note.05 双子のヴァンパイア

「ヴァン……」


 美里は腰を抜かした。


「パイ……」


 地面にへたり込んでるくせに、さらに腰を抜かした。


「ア……」


 目の前は真っ白。でも、ステフに声をかけられて現実に戻る。


「ミリ……あなたは学生ですか?」


 ――コクリ。


「明日は土曜日だから、学校は休みですね?」

「……はい」

「じゃあ、乗ってください。少し、話したいことがあります」


 ステフと大空に抱えられるようにして、美里は車に乗り込んだ。


         *


 お茶の水から20分ぐらい走って着いたのは、Bloodyが「秘密基地」と呼ぶ場所だった。そこは、大学進学と同時に上京して1年ちょっとで、まだ東京の地理にうとい美里でもだいたい想像がつく地区――湾岸エリア――にあった。


 金曜の夜にロマンチックなムードを求めてドライブに訪れたカップルも紛れ込んでこないような、都会の陸の孤島。その一角にある倉庫を、住宅のように改造してあった。


「この場所のことは内密に。写真も控えてください」


 ステフが念を押す。写真がネットに出回れば一瞬で場所が特定されて、ファンが行列をつくることになるからだ。もちろん、美里には撮影するつもりなんかなかったけど。


 中は意外なほど広く、黒を基調にした家具で統一されたリビングルームと、それにつながるキッチンがあった。あちこちにギターやキーボードが置いてあり、奥のほうには重そうなドアがひとつ。


「ステーキを焼きます。――ミリも、何も食べてませんよね?」


 ここで断ってもしょうがないと思って、美里はステフにうなずいた。空腹を自覚してないのに、ステーキと聞いただけでおなかが鳴った。


 大地と大空と美里の3人は、コの字型に配置されたリビングルームのソファに分かれて座る。大空は普通に座ったけど、大地のほうは背もたれに体をうずめるようにしていて、どこか上の空に見えた。たぶん、ライブで疲れてるのだろう。


「ヴァンパイアなんて聞いたら、気持ち悪いよねえ?」


 大空が聞く。


 でも、気持ち悪いかどうかなんてわからない。ただ――


「あの……本当に、ヴァンパイア……なんですか?」


 まだ信じてなかった。――だって、信じるなんて無理。


「うん、そうだよ」


 美里の疑念をよそに、大空はあっさりと答える。


「じゃあ、あの……人間じゃない……って……こと?」


 大空は少し考えてから、おかしな言葉を口にした。


「ボノボ」


 聞いたことがない、不思議な言葉――。

 美里には、ボ・ノ・ボという3つの音のつながりが、何かの暗号みたいに聞こえた。


「――って、ミリは知ってる?」


「……いえ」


「アフリカの一部の森にしかいない、チンパンジーみたいな猿のことだよ。よく似てるから、ずっとチンパンジーの一種だと思われてたんだけど、最近になって別の種であることが判明した。チンパンジーより知能が高いとされていて、行動様式もかなり違う」


「……」


「ヒトとヴァンパイアの違いは、このチンパンジーとボノボの関係に似てるんだ。一見すると同種に見えるけど、実は中身が異なってるところがね」


 美里はうなずく。そして質問する。


「あの……ふたりがヴァンパイアなら、私は血を吸われちゃうんでしょうか……」


「――んなバカな!」


 大地と大空は、声を出して笑った。


「ないない。そんなことないから、心配しないで」


 美里は、また泣き出しそうになるのを必死にこらえた。


「だってさ」

「……」

「ミリはヴァンパイアのこと何か知ってる? 知らないよね?」


 確かに、何も知らない。


 それから大空は、ヴァンパイアの歴史を語った。


 ヨーロッパを中心に、ヴァンパイアは古来から存在する種だった。古代ギリシャや古代バビロニアの時代には民話や神話に登場し、それぞれの国で伝承されるにつれ、別の物語として描かれるようになった。呼び方も異なり、ドイツではドルト、ポルトガルではブルーカ、アラビアではグールなどと呼ばれた。中国のキョンシーも同じ話が源だ。


