note.28 200年前の楽譜

 練馬高野台駅前にある、J大学医学部附属病院。


 レイは全身の何ヵ所かを打撲していて、右手の小指と薬指を骨折していた。それ以外には、監禁されていた1週間の間ほとんど食事らしい食事をしてないことによる軽度の衰弱があるだけで、入院は1日で済むということだった。院内の個室を借り、レイは点滴チューブをつなげたまま車椅子に乗って警察の聴取を受けた。


 その間、美里も別室で聴取を受けた。外見ではそう見えない刑事さんに、知ってることを全部話した。隣人の外見、普段の様子、今日の服装……。


 聴取は、短時間で簡単に終わった。美里が病室で待っていると、看護師に車椅子を押されたレイが戻ってきた。


「レイさん。みんなには連絡しときました。ご両親にも、この病院の場所と名前をメールしてあります」

「ありがとね。いろいろ、やってくれて……」


 レイの表情から、険しさが消えていた。安心して微笑んでいた。


 ――うん。もう大丈夫。


 でも、それからレイが教えてくれた話――監禁されるまでの経緯――は、美里の想像をはるかに超える内容だった。


         *


 美里の隣室に住む長髪ヘヴィメタ男の名前は、小笠原忠弘ただひろ。ネット上では『TADA』と名乗って自作曲を公開しているミュージシャンで、その中身は美里たちが昨日訪問した秋葉原のライブハウス『クリティカルヒット』の経営者・小笠原義和よしかずの弟だった。


「初めて『クリティカルヒット』のアニソンカラオケ大会に行ったとき、小笠原の兄貴のほうに声をかけられたのよ。『来週も出てくれ』ってね。それで行ってみたら、今度は弟のほうが来てて、『一緒にやらないか』って誘われたんだ……」


 レイはベッドを立てて上体を起こし、おいしそうに牛乳を飲みながら話した。美里は、ベッドの脇の折りたたみ椅子に腰かけていた。


「そうだったんですか……」


「最初は、弟が作った女性ボーカル用の曲を私が歌って録音して、それをネットに上げたいっていう話だった。それなりにいい曲だったから、私もOKしたの。あいつ、ギターはそこそこうまく弾けるけど鍵盤はイマイチだから、そこは私が弾いてあげてね……。それで、6月末にライブもやろうとかって言ってたんだ」


「……隣の部屋から、よく聞こえてましたよ」


「だけど、途中から話の方向性が突然変わったの。女の子を5人ぐらい集めて、アイドルグループをつくりたい、そのセンターを私にやれとか言い出して……。これはたぶん、兄貴のほうが言い出しっぺだと思うけど」


「え?」


「いわゆる地下アイドルってやつね……。でも、そんなことはやりたくないから、私は断った。弟も一度はそれで納得したんだけど、最後に1曲だけボーカルをやってくれって頼まれたの。だから私、その最後の1曲を録音するために、あいつの部屋に行った。まさか、隣がミリなんて知らなかったけどね」


「それが……先週の日曜日?」


「うん。でも、やっぱりグループに入れってしつこく言ってくるから、録音も断って帰ろうとしたんだけど……あいつ豹変してナイフなんか出してきて、それで縛られちゃった」


「やな奴……」

「うん。もみ合いになったとき、指もひねられちゃって……」


 レイは右手を上げた。指を固定されて、包帯が巻かれた手を。


「痛み……ないですか?」

「うん。整形外科の先生が、単純な骨折だから1ヵ月ぐらいでつながるって」


「そうですよ。きっと、すぐに治ります!」

「でも、私ホントにラッキーだった。ミリがいてくれたから」


 レイの頬を伝った涙がベッドに落ちて、丸いシミを作った。


「すいません。1週間も気づかなくて……」

「ミリのせいじゃないよ。いつかミリに合図しようとずっと思ってたんだけど、あいつはぜんぜん外出しないからチャンスがなくてさ」


「いつも大きな音で音楽をかけてたのは、レイさんがいることをカモフラージュしてたんですね……」

「……うん。ちょっとでも音を立てると、すっごい目で睨まれてた。でも私には、ミリが出かけるときの音も、帰ってきたときの音も、全部聞こえてたんだ。だから、いつか絶対に逃げられると信じてた」


 美里の脳裏に、隣人・小笠原忠弘の顔が浮かぶ。あいつだけは、絶対に許さない!


