note.14 伝説のギタリスト

【和田デンタルクリニック】


 細長いビルの外壁に出ている看板を探し当ててエレベーターを上がると、クリニックの入り口はすぐに見つかった。


「失礼……します」


 おずおずとドアを開けて、中を覗き込む。壁も床も天井も全部真っ白な内装の部屋に消毒液の匂いがして、ビートルズの曲がかかっていた。


「おお、待ってました」


 現れたのは、たぶん40歳ぐらいの男性。でも、髪型も服装も20代のように若々しい感じがして、歩き方も軽やかだった。


「お仕事中にすみません。遠海美里と申します」

「構いませんよ、今日の診療はもう終わってますから。さあ座って」


 何か飲みますか? との好意を遠慮して、美里は待合室の白いソファーに腰を下ろした。


「しかし桐谷さんも、よく僕を思い出してくれましたよねえ……。で、いきなり回答から言っちゃうと、僕はBloodyの大ファンなんですよ。メロディーはキレイだし、高度なことをサラッとやってのけてるのもオシャレだし、隅から隅までカッコいい。あなたも、Bloodyのそういうとこが好きなんでしょう?」


「はい、そうなんです!」


 美里の隣に座った和田は、ニコニコして明るい感じの人だった。この笑顔で治療してくれるなら安心できるかも……と、子どもの頃から歯医者の苦手な美里は思った。


「それに、彼らは歌詞がいいんだよね。ほら、僕はずっとボーカルのない音楽ばっかりやってきたでしょう? だから、歌モノの曲に憧れがあってさ……」

「桐谷さんのところで、セカンドアルバムを聴かせてもらいました。すっごく、よかった……ていうか、衝撃でした」


 本心を言った。本当に、素敵な演奏だったから。


「衝撃? あなたみたいな若い子にそう言ってもらえると、うれしいなあ」


 和田は立ち上がり、ソファーの横の本棚から1枚のCDを取り出す。――大きな鳥が翼を開いたようなイラストがデザインされた、を。


「よかったら、これ。差し上げます」

「……いいんですか?」

「だって、売るほど作ったんだから」

「ありがとうございます! じっくり聴かせていただきます!」


「それで、遠海さん」

「はい?」

「Bloodyの話なんだけど、本当に僕にオファーしてくれるの?」

「はい、そのつもりで来ました! これまで何人ものギタリストに会いましたけど……これは失礼な言い方になるかもしれませんけど……ダントツの一番だと思いました。ご都合がよろしかったら、ぜひご一緒させてください!」


 でも、和田はちょっと怪訝な表情をする。ほんの少し、眉をひそめて。


「だけど、あなたは僕のギターを確認してないでしょう? 心配じゃない?」

「それは、CDで十分に伝わりましたけど……」

「じゃなくて、やっぱりオーディションしてよ」

「オーディション……ですか?」

「うん、こっちに来て。ちょっとした機材を置いてあるから」


 ついていくと、奥の診察室にギターとベースが置いてあった。小さなアンプも。


「予約のない空き時間とか、患者さんがドタキャンしたようなときに、いつもここで練習してるんだよね……僕ってバカでしょ?」


 照れたような顔をしながら、和田はギターを抱えてアンプのスイッチを入れた。小型のアンプで小さな音量だったけど、迫力のある音だった。


「何曲か、Bloodyの曲も練習したことがあるんだけどさ……」


 和田はCDプレーヤーからビートルズを取り出してBloodyに入れ替え、再生に合わせて弾き始めた。速く複雑なフレーズも目を閉じたままサラッと弾きこなし、リズムも音程も当たり前のように正確で、小さなチョーキングやビブラートのニュアンスも見事に再現されていた。


 ――つまり、めちゃめちゃ完璧!


