第10話 大人と子供

 時間が過ぎるのがあっという間だった。ということは、わたしは今日のデートを楽しんでいたということだ、と帰りの車の中で思う。特に特別なことなんて何もなかった。一緒に並んで歩いておしゃべりをして、時たま気になるお店を眺めて。優柔不断で買い物の長いわたしに高際さんは文句も言わず付き合ってくれて。本当にあっという間だったのだ。

 17時ともなると、冬の街はもう真っ暗だ。運転中の高際さんをちらりと盗み見る。高際さんはわたしの視線に気づいたようで、でも運転中だから目線は外さずわたしに聞いた。


「どうした?」

「あの……今日、楽しかったです」

「ああ、僕もだ」


 即答だ。本当に楽しんでくれていたんだ。それが嬉しくて、胸がぎゅっとなる。


「また──」


 『またデートしましょう』って、言いかけて口をつぐんだ。高際さんが楽しんでくれたこと、嬉しい反面、少し苦しい。元はと言えば、高際さんのこと試そうとして誘ったのだ。そんなわたしが、まただなんて言ってもいいのかな。


「……また、一緒に出かけよう」

「! えと……はい」


 わたしの言いたいことを先回りして言ってくれたのか、高際さんがもともと言おうとしてくれたのか、わからないけど。欲しい言葉をくれたことが、同じ気持ちでいてくれたことが、嬉しくてにやけてしまいそうになる。それがばれないように、うつむいてスカートの裾をぎゅっと握り締めた。もともと短いスカートがさらにたくしあげられて、さらに太ももが露わになった。わたし、なんでこんな短いワンピース着てきたんだっけ。


──あ。


 しぃちゃんの言葉を思い出す。今日のデートの発端、しぃちゃんの一言。


『裏では絶対ヤラシーこと考えてんだって! 大人なんか思ってないこと平気で言えるよ』


 今日一日過ごしてきて、高際さんはそんなそぶりを一つも見せなかった。女子中学生のわたしが、タイツを履いているとはいえこんなに脚を出しているのに、映画館ではひざかけを差し出してきて。いやらしい目なんか向けてこなかったし、超紳士的だった。それってすごい素敵なことだと思うけど。


「……高際さんって」

「ん?」

「ヤラシーこと、考えたりしないんですか」


 キキー! と、安全運転だった高際さんらしくない急ブレーキに、体が前につんのめる。顔を上げると赤信号で、車は一時停止している。


「……すまん。動揺して運転が荒くなった。君はずいぶん突拍子のないことを聞くな」


 高際さんでも動揺するんだ。わりと失礼なことを考える。

 確かに聞くタイミングがおかしかったかもしれない。ていうか、本人に直接聞くことじゃなかった。でも、気になったんだから仕方がない。


「高際さん、わたしのこと好きって言いましたよね。なら、そういうこと、考えたりするのかなって」


 わたしは確かにまだ中学生で、中学生相手にそういうことを考えるのはいけないことだし、普通じゃない。でもわたしは中学生である前に、高際さんの『好きな人』だ。(自分で言うのは恥ずかしいけど、告白された事実があるのだから仕方がない。)『好きな人』に、そういう感情を抱くのは、普通のことなんじゃないの? 

 信号は青に変わって、さっきの急ブレーキとは比べ物にならないくらいゆるやかに発進した。高際さんは言葉を選んでいるのか、さっきから黙っている。沈黙が少しの間、車の中を包み込んだ。しぃちゃんの言葉と、わたしの自尊心が頭の中でせめぎ合う。ここにいるわたしは、中学生としてのわたしと、高際さんの好きな人としてのわたし。どちらも紛れもなくわたしだ。高際さんは、何を言うのだろう。というか、何を言われたらわたしは満足するのだろう。