「ミリ……」

「はい?」


「ごめんね。24日の武道館……この指じゃ弾けない……」


 レイは、肩を揺らして泣いた。何かを探し求めるような視線が宙を泳いだけど、それはどこにも定まることがなかった。


「レイさん……」

「せっかく、ミリがBloodyと一緒にやれるように段取りしてくれたのに……」


 美里も一緒に泣いた。たぶん、今日だけで10年分ぐらい泣いた。


「しょうがないですよ……悪いのは、小笠原です!」

「……メンバー全員がそろわないと、ミリの武道館もなくなっちゃうんだよね? 私、今からじゃ代理の人も探せないし……」


「いいんです、気にしないでください」

「ミリだけじゃなく、ほかのメンバーの人たちにも迷惑かけちゃった……」


「レイ!」


 ご両親が病室に入ってきた。お母さんは、脇目も振らずにレイに抱きつく。


「もう、どこ行ってたん! 心配したんよ!」


 昨日と違って、お母さんは関西弁で喋った。美里には、たぶんそれが普段の姿なんだろうと思えた。


「遠海さん。娘を助けてくれて、本当にありがとうございました」


 立ち上がった美里に、お父さんが言う。

 美里はベッドから少し離れて、お父さんに目礼した。


「なんで、そんな変な人なんかとつき合うたん!?」


 お母さんは娘にすがりつくようにして、大声で泣き出している。でも、レイはなぜかキツい表情で、お母さんを冷たく突き放すように見ていた。


 そして、きっぱりと断言する。


「お母さんに無理やりピアノ弾かされてた反動……に……決まってるでしょ」


「なに言うてんの。あんなに一生懸命やってたやん……」


「だから、その押しつけが嫌だったんだよ! 私が子どもの頃からずっと習わされてたのは、200年前の楽譜をなぞることだけでしょう! そんなの、ぜんぜん楽しくなかったんだよ。音楽は、もっと自由なものなのに……」


 レイの表情には、何かが宿っていた。美里は、昨日の初対面のときからお母さんにもっていた違和感の正体がわかった気がした。大阪で生まれ育ったレイが関西弁を毛嫌いしていて、絶対に使わない理由の一端もここにあるように思えた。


「よせ。今は、そんな話をしてる場合じゃない」


 たったひと言で、お父さんが母子の会話を終わらせた。たぶん、家族の間で何度も繰り返された話題だったのだろう。


 そこにノックの音がして、刑事が入ってきた。


「たった今、秋葉原で小笠原忠弘の身柄を確保しました。監禁の容疑についても認めたそうです。何か進展がありましたら、またお知らせします」


 それだけ言うと、刑事は部屋を出て行った。


         *


 ご両親が来てくれたことで、美里は病院を後にした。振り返ってみると、とても大きな病院だった。


 ――レイさんが見つかってよかった。


 彼女は、この病院の5階にいる。落ち着いて、大好きな牛乳を飲んでいる。


 ――本当に、助かってよかった。


 私は、今やるべきことをやる。


 このまま、Bloodyの秘密基地に行こう。行って、大地と大空に始めから全部ちゃんと事情を話して、大事なメンバーがひとり欠けてしまったと話そう。リハは2日後に迫ってるから、もうひとつのグループの人たちにだって、心の準備が必要だもんね。


 土屋さん、村石さん、乾さんにも連絡して謝ろう。たぶん、わかってくれる。


 ――それで、おしまい。


 ――残念だけど、おしまい。


 と、そこにスマホが鳴った。『スタジオ24』のテツさんからの電話だった。


「ミリちゃん。今どこにいる? ちょっとしたプレゼントがあるんだけど、スタジオまで来てくれる時間はないかなあ?」


 テツさんは、レイの事件のことをまだ知らない。


「今、練馬高野台の駅にいるんです。これから江古田に戻るので、ちょっとだけ寄りますね」


 美里にも、テツさんに渡したいものがあった。テツさんには、ずいぶんお世話になったから――。

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