちかいものがあるんだ。どうしたって、イヤな結果も知っていなくちゃならない。

 そして俺はメジロボール制作者としての立場で考えるし、意見させてもらう。途中で放り出してしまった飼い主の、後味の悪さなんてもんは、正直どうでも良い。放りだしてしまったら、死んでしまうかもしれない命があるってのが、俺にとっての問題なんだ。だからまえちゃんには、よく考えて欲しいし、別の選択も提示ていじできる」

「別の?」

「うん」

 善三が頷いた。

「卵から雛が孵るまでは約半月。十日から十五日くらいだ。余裕をみて一週間以内であったら、可能な方法だ」

「なんだ?」

「巣箱ごと。卵も親メジロも、丸々俺が引き取るって方法だ」 

「おまえが?」

 なんで。そんな……

 驚きで、目を見開く。

「そうだ。メジロボールのメジロに対してのノウハウはある。管理できる設備もある。羽鳥組だったら、巣立ちまで責任をもって世話できる」


「なんですって!」

 そう叫んだのはわたしではない。あがった声は背後からだった。

 広瀬さんだ。両手に盆を持っている。さしずめ茶を淹れに給湯室に来たのだろう。そして善三とわたしの会話を耳にした。

 まずい。ラウンドスピーカーの広瀬さんに聞かれた。大騒ぎだぞ。わたしは青くなり、善三は気楽な顔をしている。

 善三よ。お前は自分の発言の重要性に気づいていないんだ。メジローずをわたしから取り上げる。すなわち社の人間がメジローずに会えない。この図式の果てにあるのは、重罪人丹羽善三の誕生だ。

 ここは研究機器販売兼、メジローずを愛でる会になっているんだぞ。恐るべしメジロ愛好家の巣だ。

 ああ、ホラ。今にも騒ぎだすよと、わたしは身構えた。しかし広瀬さんは、静かなままだった。口元をぎゅっと堅く結び、つかつかと我々に近寄ると、逆にひそめた声で「そうなの?」と、短く確認した。

「そうっす」

 善三が頷く。

「そうなのね」

 広瀬さんは考え深そうに、口元に手を当てる。まるで会計監査が来た時みたいな殊勝しゅしょうな態度である。

「前迫くん」

 しばらくして顔をあげると、広瀬さんはわたしを呼んだ。

 なんだ? この不審人物ぜんぞうをつまみ出せとか?

「きちんと考えるのよ」

 そう言うと盆を置き、わたしの両手をぎゅっと握る。

「ああ、はい」 

 どうしてこういう展開になるのかイマイチ理解できないが、条件反射で頷くわたし。

「子育てに正解はない。けれど真剣に向き合うかどうかが、重要なの。そしてどんなに真剣に向き合っても、失敗する時はしちゃうものなの」

「ああ、はい」

「決めるのは、あなたとメジロちゃんよ。そして目的は、たまごちゃん達の無事。その為には何ができて、何が最善か。それを考えなさい。それから外野は、」

 そう言うと広瀬さんは、言葉をきって、しばしわたしを見つめた。

 給湯室で、隣には何やらにやついている善三。

 はるか年上の女性に手を握られ、熱く語られているわたし。あまりにもシュールな絵づらだ。だからと言って手を引っ込めるには、広瀬さんの眼差まなざしは真剣すぎた。

「口をはさまないし、はさませない。子育てをした経験者として、私はあなたの決断がどんなものであっても、応援する。がんばんなさい! 踏ん張り時よ!!」

 そう言うと、たくましい掌でわたしの二の腕をばんばん叩き、盆を残して去って行く。

 あの人。何しに来たんだ? わたしはぽかんと広瀬さんを見送った。

「ホント、良い会社じゃん!」

 善三は高らかに叫ぶと、あひゃひゃひゃと変な笑い声をあげた。

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