「和田先生……すごいです。素晴らしいです! 聞きほれちゃいました!」


 ――嘘も偽りもない本音。本当に、すごいギタリストだと思った。


「はははは! そんなによかった? それは、うれしいなあ……。でも」

「はい?」

「その『先生』っていうのはやめてね。僕は今、歯医者じゃなくてミュージシャンだから」

「す……すいません」


「そんなに謝んなくていいよ。で、僕は合格かなあ?」

「はい! 120点ぐらいの大合格ですっ! やっぱり、和田せ……じゃなくて、和田さんが一番いいですっ!」


「それは、うれしいなあ……。それでスケジュールなんだけど、武道館の本番が6月24日で……リハは?」

「1日だけ間を置いて、21日と22日です。お昼頃から夜までの予定だそうです」


「えーと……21、22、24ね……」


 和田は手帳を開いて確認する。


「――21日はもともと休診日、22日は……どうするかな。いいや、こうなったら臨時休診にしちゃおう。24日はもちろん空いてるから、OKだな……」


「スケジュール、大丈夫そうですか?」

「うん、できる」

「あ……ありがとうございます!」

「ぜひ、僕にやらせてください。いいギターを弾きますから」


 美里は、感動して涙をこぼしそうになるのを我慢した。


「私も、頑張ってベース弾きます!」


「僕は、こんな歯医者なんかやりつつの兼業ミュージシャンだけど、一度はバンドでプロデビューしたことのある身じゃない? だから、武道館はずっと夢だったんだよ」

「その気持ち、わかります」


「でね、さっき桐谷さんから連絡をもらった後で、ひとつ考えたことがあるんだ。うちのBRACESのメンバーでBloodyのバックをやれたら楽しいだろうな、って……。ま、すでにあなたというベーシストが決まってる状況だとしても、ドラムとキーボードだけでも参加できないだろうかってね。どっちも、楽器の腕はピカイチだと保証できるから」


「それです! それ! メンバー、大歓迎です!」

「と思って……電話してみたの。ふたりとも真剣にやりたがったんだけど、残念ながらどっちも都合が合わなくてダメだった。大学のときに組んだバンドだから、僕以外のメンバー全員も歯医者なんだけどさ」


 ははは……と、和田は楽しそうに笑った。


「……そうなんですか」

「これがうまくいってたら、うちのバンドにとっても記念碑的な日にできたんだけどね。ま、悔やんでも仕方ない」

「はい……」

「そういう残念な点もあったけど、とりあえず――」


「?」

「よろしくお願いします」


 和田は右手を差し出した。美里も、その手に自分の両手を重ねる。


「こ……こちらこそ、よろしくお願いします!」


 和田の手は柔らかく、そして温かかった。


 ――やった! これでギタリスト確保! しかも、強力な人を!


「じゃあ、何かちょっと一緒に弾いて遊ぼっか。そこの僕のベース、弾きにくいかもしれないけど使ってくれる?」

「はい! 喜んで!」


 美里はそのベースを借りて、アンプの電源を入れて音を出してみた。ピンクのアンプだった。


「このアンプ、ちっちゃいのに……いい音しますね」

「うん。こんな派手な色してるクセに、かなりの性能だよ。――ていうか、あなたはアンプ持ってないの?」

「はい……持ってないです」


「それはよくないな。こういう小型のでいいから、家に練習用のを持っておいたほうがいい。そのほうが耳が鍛えられるし、練習のクォリティーも上がる」

「わかりました」


 美里は短いスラップをアドリブで弾いた。和田は身を乗り出して、「おお、すごいベース弾くねえ……。さすが、あのBloodyのお眼鏡にかなった人ってことか」とホメてくれた。


         *


 30分ほどセッションした後でクリニックを出て、美里は駅前の人込みをかき分けるように小走りしながらザキに電話した。すぐに応答があった。


「ザキさん、聞いてください! ギタリストが見つかりましたっ!」

「お、いいね! どんな人?」

「BRACESの和田さんという人です!」


「マ……マジ!?」

「はい! 今、決まったところです!」


「BRACESの和田一生っていったら、伝説のギタリストだぞ!」

「え……? 私、もしかして伝説をゲットしちゃいました?」


「そうだよ! 伝説中の伝説だよ! 和田一生っていうのは、ずいぶん前にアルバムを1枚出しただけなのに、未だにギター雑誌の人気ランキングでベスト10に入ってるような人だからね! そんな大物、よくつかまえたな!」


 ザキはBRACESを知っていた。こんなに喜んでくれて、美里も心の底からうれしかった。


         *


「えーーーーっっっっ!!」

 

 翌朝。

 美里は和田からの電話で飛び起きた。


「ごめんなさい! 僕は手帳を見間違えてた! 僕が見てたのは6月じゃなくて7月のページで、6月24日には予定が入っちゃってて……」


「えっ! それって、予定を動かしたりすることはできませんか?」

「それが、6月24日は韓国出張で、歯医者が使う機器のコンベンションに出席しなくちゃならなくて、どうにも外せないんだ……本当にごめんなさい!」


 仕方なかった。美里は平謝りして悔しがる和田に礼を言って、電話を切った。


 ――残念。残念すぎる。


 ――伝説、つかみそこねちゃった。


 でも、美里には落ち込んでる時間なんかない。ため息をついてる時間もない。


 ――またゼロから出発するだけ! 絶対に、別の伝説を見つけてみせる!

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