第20話 ココアと昔話
涙は最初の一滴だけで済んだ。それでも気持ちが晴れるわけではなくて、思うように顔が作れない。ぎこちない表情のまま、しぃちゃんに背中をさすられながら玄関先にお邪魔すると、少しハスキーで明るい声が廊下まで届いた。
「しぃ、誰だったー?」
「つばさ!」
「え? つーちゃん?」
声とともにひょっこりと顔を出したのは、しぃちゃんのお母さん──早苗さんだった。以前『しぃちゃんのお母さん』、と呼んだら嫌がられたから、それ以来わたしは早苗さんと呼んでいる。
早苗さんはいつでも元気で明るい。早苗さん曰く、『昔ヤンチャしてた』名残で今も少し明るい色の髪の毛は、いつも綺麗にカールしている。初めて会ったときはお姉さんだと勘違いしたほど若々しい早苗さんは、まだ三十代半ばだと聞いた。同級生のお母さんたちの中では一番若い。しぃちゃんは若作りしてるだけだと笑うけど。
目が合ったから慌ててお辞儀をすると、早苗さんはしぃちゃんとそっくりな目を細めて笑った。
「やっだー! 久しぶりじゃーん!」
「ご、ごめんなさい。突然お邪魔しちゃって……」
「いーのいーの! あがってあがってー!」
ケラケラと笑う様はしぃちゃんそっくりだ、といつも思う。この親にしてこの子ありというか。なんにせよ、嫌な顔をされなくてよかった。
「つーちゃんきたの?」
「あー、ほんとだ!」
バタバタと駆けてくる音がして、しぃちゃんの妹ちゃんたちがやってきた。しぃちゃんは三姉妹なのだ。しぃちゃんが長女で、すぐ下が小学三年生の
「こーら、せり! それじゃつばさが家入れないでしょ」
「つーちゃん、おとまりするの?」
「んーん、今日は……」
「つーちゃん、ココアでいいー? 今牛乳切らしてるからお湯なんだけど!」
「あ、お構いなく……」
「ねーねーつーちゃん、この間すぅがオススメした漫画読んだ?」
「あ、えっと、まだ……」
「だー! あんたらうるさい! あっちいけ!」
次から次へと話しかけられて困っていたところに、しぃちゃんが一喝した。その様子を見て、ようやくクスリと笑みがこぼれた。いつ来てもこの賑やかさなのだ、このお家は。
「そーだよ、すぅ、せり! つーちゃんはしぃに用があって来たんだからあんたらはあとにしな!」
「はあい」
早苗さんに一喝され、芹那ちゃんはリビングに、珠桃ちゃんはしぃちゃんと共有の自室へと駆けていった。解放されてちょっとだけホッとする。
「あ、すぅの奴、部屋行きやがった! せっかく二人で話そうと思ったのに……」
「大丈夫だよ。しぃちゃん、ごめんね、かえって気を遣わせちゃって」
話を聞いてほしかったというのもあったけれど、とにかくわたしのことを否定しないで受け止めてくれる人のところに行きたかった。だから自然とここに足が向いたし、しぃちゃんの顔を見たらすこし安心できた。今はそばにいてくれるだけで嬉しい。
それでも心配そうにしぃちゃんがわたしの顔を覗き込んだ。会ってそうそう涙を流したのだから無理もない。
「ココア、できたよ。おいで」
早苗さんから声がかかって、わたしはようやく靴を脱いでお家の中にお邪魔した。
リビングのテーブルには早苗さんが用意してくれたココアが置いてあった。淹れたてだからまだうっすらと湯気が出ている。わたしはその前に腰を下ろし、可愛らしいキャラ物のマグカップをぼんやりと眺めた。
「そういえば、お父さんは?」
「今日も仕事。近畿のほうまで行くって」
「ふぅん……」
早苗さんはキッチンで動き回りながらしぃちゃんに返事をした。いつか話題に出た、高際さんとそんなに年齢が変わらないしぃちゃんのお父さん。長距離のトラックの運転手をやっていると聞いたことがある。だからわたしも顔を合わせたことはまだない。いつか会ってみたいとは思う。
早苗さんが近くにいるもんだから、直接的に聞きづらいらしいしぃちゃんは、そわそわとわたしと早苗さんを見ている。かといって、わたしだって友達のお母さんの前で堂々と恋バナをできるような子ではない。やっぱり、ココアをごちそうになったら帰ろうかな。
──……帰る? 帰るって、お母さんがいるあの家に?
無理だ。まだ直接顔を合わせて会話ができる気がしない。だって、お母さんは何もわかってないんだもん。表面的なところだけを見て、わたしと高際さんのことを全く見ていない。わたしがどんなに考えて彼と向き合ったか、わかってくれない──。
ふるふると首を振って、淹れてもらったココアを一口飲む。じんわりと体の内側から温まってくるような感覚。牛乳で作るココアとは違って、こってりとした甘さが口内に広がる。なんだかしぃちゃんちみたい。しぃちゃんちは、他のお家より賑やかで楽しくて、一歩足を踏み入れただけで心が温かくなるから。そう思ったらちょっとだけ笑いそうになった。
「そんで、こんな時間にどうしたの? つーちゃん」
「あ……えと、」
早苗さんはしぃちゃんと自分の分のマグカップを運びながらわたしに尋ねた。わたしは言葉に詰まって何も言えなかったんだけど、早苗さんは席に着きながら冗談っぽく言った。
「もしかして、お母さんとでも喧嘩でもした?」
「え!?」
図星を突かれて思わず大きな声が出てしまう。わたしのその態度に一番驚いていたのは早苗さんだった。
「え、マジ? 冗談のつもりだったんだけど」
本当にそうだとは思っていなかったらしい。ちょっとだけ苦笑いを浮かべて、頬を掻いた。
確かに、そんなことは初めてだった。友達との付き合いだってそうだ。わたしはもともとあまり自分の意見を主張するタイプではないから、いままで大きな問題もなくやってこれた。お母さんとだって、わたしが一方的に怒られることはあっても、こんなに激しく衝突することなんてなかった。早苗さんはそれを知っているから、心底驚いたような顔をしている。
「あのつーちゃんママがつーちゃんと喧嘩ねぇ……何かあったの?」
ぎくり、とする。まさか『36歳の男性と恋をして、その交際を反対されたから喧嘩してます』とは言えない。なんて答えるべきか少し考えて、核心には触れず、
「お母さんが、わたしのこと全然わかってくれないから……」
とだけ答えた。
ふうん、と小さく答えてから、早苗さんは自分の分のココアをすすった。まだ中身の入っているマグカップをテーブルに置いてから、頬杖をついた。真剣そうな顔をしていたけれど、そのうち伏し目がちな瞳が、何かを懐かしむような色を帯びた。そして、ふふ、と小さく笑う。わたしはなんでこのタイミングで笑われたのかわからず、思わずぽかんと口を開けてしまう。ちらりとしぃちゃんを見ると、わたしと同じ気持ちだったようで、まったく同じような顔をしていた。
「ちょっと、なんで笑ってんのさ」
「あー、ごめんね。なんかそういうの、覚えがあったから」
「覚え?」
わたしが聞き返すと、早苗さんはまた小さく笑った。
「うん。じゃあ、今思い悩んでるつーちゃんに特別サービス。ちょっとした昔話をしてあげよう」
そう言うと早苗さんは、まるで紙芝居屋さんが拍子木を鳴らすかのように、マグカップのふちを指先でコンコン、と叩いた。
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