「……なんて答えるのが正解なのか、わからないが」


 わたしの両親に挨拶に来たときみたいな前置きをして、それでも高際さんは言葉に散々迷ってるみたいな言い方で、少しずつ話をする。


「そりゃあ僕だって男だから、そういう気持ちがゼロなわけじゃない。好きな人には触れたいと思うし、もちろん、まぁ……その先だって」

「……!」


 じわり、と涙が滲む。どういう感情で湧き上がった涙なのかわたしにもわからなくて、必死に唇を噛み締めて涙を我慢する。


「でも、今すぐにというわけではないよ。君の気持ちや年齢のこともあるし、君の両親との約束もあるし。それに僕の気持ちのこともある」

「……高際さんの?」


 わたしの気持ちや歳や両親を理由にするのはわかるけど、そのあとの言葉の意味がわからなくて、わたしは小さく聞き返した。


「君に触れたい気持ちはあるが、今は、君と少しでも長くいたい、大切にしたいって気持ちのほうが強い。こうして一緒に出かけたり、話をしたりすることが楽しくて、それ以上のことを考えている余裕がないんだ」

「!」

「……なんていう答えじゃ、カッコ悪いな。こんな答えじゃ、不満か?」

「……いえ。ありがとう、ございます」


 やっぱり高際さんは大人だ。いつも嘘のないまっすぐな言葉をくれて、少しカッコ悪いところまでさらけ出してわたしと向き合ってくれる、大人の男の人。好きな人には触れたいと思う、普通の男の人。

 そして、その大人の答えに安心して、満足してしまっているわたしは、まだまだ子供だ。


 お互いに何を言っていいのかわからなかったんだと思う。そのあとはずっと無言で、わたしはずっとうつむいていた。


「着いたよ」

「え……」


 顔を上げると、もううちの玄関前まで来ていて、高際さんはハザードをたいて家の前に車を停めてくれていた。いつの間に、とわたしはわたわたと荷物をまとめる。シートベルトを外して、運転席の高際さんに向き直った。


「すみません。何から何まで、ありがとうございました」

「ああ。こちらこそ」

「あの、本当に、楽しかったです。また、誘っていいですか?」

「……ああ、僕からも、誘わせてくれ」


 ああそうか。何もわたしから誘うばかりじゃなくていいのか、と高際さんの言葉で当たり前なことに気づく。また一緒に出かけようと言ってくれたのは社交辞令じゃなかったんだ。顔を上げると、暗くてあんまりわからなかったけど、高際さんはほんの少しだけ微笑んでいるように見えた。その表情に、どきりと胸が高鳴る。少しの沈黙のあと、高際さんは左手をわたしの頭にスッと伸ばしたけど、途中で思い出したようにその手を引っ込めた。


──あ……。


 あの誓約書に、指一本触れないと書いてあった。高際さんはその約束を律儀に守っているのだ。好きな人には触れたいと言っていたのに。……我慢をしているんだ。わたしが子供だから。

 わたしはその様子を見て何も言えなかった。我慢をさせている張本人のわたしが、何を言えばいいのかわからなかったんだ。


「……先生と奥さんにもよろしく。じゃあ、僕は帰るよ」

「はい。……また今度」


 ぺこりと頭を下げて車を降りた。車の外から手を振ると、高際さんも手を振り返してくれて、そのまま車はゆっくりと発進し、曲がり角へと消えた。それを見送ったあと、家の中に入るのが惜しくてしばらく高際さんが帰って行った方を眺める。

 高際さん、頭を撫でようとしたんだろうか。自分の手でなんとなく頭を撫でてみるけど、何にも感じない。あのときみたいな温もりも、ドキドキも。


 大人の男の人が、中学生に触れたいと思うのは普通じゃない。

 大人の男の人が、好きな人に触れたいと思うのは普通。

 じゃあ中学生が、大人の男の人に、と思うのは、普通? 


 楽しかった初めてのデート。映画も面白かった。高際さんのことをいろいろ知れた。でもなんだか色々考えてしまって、どんな顔で帰ればいいのかわからなくて──ただいまを言うまでに、すごく時間がかかった。

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