note.03 Purple Haze

 まさか!

 まさかまさか!

 まさかまさかまさかっ!


 な……な……なんていう展開っっ!!

 世の中って、こんなことが起きちゃうものなの!?


「あの……皇さん、本当に私……行っても……いいんでしょうか?」

 まだドキドキしていて、体が熱い。汗が止まらない。


「いいも悪いも、もう楽器屋さんに向かってますよ?」

 運転している女性は、前方を見たまま微笑んだ。


「――それから、私のことはステフと呼んでください」


 車は、交通量の多い都心の道路を泳ぐように走っていく。


「ところで、君の名前は?」

 大空に聞かれた。


「遠海美里……と、いいます」

「ミサトちゃんか……何かアダ名はある?」


「みんなには『ミリ』って呼ばれてます。私、身長が150センチしか……」

「ウソだ。150もないだろ」

 横から、大地にツッコまれた。


 陽気で人懐っこい弟と、毒舌でぶっきらぼうな兄。――こんなこと、今までのBloody情報では知らなかった。


「ホントは149ぐらい……です……」

「そっか! ちっちゃいから『ミリ』なのか。じゃあ俺も、これからはそう呼ぶことにするよ! アニキもステフもね!」


 大空に肩をたたかれて、また体が熱くなる。


「はい。よかったら、ミリ……で」


 でも、アダ名で気軽に呼んでもらえるだけで、Bloodyのふたりに少し近づけたような気がした。


         *


 お茶の水――。


 日本を代表する楽器店街から少し外れた場所に、その店はあった。


 車の中で、美里は「外勤」の話をした。4年前にデビューした頃からずっと、Bloodyのファンだったことも話した。話したことで、ずいぶん落ち着くことができた。


「こっちだよ」

 車を降り立った大地と大空は、思ってたよりずいぶん背が高かった。チビの美里との差は、たぶん30センチはありそうなぐらいに。


「はい」

 美里は、大空を見上げて返事する。


「ついておいで」

 裏通りの雑居ビル。大空に続いて狭い階段を下りると、ギターをかたどった紫色のネオンが見えた。その下に重そうな金属製の扉があり、目線の高さにつけられた小さなパネルに店名が書いてある。


 ――『Purple Haze』。ジミ・ヘンの名曲。


「ここって、本当に楽器屋さんなんですか?」

 たいていの楽器屋には店頭にショーウィンドーがあって、カッコいいギターやベースを大量に飾って客を誘い込むものなのに、この店にはそれがなかった。


「うん、そうだよ。知る人ぞ知る、って感じのね」

 大空が答えると、

「いかにも偏屈なオーナーがやってそうな店だろ? 実際、相当に偏屈だけどな」

 大地がジョークを言う。やっぱり、ちょっと毒舌……。


「うわー!」

 外から見た印象とは違って、店内は意外なほど広かった。


 だけど、美里が知ってる楽器屋とはまるで様子が違って、たくさんの楽器が並べられた間隔がゆるやかで、ホテルのロビーみたいに整然としていた。それに、並んでるのは高価たかそうな楽器ばかり……。


「お待ちしておりました」

 オーナーらしい人が挨拶した。普通、楽器屋の店員はTシャツにエプロン姿とかなのに、この人は黒い蝶ネクタイにベストを着ていた。――しかも、どう見ても30歳ぐらいで、モデルみたいなイケメン。


「キリさん、ごめんね。営業時間外なのに押しかけちゃって」

「いえ、とんでもありません。望外の喜びです」

 キリさんと呼ばれた人は、気をつけをしてから軽く一礼した。時刻は9時半。


「――こちらの方が、さきほどお話しいただいたベーシストさんですね? 当店へようこそいらっしゃいました。私は、オーナーの桐谷きりがや秀也しゅうやと申します。以後、お見知りおきを」


