第29話 海水浴と進む道
この夏休みは、私立を含めて5つの学校の見学に行った。いろんな高校を見比べて、自分の進路について真剣に考えるほど、私の『その思い』は強くなっていた。
──高校に行かないで、高際さんと一緒にいたい。
その選択肢が普通じゃないことくらいわかっている。だからこそ、親友にはおろか両親にも言えない。新学期に入ってすぐ、志望校を決めるための三者面談が開かれる。夏休み前には、先生から志望校の希望を記入する用紙が配られた。だから、新学期が始まる前に、この気持ちを整理しないといけない。当事者である高際さんには、話しておかないと、と思った。
夏休みだからと、遠出する許可をもらって、わたしと高際さんは海に来ていた。シーズン真っただ中の海は人でにぎわっていて、これなら仮に知り合いがいてもごまかせるな、と思った。
スクール水着を着るわけにもいかないから、水着を新調した。セパレートにはなっているものの、あまり露出度の高くない、フリルたっぷりの花柄の水着だ。高際さんは、ハーフパンツのような黒のシンプルな水着を着ていた。上はパーカーを着ていて、ファスナーをしっかり閉めているので、その下がどうなっているかはわからない。ちょっとだけ期待してたのに……。
「泳がないんですか?」
「さすがに、海ではしゃぐ年齢ではないからな。見ているから、泳いでおいで」
「そんなぁ……足だけでもいいから、入りましょ? ね?」
渋る高際さんを引っ張っていき、浅瀬にやってくる。水が冷たくて気持ちいい。膝あたりまでつかる位置までやってくると、いてもたってもいられず、「えい!」と高際さんに水をかけた。すると、(そんなつもりはなかったんだけど)水は高際さんの顔にクリーンヒットしてしまった。
「……つばさちゃん、君って子は……」
「えへへへ。お、怒りました?」
「……」
「ごめんなさーい!」
「あ、待ちなさい! 危ないから!」
わたしが逃げると、高際さんは慌てて追いかけてきてくれた。こうしてじゃれ合うの、デートっぽいななんて思って、ちょっと浮かれてしまった。ていうか、デートっぽい、じゃなくてデートなんだよね。今くらいは、思いっきり楽しもう。太陽でキラキラ輝く海を見て、そう決めた。
* * *
「あっ!」
泳ぎつかれて、浜辺を散策していると、可愛らしいピンクの貝殻を見つけた。なんていう貝だろう。高際さんに見せればわかるかな。貝を海水で洗って、高際さんのもとへと駆けていく。
「高際さぁーん!」
ぶんぶんと手を振って駆けよっていったのに、高際さんはどこかぼんやりしていた。
「……高際さん? どうしたんですか?」
「……いや、……何か見つけたのか?」
「はい! かわいいピンクの貝殻を! これ、なんて貝ですかね?」
「たぶん、サクラガイじゃないか?」
「へぇ! 意外にそのまんまの名前なんですねぇ!」
今日の記念に持って帰ろう。ウキウキで荷物に入れると、それ一つだけにしておけよ、と釘を刺されてしまった。
海で思いっきりはしゃいで、海の家で美味しい焼きそばを食べて、また海で泳いで。初めての海デートは、友達や家族と行く海水浴とは全然違って。ああ──楽しい時間はどうしてすぐ過ぎて行ってしまうのだろう。帰りの時間が、近づいてきている。時間が永遠なら、こんなふうに悩まなくて済むのに。進路のことだって、迷うことなく考えられたのに。
「つばさちゃん、シャワー室が混み合う前にそろそろ行かないと……、つばさちゃん?」
「……かえりたくない」
「そうは言っても、帰らないとご両親が心配する」
わかっている。こうしてふてくされていても時間は進むこと、わかっている。わかっているから、こんなに悩ましいのだ。
「……高際さん」
「ん?」
「わたしね……高際さんとずっと一緒にいたいんです」
わたしの突然の発言に、高際さんは面食らったようだった。でも、すぐにいつものようなキリリとした表情に戻る。
「僕もだよ」
「……ちがうの。だから、わたし……高校にも、大学にも行かないで、高際さんと一緒にいたいって、そう思うんです」
「……っ、」
高際さんが息を吞んだのが分かった。やっぱり、驚くよね。でも、これは本心なのだ。
「高校に行ったら、勉強したり部活したり、いろいろ忙しくなると思うんです。もしかしたらバイトとかもするかもしれないし。だから、今までみたいに週一で会ったり、デートしたり、出来なくなっちゃうんじゃないかって。それがつらいし、怖い」
「……うん」
「それに……やっぱりわたしと高際さんは、歳が22歳も離れているから。普通の恋人たちより、一緒にいられる時間は短いと思うんです。だから、少しでも多い時間一緒にいたい」
3年間。たった3年間って言われるかもしれないけど、その3年間がわたしには、わたしたちにとっては、大きい。
「とんでもないこと言ってるって、わかってます。普通に考えたら、高校に行って、大学に行って、就職したほうがいいって。でも、そうしてる間にも、高際さんが遠くに行っちゃう気がするんです。いくら物理的な距離が近くたって……」
