第3話 出会いとはじまり
2人の運命を変えたのは、渋いグリーンの定期入れだった。あれがなければきっと、今頃わたしと千尋さんは他人で、わたしは普通の女子高校生だったはずだ。
* * *
中学2年生の冬。そのころはわたしもどこにでもいる中学生だった。成績は中の下で、陸上部に所属していて、友達もそこそこいて、それなりに充実した学校生活を送っていた。みんな高校受験なんてまだ先だと思いながら、ぼんやりと志望校のことは考えていた。どこどこの制服はかわいいだとか、どこどこは部活が強いだとか、どこどこはかっこいい先輩がいるとか、そんな他愛のないレベルだったけど。わたしはというと、頭そんなに良くないし、高校でも部活は続けようかな、なんて思ってたくらいで、明確なビジョンなんて見えていなかった。今は部活が楽しいし、受験なんてその時考えようって軽い気持ちで。
そんな折、わたしと千尋さんは出会った。お父さんが昔の教え子たちに誘われて同窓会に参加した夜、数名をうちに招いて飲み直そうということになったらしい。急に連絡を寄こしたもんだから、お母さんは慌てちゃって、急いでお酒のつまみになるような料理を作り始めた。しばらくして、家のチャイムが鳴って、お母さんが手が離せないから代わりにわたしが出迎えた。ドアを開けた瞬間、すごくお酒臭い。鼻をつまみたいくらいだったけど、失礼だと思って我慢した。お父さんの他に、スーツの男の人たちが3人。目があったからぺこりとお辞儀をした。
「うちの娘。かわいいだろ」
普段そんなこと言わないのに、結構酔ってるんだな。挨拶しなさい、と目配せをされて、仕方なく挨拶する。
「こんばんは。娘のつばさです」
「つばさちゃんかー! かわいいっすね!」
「女の子のお子さんがいるとは思わなかったですよ~。つばさちゃん、今いくつ?」
「えっと、中2です」
「へぇー見えないねー! 背も小さいからもっと下かと思ったよー」
よく言われるから慣れてるけど、やっぱり言われて気持ち良くはない。ちょっとムッとして、唇を尖らせてしまったのを慌てて戻した。お客さんたちは酔っているからきっと気づいていないはずだ。
「お待たせしてすみませんー! 今おつまみ準備しましたからどーぞ上がってください、狭い家ですが」
「とんでもないっす! ありがとうございます!」
奥からお母さんの声がしたのを皮切りに、お客さんたちがぞろぞろと中に入っていった。お客さんたちとすれ違う瞬間、1人だけお酒臭くない人がいて思わず振り返る。真っ黒な黒髪を、オールバックにして後ろで固めた男の人。背筋がピンと伸びていて、頭からつま先まで芯が入っているみたいだ。すごくシュッとした印象。その人だけは、みんな酔っててヘラヘラしてる中で真顔だったから、なんだか変な人だし、怖そうな人って思った。
まぁ、わたしには関係ない。ちらりと玄関を見ると、お客さんたちの革靴がバラバラに脱ぎ散らかされている。余計なお世話かもしれなかったけど、わたしが気になってしまうから、脱ぎ散らかされた靴を綺麗に並べてからリビングに戻った。
「つばさちゃんもこっちにおいでよ~」
「お兄さんたちと話しよ~」
席についていたお客さんたちに手招きされた。お父さんに視線を送ると、こくりと頷かれる。めんどくさいなぁ、とは言えず、お父さんの隣に腰を下ろした。
「つばさちゃんは、今何部に入ってるの?」
「陸上です」
「へぇ、長距離? 短距離?」
「短距離です」
「いいなぁ。俺も中学戻りてぇ~。学校楽しいでしょ?」
「はい」
「高校どこ行くの? 先生んとこ?」
「まだ決めてないです……」
「せっかく親が先生なんだから利用しなきゃだめじゃん~」
「先生、受験なしとかで入れないんすか、身内って?」
「当たり前だろ」
「あちゃー! じゃあ勉強頑張るしかないなつばさちゃん!」
あははと愛想笑いした。お酒臭いし、みんな酔っててテンション高いし、ちょっと疲れる。明日早いとか言って適当に部屋戻ろうかな、明日は休みだけど。
