第4話 定期入れと告白

 部屋に戻ってしばらく。リビングからわらわらと人が出ていく音が聞こえた。ああ、あの人たち帰るんだな。見送りなんてしたらまた絡まれそうだからやめておいて、とりあえず耳をそばだてる。


「じゃあ先生、今日はありがとうございました!」

「おう、また飲みに来いよ!」

「はい、ぜひ!」


 お客さんたちは、お父さんたちに当たり障りのない別れの挨拶をして、酔ってふらついているのかどたばたと帰っていった。最後まで嵐のような人たちだったな。玄関のドアが閉まってから少しして、お父さんたちもリビングに戻ったようだ。そのタイミングを見計らって、リビングに向かう。

 お父さんはもといた場所に座って、残ったおつまみをつまんでいた。お母さんはキッチンで洗い物をしている。座るのはなんだか気が引けて、テーブルを挟んでお父さんの向かいに立った。


「お父さん、あのさ。今日来てた人に、キリッとしたオールバックの人いたじゃん?」

「ん? おお、高際か。あいつがどうした?」


 さらりと名前を言われてしまって、そのあとの言葉に詰まった。とりあえず名前を聞いてみようと思ったんだけど、失敗だ。どうしたと言われても、何かがあったわけではないのだ。ただ気になっただけで。

 どうしたものかと俯いた。タカギワ……タカギワと言うのか、あまり聞かない名字だな。チヒロって名前も、男の子みたいなわたしの名前と逆だ。女の子みたいな響き……って、あれ、なんで名前まで?

 わたしはもちろんエスパーではない。高際さんの名前を知るに至った、目線の先にあるそれを慌てて拾い上げる。


「これ、その人のじゃない?」


 なんとか自然に会話が流れた、と言ってから気づいた。高際さんが座っていた椅子にあったのは、渋いグリーンの定期入れだった。きっかりと名前が入ったそれはまごうことなく高際さんのものである。


「あー、多分そうだな。あいつ帰りも電車だって言ってたぞ。終電もすぐだし」

「えっ、まずくない? 電車乗れなくなっちゃうじゃん! それに、明日もその人仕事なんでしょ?」

「そうだけど、届けるにも、俺も結構飲んじゃったしな……」


 お父さんはちらりとお母さんに目をやったけど、何も言わずに目線を戻した。お母さんはゴールドペーパードライバーなのである。どうするかな、と呟いたところで、わたしは身を乗り出す。


「わたし、届けてくるよ。駅まで歩いていったんでしょ? ならまだ間に合う!」

「いいのか?」

「うん! だって、困っちゃうよその人。それにほら、部活も筋トレばっかで飽きてたし。たまには走らなきゃ鈍っちゃう」


 おせっかいと、ほんのちょっとの下心。それらしい理由を並べたててお父さんに笑いかけた。お父さんはわたしが何を考えているかなんて推察せずに、「じゃあよろしくな」と言って残ったビールを煽った。許可を得たので、わたしは一目散に玄関へ向かう。靴くらいはおしゃれに、と思ったけれど、やめてそのままいつものスニーカーを履いた。追いつけなかったら意味がない。そもそも最初から部屋着のTシャツにショーパンなのだから今更すぎる。っていうかわたし、なんであの人に定期を届けるだけなのにこんなこと気にしてるんだ。


「行ってきまーす!」


 中にいるお父さんとお母さんに叫んで、鍵も持たずに走り出した。駅までは歩いたら10分くらいだけど、大人の足だったらわかんない。急がなきゃ。

 走る。走る。日曜日の夜の街を走る。いつもは賑やかな夜の街も、明日に向けてすっかりおとなしい。帰路につくであろう人たちとすれ違い、駅に向かう人たちを追い越して、一直線に駅に向かう。駅前は少しだけ賑わっていて、スーツの人たちが別れを惜しんで談笑している。スーツの人、多い。あの人はどこだろうか、見つけられるだろうか。

 そんな考えは杞憂だった。遠目から見てもわかる、すっと伸びた背筋。地面にまっすぐ線が伸びているような、迷いのない歩み。今まさに駅の中に入ろうとするその人を、慌てて呼び止めた。


「高際さん!」


 振り返ったその顔を見て、やっぱりそうだったと安心する。高際さんはわたしの顔を見て、驚いたような顔をした。何に対しての驚きかな。さっき別れたはずの恩師の娘がここにいることだろうか。わたしはわたしがここにいる理由が正当なものであると証明するように、持っていた定期を印籠のごとく差し出す。


「これっ……うちに、忘れてました」


 まだ息が整わないまま、高際さんに言った。高際さんはしばらくわたしのことを見つめて、定期を受け取った。


「ありがとう……ごめん」


──ごめん?


 何に対しての謝罪かわからず、高際さんを見上げた。その時、定期を受け取った手とは逆の手がわたしの頭に伸びて、そっと触れた。優しい手。壊れ物を扱うかのような慎重さで、わたしの頭に、髪に触れる。猫っ毛でクセのある髪が嫌いだったのに、触れられるたびにどきりとした。この人は、こういう風にわたしに触れるのか、と、そんなことを考えている場合じゃないのに思う。


「賭けを、したんだ」

「賭け?」


 何の話だかさっぱりわからない。それに、わたしに触れるその手に意識がいってしまって、話が頭に入ってこない。高際さんの言葉をおうむ返しするくらいしか。


「これを置いていったのは、わざとだ」

「へ?」

「きっかけが必要だったんだ。なんせ親子ほど年が離れているから」


 高際さんは淡々と語る。話の内容はよくわからないけど、真剣な瞳で見つめられて動けない。


「君はこれから普通に学校へ通って、誰かと恋をして、幸せな人生を送るだろう。それが当たり前だし、そうあるべきだが、それをどうしても許せない自分がいた。だから賭けをした。これに君が気づいて、君が届けに来てくれたなら、頑張ってみようと」

「がんばるって……?」


 高際さんは、ふっと笑って目を細めた。あ、またその顔。あの時と同じ柔らかい表情に胸が高鳴る。触れられている部分に、熱がこもる。なんでそんな優しい顔をするの。

 その答えは、高際さんの次の言葉にあった。


「君が好きだ。今日会ったばかりで、こんなことを言うのはおかしいかもしれないが」

「好っ……!?」


 わたし、今、生まれて初めて告白をされている。しかも相手はこんな大人で、今日初めて会ったばかりの人で。恋愛とかまだよくわかんないから、漫画で見たり、恋バナ聞いたりするばっかりだったけど。好きだと言われるのって、告白されるのって、こんなに何も考えられなくなるくらい、ドキドキするんだ──。


「僕は賭けに勝ったから、遠慮はしない。君を手に入れるためなら、なんだってする」


 わたしに触れていた手が、頭のてっぺんをくしゃりと撫でた。


「ありがとう。それじゃあ、またな」

「あ……」


 告白された時って、どうするのが正解なの。高際さんは、わたしに何も求めなかった。好きだと告げて、わたしのためになんだってすると言い残して、またなと言って優しく笑う。そういうの、少女漫画に載ってなかった。友達の恋バナでも聞いたことなかった。

 その正解は、考えてもわからない。きっと、うちにある漫画にも問題集にもその答えは載っていない。とりあえず、こちらに手を振る高際さんに、わかるかわからないか微妙なくらいに、こっそり手を振り返したのだった。


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