第11話 襖のむこうに待つものはで、ましまし(3)
かみさんなんだ。
善三の言葉をわたしは、タラの干物と一緒にゆっくりと噛み締めた。
「……かみさん」
「そう」
善三が頬杖を
「
次にしたを指す。
「畳にも。軒下にも。その下の地面に転がる石ころにも。この国は、ありとあらゆる所にかみさんが居る。爺はよくそう言っていた」
「かみさん。……って、神さま?」
わたしは現実みのないその言葉を口にした。した途端、途方もなくでかくて重くて堅い何かを飲み込んだ気分になった。
「そう、神さま」
善三がおおきく頷く。
「あいつらが? メジローずが神さま? はっはは」
笑いとばしたいのに、
まさか。バカな。この現代にそんな日本昔話みたいなものが、あってたまるものか。そう思うのに、頭から否定できない自分がいる。
どうしてメジロが、メロンボールに入っている?
どうしてメジロが話す? 脚を組んで座って、へびソックスにはいり、本を読みたがる? あいつらの不思議を、他に誰がどう説明してくれる?
酔った頭は、わたしにとんでもない思考を信じ込ませようとする。わたしは頭を振った。違う。チガウ。チガウ。鵜呑みにするな。考えろ。
「なあ、俺の言葉をどこまで信じる? 前迫さん」
善三が射抜くように、わたしを見る。
わたしは、善三のまっすぐな視線を受け止められなかった。今受け止めてしまったら、とんでもない事態に足を突っ込むことになってしまいそうだった。それともいっそ、酔っぱらいの
そうだ。しょせんは酔っぱらいの
わたしの戸惑いを知ってか、知らずか。善三はとつとつと低い声で話しを続ける。
「メジロは神さんそのものっていうよりか……神さんのお使いみたいな感じかね?
俺もちっこい時から関わっていなければ、信じられん話しだ。だからあんたが、全然ちがう。嘘言うなって否定したって、ちっとも構わない。けどさ、俺があんたに説明できるのは、こういう話ししかないわけ」
そう言うと、善三はやにわにがばと座卓に身を乗り出した。そうしながら
「あいつらさ。ヒドイ目に合わされたら、すぐにも飼い主から逃げ出すんだ」
唇の端をあげるようにして、善三はにやりと笑う。背筋がぞわぞわする様な嗤い方だった。
「俺も目にした事はないんだけどさ。煙みたいにすううっと消えたっていう話しもあれば。
見るなの座敷の鶯と一緒でさ。飼い主は禁を犯した男みたいに、ひとり取り残される。そんでさ」
くわえていた鮭とばを飲み込むと、善三は口を大きく開けた。
「人間を
だから個体数はどんどん減っていく。これが需要はあっても、供給が追いつけないわけなのさ」
おおきく開けた口で、善三はげらげらと笑う。
ちっとも可笑しくなんてない。なのに善三の笑いはどこまでも続く。喉をひきつらせながら、時に
酔っぱらいなんだ。こんなのに付き合う事はない。
そう思うのに、目が離せなかった。善三の嗤いは、小さな穴を無数に打ち込んでくる
わたしはそら恐ろしくなった。何がどう恐ろしいのか分からぬままに、躯の芯から怖さがこみあげてきた。
なんでこんな場所で、初対面の人間と酒盛りなどしたのだろう。得体の知れぬこの男に、いつの間に親しみを感じたのだろう。
神さんだと、善三は言う。
そうかもしれない。人は理解できない存在を、時に神と呼び、魔と呼び、
わからない。
頭がぐらぐらした。ストーブに火がはいっているはずなのに、気がつけば寒気に包まれている。善三は高笑いを止めない。部屋の空気が悪い。新鮮な夜の空気をすいたい。冷静になりたい。
「ちょっとーー」
そう言って、わたしはよろよろと立ち上がろうとして、失敗した。尻餅をつく。
いかん。酔いが足にきている。這う様にして、なんとか壁に手をつく。踏ん張って立つ。足元がふわふわする。頭がまわる。善三が笑う。振り返って見ると、目がひかって見える。
「便所なら、出て左」
勘違いした善三の言葉に曖昧に頷いて、わたしは襖に手をかけた。そして膝から崩れ落ちた。背後で善三のくつくつという笑いがおこった気がするのだが、定かではない。さむい。躯を丸めた。凍えるくらいの寒気に包まれる。
