第22話 母と娘(2)

 それから20分ぐらいして、早苗さんが戻って来た。芹那ちゃんを抱っこしていないということは、芹那ちゃんは無事眠りについたのだろう。


「さて、どこまで話したっけ」

「あたしが産まれたとこまで!」


 しぃちゃんが急かすように告げる。早苗さんは席に着きながら「あぁ、そうだった」と呟いた。早苗さんは頬杖をついて、当時を思い出すようにしぃちゃんのことを見つめた。いつもは友達みたいに仲のいい親子だけど、こういう顔をする早苗さんは、やっぱりお母さんだなと思う。


「しぃを産んだ時、初産だったからか、めちゃくちゃ時間かかってさぁ。ほとんど丸一日、分娩室にいたんだよ」

「丸一日!?」

「うそ、そうなの?」

「そーだよ。ほんっと大変だったんだから。こっちは陣痛で苦しんでるのに草治はおろおろしてるだけで使い物になんなくてさ。立ち会ってもらってたんだけど、『あんたはどっか行ってろ!』ってぶち切れた」

「うわ、ひど」

「酷くないわよ。あの狼狽ぶり見せてあげたかったわ」


 その時のことを回想して、くくくと笑った早苗さん。文句を言いつつ楽しそうなその顔に、すこしだけ和まされる。


「ああいう時、男はほんと頼りにならないね。あたしは丸一日ただただ必死で。ようやくしぃの産声が聞こえて、あーあたしお母さんになれたんだって、すっごくホッとしたなぁ。今までの緊張が一気に解けた」


 その話を聞いて思わず唾を飲んだ。19歳で子供を産むということの大変さ。実際に経験してみないとそれはわからないけど、早苗さんの話を聞くととても壮絶なものなんだろうと思う。そして、それを乗り越えた早苗さんは、本当にすごい。


「それで、そこからが驚きでさ。分娩室から出たら、分娩室の前でじじばばが草治と一緒に2人そろって立ってんの!」

「え!? だって、連絡は……」


 わたしが尋ねると、早苗さんはすこし恥ずかしそうに顔をほころばせた。人差し指で頬を掻いて「あは」と小さく笑う。

 その顔を、わたしはどこかで見たことがあるような気がした。


「それがさ、草治が勝手に連絡とってたみたいなんだよね」

「だって、ばあちゃんたちとお父さん、結婚報告の時に初めて会ったんじゃないの?」

「そうなんだけど。あいつ駆け落ちしてから、甲斐甲斐しく1人でじじばばのとこ行ってたみたいで。うけるよね」


 早苗さんの表情は柔らかい。なんだろう、どこで見たんだっけ、とじっとその顔を見つめる。


「そ、それで? ばあちゃんたち、怒らなかった?」


 しぃちゃんが不安そうに、前のめりになって尋ねる。早苗さんの口から出たのは、想像とは全く違う言葉だった。


「……ばあちゃんにね、抱きしめられて、泣かれた」

「……え……」

「『無事に産まれてよかった。おめでとう。ごめんね』って」


 早苗さんは確かに微笑んでいるのだけど、思い出して泣いてしまいそうなのか、小さく鼻をすすった。心なしか、伏し目がちなその瞳には、うっすらと涙の膜が張っているように見える。


「それ聞いた瞬間さ、今まで意地張ってたのがすごく馬鹿らしく思えて、つられてわんわん泣いちゃった」

「……ばあちゃん……」


 しぃちゃんも、つられて泣きそうな顔をしている。その姿を見て、ずっと感じていた疑問がすっと解けた。

 そうだ、今の早苗さんの顔は、しぃちゃんに似ているのだ。早苗さんはしぃちゃんのお母さんなんだから、しぃちゃん早苗さんに似ているのは当たり前なんだけど、今の表情かおは確かに、しぃちゃん似ている。たぶん早苗さんは今、母ではなく、娘の顔をしているのだ。だからそう感じるんだ。そこで、早苗さんが母である前に娘であることを思い出した。誰だって、1人で産まれてきたわけではないんだ。


「廊下でわんわん泣いて、看護師さんに半ば無理やり病室に戻されてさ。そんで落ち着いた後に、改めて病室で謝られた。結婚報告の時に言ったこと。そんなことを言った理由も教えてくれた」

「……なんだったんですか?」


 わたしの問いに、早苗さんは真剣な顔になった。


「まずね、しぃのことをおろせって言ったこと。あれはばあちゃん的には全く本気じゃなかったんだって」

「え!? どういうこと!?」


 しぃちゃんが思わず椅子から立ち上がった。まぁまぁ、となだめるように手のひらをしぃちゃんに向けて、早苗さんは話を続ける。


「ばあちゃんには、お見通しだったんだよ。全部肯定してあげちゃったら、両親がついてるってことに安心して、きっとあたしが頑張らなくなる。だからああやって強く言ったほうがあたしにはいいって思ったんだって。それ言われて、確かにって思っちゃったよ。あたし昔っから天邪鬼っていうか負けず嫌いっていうか、やっていいよって言われるとやる気なくなるし、あんたには出来ないって言われると絶対やってやる、って思うタイプだったんだよね」

