第25話 名前と意味

 高際さんとデートをしたり、お母さんと喧嘩をしてプチ家出をしたり、話し合いをしたり──怒涛の1日が終わり、ようやくベッドに潜り込んでいるけれど、なかなか寝付けなかった。だって、まぶたを閉じると高際さんの姿が浮かんでくるし、頬に触れた手の感覚はまだ消えてくれない。両親の了承も得られたんだし、これからはもっと、高際さんと恋人らしいことが出来るんだ。

 恋人になったんだから、いつか高際さんと……キス、とかしたりするんだよね。口角が滅多に上がらない、真面目で厳格そうな高際さんの唇を思い出す。あの唇とキスをしたら、どんな感じなのかな。柔らかいのかな。だって、一見かたそうだけど、わたしの名前を呼ぶ時は、あんなに優しい。それに、恋人なんだから、キスだけじゃなくて、いつかはその先だって──。


「……って、何考えてるのわたし!」


 恥ずかしいことを考えてしまった。思わず赤面する顔を手で扇ぐけど、一度火照った身体はなかなか冷えない。

 ……そう言えば高際さん、いつだったか結婚を前提にって言ってた。もしかしたらわたし、高際さんと結婚するかもしれないんだよね。『高際つばさ』、かぁ……。

 考えたら、また少し恥ずかしくなってきた。ちょっと水でも飲んでこよう。こんな時間だし、お父さんたちも寝てるだろうから、そおっと。音を立てずに扉を閉めて、キッチンへ向かうために階段を降りる。そこで、まだリビングの灯りが点いていることに気がついた。

 あれ、まだお父さんたち起きてたんだ。そう思っていると、ここまで話し声が聞こえた。


「……まだ不安?」

「……そりゃあ、少しは」


 思わず立ち止まる。会話の内容は多分、わたしと高際さんのお付き合いのことだろう。話し合いをしたとはいえ、まだ大人2人の中では、どこか引っかかっていることがあるのかもしれない。

 こういうのは、よくない。よくないとは思うけど、わたしはリビングをこっそりと覗くことにした。だって、話題が自分のことなら気になってしまう。

 お父さんとお母さんは、リビングで晩酌しているようだった。お母さんはお酒飲めない人だから、お父さんのを注いでるだけみたいだけど。


「でも、不安よりは、寂しい気持ちの方が大きいかもしれないわ。だって、ついこの前まで子供だった気がするのに」

「子供なんて、あっという間に大きくなるよ」

「ほんとねぇ」


 思っていたより、暗い話題ではないようでホッとする。まったくもう、お母さんってば、まだわたしのことを子供扱いして。


「そのうち、あっという間にこの家を巣立っていくよ」

「あなたは寂しくないの?」

「そりゃあ、可愛い一人娘だし、寂しくないわけはないけど。つばさはいい子に育ちすぎたところがあったからな、わがままを言ってくれて嬉しいよ。俺は今日の様子を見て感動したけどな。ここまで大きくなってくれたんだなって」

「また、そんなのんきなことを言って……」


 お父さんは豪快にお酒を呷って、空になったグラスをテーブルに置いた。


淑恵よしえ


 お父さんが、お母さんを名前で呼んだ。普段は「お母さん」って呼ぶのに。「お母さん」って呼ぶのに! 実の親のそういうところを産まれて初めて見て、なんだか気まずいような、そうでないような。お父さんもお母さんも、私の前ではいつだって『お父さん』と『お母さん』に徹していたから。

 これにはお母さんも驚いたらしく、返事がワンテンポ遅れた。


「……はい」

「つばさの名前の由来、覚えてる?」


 名前……? なんでそんなこと急に言い出したのだろう。お父さんの質問の意図がつかめず、首を傾げた。そう言えばわたし、自分の名前の由来、聞いたことないな。昔はこんな男の子みたいな名前嫌だって思っていたけれど。

 名前の由来を、お母さんは覚えているようで、懐かしむようにうふふと笑った。


「『子供は、いつか必ず巣立つときがくるから、どんな困難にでも立ち向かえるよう、心に折れない立派な翼をもって生きてほしい。その翼で、自由にのびのびと飛び回れるように』、でしょう? さんざん説得されたから覚えているわよ」


 お母さん笑いながら、空になったグラスにお酒を注いだ。お父さんはありがとう、と小さく礼を言って、またすぐにグラスに口をつける。


「男の子でも女の子でもつばさにするって、聞かなかったものね。わたしの話なんか聞く耳持たずで」

「それは悪かったって……でも、理由を聞いたら淑恵だって納得してくれたろ」

「それはそうですけど」


 当時を思い出したのか、お母さんはまだくすくすと笑っている。


「名前の通り、立派に育ってくれたよ。自由に、のびのびと。あの子はもう、自分の意志で、自分の翼で、飛び立てるのかもしれないな」

「……いい名前よね、つばさって。ねぇ、泰行やすゆきさん」


 さっきの仕返しとでもいうように、お母さんもお父さんを名前で呼んだ。お父さんは気まずそうにぼりぼりと頭を掻いて、グラスに残っていたお酒を一気飲みした。

 わたしはというと、その中に割って入っていく勇気はなくて、結局、音をたてないように自分の部屋に戻った。

 男の子みたいだから嫌だなんて、思っていたことを悔やんだ。お父さんたちは、あんなに真剣にわたしのことを考えてくれていて、深い愛情をもって、育ててくれていたのだ。

 胸のあたりがむず痒い。でも、全然嫌じゃない。もしいつか、結婚して名字が変わっても、わたしがつばさであることは変わらない。それをこんなにも嬉しく思う日が来るなんて、思ってもみなかった。


──おやすみなさい、お父さん、お母さん。


 リビングにいる2人に頭の中でそう告げて、そのまま勢いよく布団に潜りこんだのだった。

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