「……つばさちゃん……」
「こんなこと考えるの、やっぱりおかしいですか? 高際さんは、どう思いますか……?」
高際さんは、難しい顔をしていた。時折ぐっと唇を噛みしめては、言葉を飲み込むようなそぶりを見せた。
「……もちろん、」
どれくらい、沈黙の時間があったのかわからない。でも、高際さんがとうとう口を開いて話し始めた。わたしは身じろぎもせず、じっとその薄い唇を見つめている。
「高校にも、大学にも、行ったほうがいいに決まっている。君が選ぼうとしている道が、正しい道だとはとても、言えない……」
ゆっくりと、一句一句を区切るようにしゃべる高際さん。わたしに言い聞かせるためなのか、単純に言葉を選んでいるのかは、わからなかった。
当たり前だ。高際さんは常識のある大人で、そう言うに決まっていたのに。ちょっとでも認めて、受け入れてほしかっただなんて、わたしのわがままだ──
「──だが、それは、建前だ。本音を言うと……君がそこまで僕のことを考えてくれていたことが、どうしようもなく、嬉しい……」
「……たかぎわさん……?」
高際さんの声はとても小さく、どことなく、震えているように思えた。こんな高際さんを見るのは初めてで、わたしはどうしたらいいかわからなかった。
「さっき、海辺ではしゃぐ君を見て……僕は不安に駆られたんだ。君は、若くて、可憐で、これからどんどん魅力的になる。高校に進んだら、新しい出会いの中で、異性の友達もきっと増えて、楽しい学校生活を送るだろうね」
「そんな! 高際さんより素敵な人なんていません!」
「君が輝かしい青春を送るころ、僕は40手前のおじさんだよ。君の気持ちを疑うわけじゃないけれど、いつだって不安は付きまとうよ。表面上は涼しい顔をしていても、きっと僕は、君がそうして楽しい学校生活を送るのを、許せないだろう。……君と、恋人というつながりがあっても」
高際さんは、いつだって余裕があって、落ち着いていて。大切にされている、愛されているという自覚はあったけど、キスもしてくれないし、わたしばかりが好きになっているんじゃないかと、そんなことを考えることもあった。でも、そうじゃなかったの? 彼も将来が不安になったり、余裕がなくなるほど心を乱されたり。そういう情熱をわたしに持っていてくれたの?
遠くで、波の音がする。そろそろ帰り支度をしようとにぎわう人たちの喧騒も、今は耳に届かない。
高際さんが、わたしの正面に立って、跪いた。真剣な瞳は、まっすぐ私を捕らえて。
「つばさちゃん……君がもし本当に、高校に行かないという選択をするのなら……どうか僕と、結婚してほしい。君を法的に、僕のものにしたいんだ」
結婚を前提に、とは言ってくれていた。でもそれは、まだまだ先の話だと。
「そして、僕が帰る家にいてほしい。前も話したけれど、僕は、君の待つ家に帰りたい」
おかえりなさい、とわたしが笑う。ただいま、と高際さんが言う。高際さんのコートとカバンを預かると、高際さんはようやくぴっちりと絞めたネクタイを緩めるのだ。高校に通う自分はうまく思い描けなかったのに、そんな未来がたやすく思い浮かぶのは。
「返事は急がない。無理強いもしない。結婚自体は高校に行きながらでも出来るし、その点は、僕が我慢すれば──」
言いかけた高際さんに、思い切り抱き着いた。高際さんはバランスを崩して後ろに倒れかけたけれど、しっかりわたしを支えてくれた。そのまま勢いで、高際さんの頬にキスをする。海水のせいか、頬は少し塩の味がした。
「……っ!」
「返事の代わりです……」
高際さんは、しばらく固まったままだった。でも、首に巻き付いて離れないわたしに観念したのか、ようやく、抱きしめ返してくれた。恋人になって、初めてのハグだった。
* * *
「作戦会議をしなくてはな」
帰りの車の中で、高際さんがポツリと言った。作戦会議? とわたしは頭にハテナを浮かべる。
「当たり前だが、結婚するには親の同意がいるだろう。高校に行かないでしかも結婚なんて、はいそうですかと許してもらえるものではない。どうすれば君のご両親を納得させられるか考えないと」
「ですよね……」
しょぼん、と俯くわたしの頭に、優しい手のひらが載る。
「二人で、これからの未来のことを考えよう」
二人で。その言葉だけで、ふわりと心が軽くなった気がする。いままで、ずっと一人でぐるぐる悩んでいた。自分の選んだ道が、進もうとしている道が、正しいとは言えない。でも、自分の気持ちを押し殺して進んだ道が、正しい道だとも思わない。わたしの大切な人たちにそれを理解してもらえるように、高際さんと二人で、頑張らなくちゃいけないんだ。
わたしと高際さんが歩き出した道は、きっとどんな道よりデコボコで、険しい道だ。それでも一緒にいたいと思えた人だから。
「はい……!」
とにかく今は、進むしかない。
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