 19世紀後半頃からは怪奇小説の題材として扱われることが増え、有名どころの作家ではコナン・ドイルが『サセックスの吸血鬼』という短編小説を1924年に書いている。こうした創作物の描写や形容によってヴァンパイア像はどんどん真実から遠ざかり、それがやがて映画化されヴィジュアル化されるに至って完全にねじ曲げられた――。


「ミリが知ってるヴァンパイアのヴィジュアルって、オールバックの髪に黒いマントを着た男が目を真っ赤に充血させて、口から血を垂らしてる姿じゃない?」

「……はい、そうです」


「そして夜な夜な徘徊して、美女を襲って生き血をすする」

「……はい」


「でもさ……そういう映画って、見たことある?」

「ないです……」


「そうなんだよ。ほとんどの人が見たこともない。なのに、あのヴィジュアルだけはなぜか知ってるんだよね……」

「私、レンタルビデオ屋さんでバイトしてるのに……」


 美里は、バイト先の在庫を思い浮かべてみた。すぐに思い出せるのは、トム・クルーズとブラッド・ピットが出た『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』ぐらいで、古いヴァンパイアものの映画は1本も置いていない。


「そのオールバック男のヴィジュアルは、ブラム・ストーカーというアイルランドの作家が1879年に書いた『ドラキュラ』っていう小説が元なんだ」


「……」

「その小説はイングランドで舞台化されて大ヒットして、1920年代にはアメリカに渡ってブロードウェーでも公演された。それに目をつけたユニバーサルが1931年に映画化し、そのとき演じたベラ・ルゴシというハンガリー人の俳優があの扮装をしていて、それがそのまま世界中でヴァンパイア像のスタンダードになったってわけさ」


 作り物。

 作り話。

 ホラー。

 エンターテイメント。

 空想の産物……。


 そんな単語が、美里の脳裏をよぎる。


「できたわ。みんな、こっちに来て」


 ステフに呼ばれて、3人はダイニングテーブルに移動する。


「今日のお肉はランプにした。大地と大空はいつもの1ポンド、ミリと私は300グラム。――足りなかったらまた焼くから、言ってくださいね。ミリ」


 おいしそうな肉。美里の分には焼き目が入ってたけど、大地と大空の分は血もしたたるようなベリーレアだった。


 やっぱり。

 吸血鬼。

 そして、ふたりのユニット名はBloody。――血まみれ。


「有名な絵もあるよ。ほら、あそこの――」


 大空は、壁にかけられた1枚の絵を指差す。そこに描かれていたのは、ベッドに横たわる男性に寄り添う女性の姿だった。


「あれは、イングランドのフィリップ・バーン=ジョーンズという画家が1897年に描いた『ザ・ヴァンパイア』という絵。もちろん、レプリカだけどさ」


 構図から見て、中央にいる黒髪の女性がヴァンパイアなのだろう。でも、まったくモンスターっぽくなく、ドレスのような白い服を着た人間にしか見えない。


「この絵が、本来のヴァンパイアに近いのさ。ま、この女性もちょっとだけ怖い顔をしてるけどね」


 美里は絵を見つめた。何度見ても、それほど恐ろしさを感じなかった。


「不老不死、怪力無双、催眠術、水上歩行、異常に鋭敏な五感、日光を避ける、十字架を怖がる、ニンニクやハーブがダメ、銀の製品が苦手……。一部を除いて、そういうのは全部まやかし。小説や映画でつくられただけの、デタラメさ」


 大空は言った。ちょっと残念そうに、そして悔しそうに。


「人間とは、どこが違うんですか?」


「それはね――」


 大空は真っ赤なステーキを口に入れながら、静かに話し始めた。

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