note.02 ミリの宝物
「待てぇぇーーっ!!」
鬼の形相で追いかけた。脚力には自信がある。相手は男とはいえ、重くて大きいベースを持ってたら走りにくい。
美里は、サングラス男との距離を着々と詰めた。
――トートバッグを投げつけてやろうか。ダメ、そんなんじゃ大した打撃にならない。
美里は走りながら、電光石火のスピードで思いを巡らせる。
「こ……んのぉ、泥棒ぉぉーーっ!!」
そのときだった。男が何かにつまずいて転倒した。
青ちゃんが入ったケースも空中に投げ飛ばされ、アスファルトに着地して滑っていく。その一連の動きが、美里にはスローモーションのように見えた。
――空白。
――そして、沈黙。
「……あ」
次の瞬間、バキッという音がした。メリッという音もした。
「……え?」
ハッキリと聞こえた。青ちゃんは、武道館の駐車場から出てきたワゴン車の下敷きになって、鈍い音を上げた。
「チッ!」
サングラス男は舌打ちすると、身を翻して走り去っていく。追いかけて捕まえてやりたかったけど、美里は諦めた。だって――
「青ちゃん……!」
しゃがみ込んで、黒いフィルムが窓に貼られたワゴン車の下から青ちゃんを引っ張り出す。すぐにケースのファスナーを開けて――
「わわわっ!」
無残だった。ネックが根元からポキンと折れ、ボディも大きくひび割れていた。
「わ……割れてる……」
と、そこへ――
パンプスをはいた女性の足元が、美里の視界に入ってきた。
「ごめんなさい。突然で、よけられなくて……」
運転席から降りてきた女性だった。
かっちりとしたタイトスカートのスーツを着た30歳ぐらいの女性で、赤いメタルフレームの眼鏡をかけている。明らかに日本人じゃない肌の色に、アイホールが深くてキリリと整った顔。かるくウェーブのかかったショートカットのブロンドが街灯に反射して、とても綺麗だった。
――でも、この人は何も悪くない。運転してたら、目の前に青ちゃんが飛んできただけの、不可抗力。
「青ちゃん……」
美里は放心状態で、ただ女性と青ちゃんとを交互に見ていた。何をどうしたらいいかがわからなかった。ひとつだけ確かなのは、ひたすら悲しくて泣いていたことだった。
「おでこ、ケガして血が出ています」
女性が言った。やっぱり、外国の人っぽいイントネーションで。
「……へ?」
サングラス男に突き飛ばされたときにこすったらしく、すり傷ができていた。痛みは感じないけど、目に入りそうなぐらいには出血していた。
「そこに座ってください。おでこに応急処置をして、ほかにケガがないかも確かめましょう」
美里は何も考えられず、女性に従って花壇の縁に座った。
「あなたにとって、大事なベースなんですね?」
傷口の血をハンカチで拭ってくれながら、女性が聞いた。美里は力なく、「はい」とうなずくことしかできなかった。全身の力が抜けきっていた。
「念のため、病院に行きますか? こんな時間ですから、どこかの救急外来に駆け込むしかありませんけど……」
女性は、バッグから手鏡を出して傷を見せてくれる。傷は浅く、小さかった。
「大丈夫です。そんなに痛くもないし、こすっただけですから」
「わかりました。それで――逃げた男と、何があったのですか?」
「今日はBloodyのライブで、私はそこで『外勤』してて……」
「あら、あなたはBloodyのファンなんですか?」
「でも、毎回チケットが取れなくて……」
「そうですか……。あ、でも話を変えさせちゃってごめんなさい。逃げた男とのこと、もっと教えてください」
女性は微笑み、美里はコクリとうなずいた。
*
「サイテーね。こんな可愛い女の子から、大事な楽器を盗むなんて――」
女性は話を聞きながら、手鏡を出したりしまったり、美里の額を拭いたハンカチをまとめてビニール袋に入れたり、テキパキと作業した。絆創膏も貼ってくれた。チビの美里と違って背が高く、姿勢も美しかった。
「警察、呼びますか?」
「いえ、そんなことは……」
「でも、バッグじゃなく楽器を狙ったということは、間違いなく常習犯です。多いんですよ……盗んだものを転売する
「そうなんですか……」
「では、こうしましょう。私は明日、車載カメラの映像を警察に届けます。おそらく、ちょうど男が転んだところが撮れているでしょう。それに、ベースのケースに指紋がついてるはずだから、それも証拠として提出させてください。結局、楽器は盗まれなかったから未遂だけど、これは明らかに強盗および傷害の刑事事件です」
テキパキしてるだけじゃなく、知性的な人だと思った。
「わかりました。よろしくお願いします」
「私が車で
美里は首を横に振る。――あなたのせいじゃない。
「あの……ハンカチ、洗ってお返しします」
「そんなこと、気にしなくていいです」
女性はニッコリと笑った。花を咲かせたような、優しい笑顔だった。
そこに突然――
「ステフ、その子をこっちへ」
後部座席のスライドドアが開く音がして、それに男性の声が続いた。
「――いいの?」
ステフと呼ばれた女性が、眼鏡の位置を直しながら返事をする。その仕草が、とてもしなやかだった。
「うん」
「じゃあ、こちらに来てくださいますか?」
「……え」
その瞬間、心臓がはち切れた。
全身から一気に発汗して、膝がガクガクと震えた。
――大地と、大空!!
車の中に、Bloodyのふたりがいる!!!!
「……はう……わわわ……」
生まれて初めて体験する緊張だった。全身が硬直してしまって、言葉もうまく出せない。
「どうぞ。乗って」
その場に立ち尽くしたままの美里に、車からの声がシートを指差した。
ウェーブのかかった金髪だから、大空のほうだ。サラサラのストレート銀髪をした大地は、その隣で静かに座っている。
「うわわ……わわ……」
「ほら。早く乗っちゃいなよ」
大地にも
ぶ……ぶぶぶ……
「Bloody!!」と叫びたかった。でも、喉がカラカラで声が出ない。
「あらためて、はじめまして。私はBloodyのプロデューサー・
赤い眼鏡の女性に背中を押されて、美里はなんとかシートにたどり着く。
「ベースのネックは折れちゃったけど、これで音楽への気持ちが折れたわけじゃないよね?」
大空が慰めてくれる。
「それは……もちろん……です……」
「音楽は好き?」
「は……はい」
音楽は人生、そして人生は音楽。
そう答えたかったのに、うまく話せないことが悔しかった。
「それでさ――」
「はい」
「今、いつもお世話になってる楽器屋さんに電話したんだけど……」
「……?」
「店を開けて待っててくれるって言うから、これから一緒に行こう」
ひたすら目をパチクリさせる美里を尻目に、大空はサラリと言葉を発した。何事もなかったような、
「――君の、新しい宝物を買いにね」
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