note.04 スウィープ!
サラリと言った桐谷の答えに慌てて、美里は椅子から転げ落ちそうになった。持っている100万円の楽器だけは、落とさないように抱きかかえて――。
「無理です無理です! 100万円もするベースなんて、私には弾けませんっ!!」
すると大空が、壁にかけてあるベースを指差して桐谷に聞く。
「あのフォデラのはいくら?」
「あちらですと、200万円ほど……」
「ににに……にひゃく……まんえん!? そんなの、もっと無理ですっ!」
まるで別世界の話だった。
「ふたりとも、そろそろやめなさい」
突然、ステフが言った。両方の眉を上げて、顔をしかめて。
「――そのタイプの楽器は、ジャズマンのおじさんとか向けでしょう? ミリみたいな可愛らしいお嬢さんには似合わない。ふざけてないで、もっと真剣に探してあげなさい」
「やばい、怒られちゃった。――じゃあ桐さん、ほかのも見せてよ」
大空が肩をすくめて笑う。イタズラっ子みたいな表情で。
「では、ハンドクラフトの工房ものは避けるようにいたしましょう」
桐谷の言葉の意味がわからない美里がキョトンとしてると、
「腕のいい職人さんが厳選した材料を使って手作りした楽器は、どうしても値段が高くなるでしょ? スペクターとかフォデラっていうのは、そういう工房の名前なのさ。でも、作品は素晴らしいけど値段が高いから、今回の候補からは除外しましょうってこと」
と大空が説明してくれた。
それから美里は、桐谷が出してくれるベースを次々と試奏した。
ひとつわかったのは、やっぱり『Purple Haze』には高級品ばかり並んでいて、初心者用の楽器は1本も置いていないことだった。
「ミリ、スラップはできる?」
ミュージックマンのスティングレイベースを弾いていたとき、大空が聞いた。
スラップというのはベースの奏法のひとつで、右手の親指で弦を強く叩いたり、人差し指で弦を引っかけるように弾くことだ。人差し指と薬指で弾く通常のツーフィンガー奏法とは違って、打楽器的でリズミカルな音が出せる。
「一応、できます」
「やってみて」
美里は、大きく深呼吸してからスラップを始める。前に練習したことのあるマーカス・ミラーのベーシックなフレーズから始めて、ビクター・ウッテンみたいな指使いでアドリブを加えて――
弾く。
叩く。
弾く。
叩く。
スティングレイは、美里の意のままに反応した。キレがいいベースだった。
ロータリー、3フィンガーのトレモロ、マシュー・ギャリソンっぽい4フィンガーの速弾き、チョーキング、和音、ピッキングハーモニクスにタッピングも混ぜて、ついでにスウィープまで披露した。額に汗がにじんだ。
「ちょ……ミリ、すんごいバカテクじゃないの! なあアニキ?」
「うん、すげえ。ベースでこれだけのスウィープ、初めて見たわ」
双子の兄弟が驚いていた。
スウィープはギタリストが頻繁に使う速弾きテクニックのひとつで、左手を素早く弦移動させながら右手のピックを箒で掃くようにして、弦の上を滑らせて弾く。美里は今、それをベースでやってみせた。しかも、ピックを使わずに爪で。
「そう……ですか?」
謙遜しつつ、本当は有頂天だった。だって、大好きなエディ・ヴァン・ヘイレンやスティーブ・ヴァイのギターみたいなベースが弾けないかと思って一生懸命練習したプレイをホメてもらえたんだから。それも、Bloodyの大地と大空に。
「タップとスウィープんとこ、もう一回やってみてくれる?」
――大地のリクエストに応えて弾く。
「もう一回」
――同じフレーズを、もう一度。
「速くて見えねえわ……君は、いったい何者なんだ?」
言いながら拍手してくれた。美里は、照れながら胸を張った。
「じゃあ、ミリ。そろそろ、どれにするかベースを選ぼっか」
これには、返答に迷った。――ひとつを選ぶのは難しい。
そこに大地が言う。
「ま、楽器ってのは最終的には個人の好みでしかないし、その楽器をどう使うかもプレイヤー次第。弾けば、こっちの技術は上がる。楽器のほうも、弾いてもらうことで育つ」
「はい」
