note.20 エキストラ

 メンバーを確定できたその日から、美里は練習に没頭した。


 しばらく休んでいたバイト先の店長にもあらためて事情を話すと、「お! 遠海さん、ついに武道館決定したの? じゃ、うちのBGMもしばらくBloodyのフル回転にするよ!」と言ってくれた。


 レイには、何度も音合わせの相手をしてもらった。いつもの『スタジオ24』の小さいほうの部屋を借りて、BloodyのCDに合わせて演奏する。


 覚えなくちゃいけないのは、CDではフェードアウトになってる曲をライブでどう終わらせるか。これは、ステフから届いた楽譜をレイが読んで教えてくれた。


「えっと、『何よりも輝ける闇』のエンディングはどうすれば……?」

「最後のサビを回した後で、『ダダダダダ・ダダダ・ダーン!』だよ」


 キーボードを弾きながら、言葉でも教えてくれる。耳だけでもすぐ覚えられるけど、一応はメモしといて……。


「わかりました。『ダダダダダ・ダダダ・ダーン!』っと……」

「そのとき、ミリはずっとFの音を弾いてればいいの。低い音……4弦の1フレットね」


「『予言者の憂鬱』は?」

「こうだよ。最後にギターソロが32小節あって――」


 レイはまた、キーボードと言葉で教えてくれる。


「わかりました。『ダダダダッ・ダダダダッ・ダダダダダダダーン!』ですね」


 つくづく、レイが一緒にいてくれてよかったと思う。読めるようになりたいと思って何度トライしても、どうしても楽譜にはなじめなかったから。


「楽譜なんか、無理に覚えなくていいと思うよ?」


 レイが慰めてくれる言葉が心にしみる。その優しさに報いるためにも、必死に頑張らなきゃいけないと思う。


 ――6月24日の本番まで1ヵ月、練習の鬼になる!


 美里は固く決意して、青ちゃんを毎日抱えた。そんな日が1週間も続くと、美里の左手指先のタコはひと回り大きくなった。


         *


 6月に入ると、東京は梅雨でジトジトする日が続いた。


 雨の日には極端に客足が落ちてしまうレンタルビデオ店のバイトを終えて部屋に戻ると、ドアに宅配便の不在通知が挟まれていた。書かれていた番号に電話して届けてもらった荷物は『Purple Haze』からで、備考欄に「和田一生様より」と追記されていた。


 段ボール箱に印刷されたイラストは、クリニックで使わせてもらったのと同じピンク色のベースアンプ。箱を開けると、1枚のメッセージカードが入っていた。


 遠海美里様

 先日は私の人生最悪のポカでご迷惑をかけてしまって、申し訳ありません。

 その伏してのお詫びと、武道館デビューのお祝いを兼ねて。

 和田一生


 P.S. いつか一緒に演奏できるといいね。


「和田せ……あ、和田さん……」


 ――自分がベースアンプをもっていないことを気にして、覚えていてくれた。うれしかった。ありがたかった。


 すぐにお礼のメールを打ちかけて、でも途中でやめる。こういうときは、メールじゃなくて手紙のほうがいい。美里は引き出しから便箋を取り出して、ひと文字ずつ感謝の思いを綴った。


 段ボール箱から取り出したベースアンプは、やっぱりピンク色のボディが可愛かった。こんな外見で、しかも小型なのにクリアで重厚な低音が出る。


「この部屋は防音仕様だから、ちょっとぐらいなら平気だよね?」


 とは思いつつ、美里はちょっと控えめな音量で2代目青ちゃんを弾いた。


 美里が住んでいる江古田の街には、明和大芸術学部だけじゃなく練馬音楽大学もある。そのため、付近には音大生向けに防音施工された賃貸物件が多く、美里が借りている部屋もそのうちのひとつだった。


 週末になると、あちこちからピアノやサックスを練習する音が聞こえる。つい先日には、美里の部屋の隣に長髪のロック青年が引っ越してきた。彼の部屋からは、ヘヴィメタ系の音楽がよく聞こえてきていた。


         *


 レイと美里がBloodyと武道館に出るという噂は、あっという間に大学中に広まっていた。それに比例するように軽音への入部希望者も増え、スラップや3フィンガー奏法を教えてほしいと声をかけられることも多くなった。


「本番まで、あと2週間だね」


 レイは、その日が楽しみで仕方がないという様子だ。


「まだまだ練習しないと」

「ミリは、もう練習しなくていいんじゃない? だって完璧だもん……ていうか、最初から完璧だったけど」


「レイさんこそ、完璧ですよ」

「本番、頑張ろうね」

「はい、気合十分です!」


 6月10日。レイと美里は、本番前のふたりのスタジオ練習を最後にした。


         *


 ドラムの玉井陸くんから電話があったのは、その5日後のことだった。


「ちょっと、マズいことに……」


 と言う彼と、渋谷のハチ公で待ち合わせした。学校の制服らしい、白いポロシャツとグレーのズボンを身につけた玉井くんは――


「チャリに乗ってたら車にぶつけられて……肘を骨折しちゃって……」


 左手をギプスに包み、黒いネットで肩から吊るしていた。


「大丈夫? ケガは肘だけなの?」


「はい。ほかは、擦り傷ぐらいで……」


 言葉の途中から、玉井くんは肩を落として震わせ始める。最初は小刻みだった震えは、そのうちどんどん大きくなった。


「すいません。僕、24日は叩けなくなりました……」


 無傷だった右手で、大粒の涙を拭う。悔しさをいっぱい詰め込んだ涙を。


「いいよ。事故なんだから、仕方ないもん」


 いくら「日本音楽界の宝」といわれるほどの天才ドラマーでも、中身は17歳の少年。姉とふたり姉妹の美里には、弟のように愛おしく見えた。


「本当に……すいません」

「ちゃんと治したら、またドラム叩けるんでしょ? それまでは無理しないで、じっくりと治そうよ。ね?」


「……はい」


 とは言ったものの、代理のドラマーを急いで探さなくちゃならない。


 21日にはリハがあるから、時間の猶予はほとんどない。


 ――誰か、頼める人はいるだろうか?


 ――でも、今はこの天才ドラマーの涙を拭ってあげたい。


「ほら。泣かないで元気出して」

「それで、あの……」


「なぁに?」

「僕……トラ……頼みました」


「……え?」


 玉井くんは、瞼の動きだけで小さくうなずく。


 何らかの仕事をいったん引き受けたミュージシャンが、病気やケガなどの突発的な理由でその仕事ができなくなった場合には、自分と同等かそれ以上の技量をもつミュージシャンを自らアテンドしなければならないというがある。その「エキストラ」を略して「トラ」と呼ぶのは、姉の結婚式で演奏していたベーシストが教えてくれたことだった。


 ――と、そこに声がした。


「おうおう、待たせたな」


「…………えっっ!?」


 思わず、声にならない叫び声をあげた。自然と、体がのけぞった。


 そこに立っていたのが「化け物ドラマー」……いや、猪俣流でたったひとりしかいない師範・村石力哉だったから――。

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