「つばさちゃん」
酔っててろれつが回っていない他の人たちの声とは違い、しっかりとした低くて落ち着いた声に呼ばれて、パッと顔を上げる。わたしを呼んだのがさっきのお酒臭くないオールバックの人だとわかって、思わずつられて背筋が伸びる。
「お手洗いはどこか、連れて行ってくれないか」
「え……あ、はい」
そこ出て一番奥の右の扉です、といえば伝わると思う。そんなだだっ広い家なわけじゃないし。けど、真剣な眼差しがそうすることを望んでいない気がして、わたしは立ち上がった。「こっちです」と廊下に出る扉を指差し、みんながいるリビングから出てわたしはその人をトイレの前まで案内した。
「ありがとう、君はもう自分の部屋に戻ったほうがいい」
その人はぶっきらぼうに言った。もしかしなくても、案内を口実に抜け出すきっかけをくれたのだと思うと、嬉しいやら、恥ずかしいやらって気持ちが湧いてきた。この人に気づかれてたのだ、めんどくさいって思っていたこと。感情が表にだだ漏れだったなんて、気まずすぎる。あの人たちに子供扱いされて嫌な気持ちになっていたことも含めて、自分がいかに子供なのかを思い知った。それに、こんなきっかけをもらわないと状況を打破できないことも、やっぱり子供だ。もうちょっと大人だったら、きっとうまく自分で切り抜けれたはずだ。
「先生の顔をたてたんだろ」
「え?」
トイレの扉にもたれながら、その人はわたしを見つめた。射るような視線に動けなくなる。
「遠嶋先生の顔をたてようとして、あの場に残ってくれていたんだろ。身内である自分が良くない態度をとれば、雰囲気を悪くするから」
手招きをされた時、無視して部屋にこもることだってできた。それでもそうしなかったのは、大好きなお父さんの頼みだったから。そして、先生として慕われているお父さんのイメージを壊したくなかったから。そのためにはやっぱりあの場に残るしかなくて。
「自分のことより人のことを考えて動くことなんて、大の大人でも出来ない奴は出来ないものだ。すごいな、君は」
大人は大抵、わたしを褒める時、『偉いね』と言う。その『偉いね』の前には、『子供の割に』というような言葉が必ずつくような気がしている。でも、この人は違う。『すごい』と言ったのだ、わたしのことを。上から下へ、褒めてあげる言い方じゃなくて、尊敬の念を込めて、『すごいな』と。そんな小さくて単純なことがわたしには嬉しくて、そんなこと言われ慣れてないからどうしたらいいかわからなくて、ぎゅっと唇を噛んでお辞儀をした。言われた通り部屋に戻ろうと踵を返す。
「あと、靴、ありがとう。悪い奴らじゃないんだ。許してやってくれ」
見られてた!? 驚いて振り返ると、さっきまで真顔だったその人が優しく目を細めていた。
「……っ、」
さっきまでと違うその表情にどぎまぎして、息がつまる。さっきお父さんたちといた時もそんな顔してなかったくせに、なんで今、そんな優しい顔をしたの。わけがわからなくて、見られてたことも、ストレートに言われたことも相まって、なんだかますます恥ずかしくなって、どたばたと階段を駆け上った。バタン、と部屋のドアの音が響いて、わたしは電気もつけずにヘナヘナとその場に座り込んだ。
──あの人、あんな顔もするんだ。
怖そうな人だと思った表情とは裏腹に向けられた優しい瞳。わたしを子供扱いしなかった低く澄んだ声。そういうものが頭をぐるぐるとしていて、離れていってくれない。あの人のこと、もっと知りたい。もっといろんな顔を見てみたい。あの人たちが帰ったら、お父さんに聞いてみようかなと密かに思った。あぁ、息が苦しい。なんだかドキドキしているのは、きっと階段を駆け上ったからだと、自分に言い聞かせた。
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