「楽器は生き物だからね。持ち主がちゃんと使えば、それに応じて楽器も伸びる」
「……はい」
「でも、いっぺんに何本も弾いちゃうと、なかなか決断つかないだろ? 一長一短、帯に短しなんとやら、みたいにさ」
「どれも、いい音で……正直、迷います」
大地はギタリスト。同じ弦楽器奏者がアドバイスしてくれている。美里は、その気遣いに感謝した。
「じゃ、今日のところは最初に弾いたアイバニーズにしときな。音もしっかりしてたし、何より――」
美里は目でうなずく。
「あれを弾いてるときが、一番イキイキして楽しそうだった」
「はい。すっごく弾きやすくて……」
「なら、相思相愛。あれを買って、君が育てればいい」
美里はまだ困惑していた。そう気軽に言われても……やっぱり困る。
「でも……あの……値段が……」
「そんなの気にすんな。ねえ桐さん、あれは100万もしないでしょ?」
「その5分の1もしません。お値引きもいたしますので」
「じゃあ、決まり! 俺はちょっと、先に車に戻って電話してるわ」
大地は、ステフから車のキーを受け取って店を出ていった。
桐谷は付属のハードケースにベースを入れ、ソフトケースとストラップと弦をおまけにつけてくれた。ステフが支払いを済ませるのを大空と待つ間もずっと、美里はうれしくてたまらなかった。
「本当に、すいません。ありがとうございます!」
また涙がこぼれてきた。今日は、いったい何回泣いただろう……。
「いいのいいの。俺たちの車で壊しちゃったんだし、君は俺たちの大ファン。これも何かの縁、ささやかなプレゼントだと思ってよ」
「ベース、大事に使います。あ……じゃなくて、育てます」
「そうだ。ミリはどこに住んでるの? これから、どうやって帰る?」
「
「もう遅いから、タクシーで帰りなよ。お金、あげるからさ」
「いえ、そんな結構です結構です。電車で帰ります」
時刻は、11時を少し回ったところ。電車は、まだある。
「そう? ハードケース入りのベースって、かなり重いよ?」
そのとき、美里は思い出した。
「あ、そうだ。車に置いてきた青ちゃんのケースに、ストラップとかの小物が入ったままなんです。ちょっと取ってきます」
「わかった。行っといで」
美里は階段を上がって店を出た。ワゴン車の中にいるはずの大地に声をかけてドアを開ける。
「失礼します。ミリです」
――えっ?
ドアを開けた美里は、再び凍りついた。仰天した。
でも今度のは、さっき武道館のところでこの車のドアを開けたときの衝撃とは比較にならないほどの驚きだった。
「え……えええ……っっ」
シートに座っていた大地がこちらを見た。
異様なまでに目が赤く光り、口元にはさっき美里のケガを拭ったステフのハンカチがある。大地は、そのハンカチに咬みつくようにしていて、前歯が赤く染まっていて――
「こ……これ………って……」
大地は茫然と美里を見つめたまま、何も言わない。
「うわ……わわわっっ!!」
あまりにも大きく口を開けたせいで、顎が外れそうになる。
「こ……これって……きゅう……」
卒倒しそうになるのを、なんとか回避してへたり込む。
――今、見たものは何?
――今、見たものは何?
――今、見たものは何?
――今、見たものは何?
「きゅう……けつ……」
呼吸が荒くなって、顎も震えてるのがわかった。
――私の、血を?
「ミリ。見ちゃったんだね……」
声に振り返ると、大空とステフが立っていた。大空はアイバニーズのベースが入った大きなハードケースを両手に抱えて、悲しそうな表情をしている。
「……え?」
「それなら、仕方ない……か……」
大空は表情をゆるめて、力なく笑った。
「大空、よしなさい」
ステフが何かを制止した。冷静な口調で、何かを。
「でも、見ちゃったんだよ?」
大空は聞き入れず、ステフを振り切る。
「見てのとおりさ。僕たち兄弟は――」
美里は唾液を飲み込もうとした。でも、口がカラカラに乾いていて無理だった。
「ヴァンパイアだよ」
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