「あんた、寝るのかい?」
善三が訊く。こんな所で寝るものか。そう言いたいのに、言葉はでてこない。
善三はわたしに向かってなのか。独り言なのか、ぶつぶつと低くたかく言葉を続ける。
「神さんの住む場所には鳥居があるだろう。鳥居からあっちが神さんの居場所。こっちが、俺らの領域。なあ、だったらメジロはーー」
言葉は続く。ああ、ダメだ。聴こえなくなっていく。まるでブツ切れのテープを耳にしているようだ。音は言葉として頭にはいってこない。
わたしは寒気に震えながら、意識を手放した。
はじめて来る場所に居た。
掃除が行き届いた明るい廊下だ。左に襖があり、右は外と室内を
真昼だ。
わたしは深々と息を吸った。
どこにも怖いものも。不可解なものも。息苦しく思えるものもない。なのにどこか、胸の奥底に哀しみにも似たさみしさがある。
わたしは左胸に片手をあてて、廊下を歩いた。よく磨かれて、
歩く。曲がるを何度か繰り返し、わたしの足はぱたりと止まった。
変だ。
胸から手をおろす。
息を吐く。そっと、庭を確認する。
この石をさっき見た。椿も見た。見るのは二回目だ。
背が震えた。足も震えた。
ここはどこだ?
今さらながらに、そんな疑問がわきあがった。
メジロボール制作の丹羽善三の家に行った。黴臭い、雑多な室内で話しを訊いた。酒を飲んだ。飲んで、とんでもない話しを訊かされた。そうだ。思いだした。なのになんでわたしはこんな場所にいる? ここはどこだ?
善三はどこだ。この廊下は一体なんの為にある?
右手でガラス障子を触る。ひえた感触が伝わってくる。とてもリアルな感触だ。
「一」
声にだしながら、歩く。また曲がる。
「二」
庭石はない。椿もない。代わりに葉を落とした樹がある。幹が太い。
曲がる。
「三」
次にちいさな池が見える。水面に枯葉がいくつか浮かんでいる。
曲がる。
「四」
ひだりへ、くっきり四回曲がった。目を閉じる。震えがはしる。どこか遠く、鳥が鳴いている。するどい鳴き声は、まるでわたしに呼びかけてくる様だった。はっとして目を開けた。急いで次を曲がる。ああ、あった。見たくなかった庭石と椿が、わたしの目に映る。
この廊下は四角い部屋をぐるりと囲んでいるだけなのだ。
廊下を行けどもいけども、出口はない。どこにも着かない。出口があるとしたら、ガラス障子を開けて外に出るしかない。
わたしは外に出るかわりに、襖に手を
なんの変哲もない襖だ。手をかける引き手を見つめて、気がついた。丸い黒い引き手の中央には、よく見ると赤い線がある。
ただの線ではない。縦線二本。横線二本で表されているのは、大抵の日本人なら見ただけで理解できる「鳥居」の記号だ。昨夜の善三の言葉がふいによみがってきた。
ーー神さんの住む場所には鳥居があるだろう。鳥居からあっちが神さんの居場所。こっちが、俺らの領域。なあ、だったらメジロは、
メジロはどこに居る?
ここか。ここにあいつらは居るっていうのか?
わたしは
ここを開けたら何があるのだろう。
乾いた唇を舌先で舐めた。口のなかがカラカラだ。鳥居をなぞっていた指先を
ここを開けたら。
そうしたらあいつらは、わたしの前から消えてしまうのだろうか。そうしたらわたしは、あいつらに対する責任やら不安から解き放たれるのだろうか。そうしたら自由に、たのしく、元の生活に戻れるのだろうか。
あいつらのいない。一人の生活に。
そこまで考えて、指先は引き手からだらりと落ちた。
だめだ。とても開けられない。だってわたしは……
突然襖がガタガタと揺れた。まるで向こう側から無理やりナニかおおきなものが出てこようとしている様な。それを止めようとしている様な。そんな尋常ならぬ揺れであった。
襖が開く。ほんの
見たくない。
別れはいやだ。
わたしは慌てて、駆け出した。どこにも行けない。出口のない廊下を、どうしようもなく、ただただ駆けた。駆けて、かけてーー
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