「……それって、」

「あたしの性格をしっかり分かって、考えた上で、わざとそう言ったってこと。確かに、あんなこと言った両親を見返してやるって、それだけで頑張ってたとこあるし」


 じゃあ、両親の言葉は効果てきめんだったということだ。やりきった早苗さんもすごいと思ったけど、そこまで見抜いてそう言った両親もすごい。だって、その言葉がなかったら、早苗さんは途中で頑張れなくなってしまっていたかもしれない。そうしたら、しぃちゃんだって産まれていなかったかもしれないのだ。


「実はこっそり草治通じて色々助けてくれてたみたい。全然気がつかなかったけど、妊娠中に会社の人からもらったっつって大量の野菜持ってきたり、職場の事務のおばちゃんから聞いたとかってつわりの抑え方教えてきたりしてたんだけど、あれ全部じじばばだったんだよね」

「ちゃんと、しぃちゃんのことも考えてくれてたんだね」


 しぃちゃんに言うと、しぃちゃんは恥ずかしそうに俯いて、ココアの入ったマグカップをもじもじと触っている。あ、しぃちゃん、照れてる。大好きなしぃちゃんが、家族に大切に思われてると知って、わたしも嬉しくなる。


「……だからさ、つーちゃん。つーちゃんはさっき『お母さんがわたしのことわかってくれない』って言ってたけど、そんなことはないよ。親ってのは自分が思ってるよりずっと子供のことをわかってるから」

「……でも、」

「それでも、自分の意志と違うことを言われたんだとしたら、きっと何か理由とか意味があるはずだよ。意味もなく子供のことを否定する親なんか絶対いない」


 早苗さんの言葉にどきりとする。きっと、早苗さんの言う通りなのだ。あの時、お母さんは言った。『つばさのことを思って言っている』と。お母さんの言葉はどれも否定的で、わたしの意志に反した言葉だったけど、きっとわたしのことを本気で心配して言っていた。


「だからって親の言うこと全部聞けって言ってるわけじゃないよ? 今、つーちゃんに必要なのは、お母さんの言葉の理由としっかり向き合って、2人が納得できる答えを見つけることなんじゃないかなって、あたしは思うな」

「……理由と向き合って?」


 早苗さんが言ったことをゆっくり復唱する。早苗さんはそれに合わせるようににっこりと笑って頷いた。

 すると、横で聞いていたしぃちゃんが唇を尖らせる。


「とか言って、自分はちゃっかり駆け落ちして逃げたじゃん」

「そーだよ? だからだよ」


 早苗さんはしぃちゃんの突っ込みに対して、むしろ胸を張るようにして言った。


「きっとあの時、じじばばにも草治にもたくさん心配かけたし、迷惑かけた。しなくていい苦労もいっぱいさせた。自分の行動に後悔はしてないけど、結果的に丸く収まったってだけで、もっとベストな方法があったんじゃないかって、ちょっとだけ思うよ。だから、つーちゃんにはベストな方法を見つけ出して欲しいじゃん?」


 たとえば。

 わたしが早苗さんみたいに、お母さんの反対を押し切って、高際さんとお付き合いをして、駆け落ちまでしたら。

 お母さんはきっと毎晩泣いて、お父さんは困ってしまうだろう。わたしはまだ子供だから、責任は高際さんばかりが取らされて、とても迷惑をかけてしまう。それは、絶対にベストな方法ではない。……そして多分、こうしてふてくされてしぃちゃんの家にいることも。

 あの時のお母さんの言葉を思い出す。否定的な言葉だったからつい感情的になってしまったけど、お母さんはしっかりと理由を明確にしていたし、わたしの今後のことも含めて、考えてくれていた。子供扱いされたことに怒っていたけど、図星を指されて癇癪をおこすなんて、まさしく子供のすることだ。自分の行動が恥ずかしくて、唇を噛みしめた。


「……わたしに、できるのかな」

「できるよ。それくらい譲れないことなんでしょ?」


 早苗さんの声に小さく頷く。高際さんを想う気持ちは間違いないし、付き合いたいという気持ちも揺るがない。早苗さんの言う通り、わたしはお母さんの言葉の理由と向き合わなければいけない。


──帰らなきゃ。


 そう思ったけど、足が動かない。向き合うのが怖いのだ。また否定的な言葉を向けられたら。わたしはその『理由』を納得させられるだけの『理由』を持っていない。持ってるのは高際さんへの気持ちだけの、ただの、14歳の、子供で。

 膝の上でぎゅっとこぶしを握る。帰らなきゃと思えば思うほど動けなくなる。どうしよう。どうしよう……! 

 そんな時、本当に押しているのかわからなくなるくらいか細い呼び鈴の音が、長く長く、リビングに響き渡った──。

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