「あ……えっと……私、遠海美里といいます。よろしくお願いします!」


 ペコリと頭を下げ、やたらと丁寧な話し方をする桐谷の名刺を受け取る。楽器屋でこんなに緊張したのは初めてだった。


「じゃあミリ、好きなの選んでいいよ」


 ベースが並んでいるコーナーに行き、気楽な感じで大空が言う。でも、ここまで来ても美里は迷っていた。青ちゃんの代わりが欲しいのはやまやまだけど……。


「あの……本当に……いいんですか?」

 おずおずと聞いた。


「トーゼンでしょ。そのために来たんだから、気にしないで選んじゃって!」


 大空は気軽に言うけど、でも……でも……。


「あの壊れたベースって、どこのメーカーのやつ?」

 迷っていた空気を裂いて、大地が聞いた。


「アイバニーズ……ですけど」

「いくらだった?」

「に……2万7000円でした……」

 いきなり、大地も大空も目が点になる。


「2万7000円!?」

「2万7000円!?」

 いくら双子だからって、そこでハモらなくても……。美里は顔を赤らめた。


「アイバニーズか……。俺はギターだからベースのことはよく知らないけど、あそこのはネックに特徴があるから、次も同じにするのが賢明かもね。――どう、桐さん?」

 大地が聞いた。


「そうかもしれませんね。遠海さま、ベース歴は何年ですか?」

「3年ぐらいです」

「なるほど。最初にビギナー向けの楽器を購入して、今もお使いなのですね?」

「はい」

「これまでに所有なさったのは、そのアイバニーズだけですか?」

「そうです」

「手を見せていただけますか?」

 美里は両手をパーの形にして桐谷の前に出す。


「やはり小さいですね。でしたら、大地さまがおっしゃるように、まずはアイバニーズが候補になるかと思います」


 大地はうなずき、「おすすめ、ある? あったら見せて」と頼んだ。


 桐谷はすぐに、陳列のなかから1本を選び出す。


「こちらの、SR2500Mというモデルなどはいかがでしょう? 明瞭な音質と、どんなタイプの音楽にも奏法にも対応できるユーティリティー性の高さが特徴です。軽量でネックも細めですので、女性にも扱いやすいかと」


 それは、青ちゃんとソックリの形をしたベースだった。色も同じ青で、美里はひと目で気に入った。


「ほら。迷ってないで弾いてみなよ」

 大空に背中を押されて、ベースを受け取る。すぐに桐谷がアンプにつないでくれた。


 おそるおそる弾いてみる。ちょっと弦がゆるんで音程が狂ってたから、チューニングして――


「すごい! 青ちゃんとはぜんぜん違う!」


 一瞬でわかった。


 重い低音、伸びる中音、華やかな高音。青ちゃんには申し訳ないけど、すべての音がクリアで別次元だった。反応も早く、自分が弾きたい音の表情をそのまま表現できる感じがした。

 でも、たくさんついてるスイッチが何だかわからない……。


 すると桐谷が言う。


「いろいろお試しになって、ご自分のお好みの音質を探してみてください。女性は指が細いので、男性より音が硬めになる傾向もございますし」

「……はい」


 小さなスイッチをいじってみたら、音質がガラッと変わった。――いい感じ。


「同じモデルで5弦のタイプもありますが、そちらもお試しになりますか?」

「あ、いえ。5弦なんて弾いたこともないです……」


 普通のベースの弦は4本だけど、今は5本や6本のタイプもある。でも、美里には未知の領域だったので遠慮した。


「桐さん。スペクターのベース、ない? 前に誰かが使ってるの聞いて、すげーいい音してたんだけど」


 大地が聞くと、

「ちょうど、素晴らしい個体が入荷しておりまして……」

 桐谷が1本のベースを差し出す。ボディは木の色がそのままの塗装で、木目がいっぱい浮き出てるタイプ。――つまり、高いやつ。


 それもアンプに接続してもらい、美里はスペクターを弾いた。十分に重厚なのに、どこまでも伸びる感じの音がした。


「うわっ! これも、いい……」

「現代のアクティブ型ベースのスタンダードになった名器・スペクターNS2の新作です。さすがの音ですが、なにせレアですので少々お高くなってしまうのが難点でして……」


「へー、そうなんだ。いくらなの?」

 大地が聞いた。


「100万円プラスアルファです」


「ひゃ……ひゃ……ひゃくまんえん!?」

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