弐

「いやぁ本当に久しいのぉ、檜垣鷹勢ひがきのたかせ。」

 鷹勢が広間に入っていくと、座して待っていた老人は嬉しそうに話しかけた。

「お久しぶりにございます。宿禰殿。」鷹勢は座るなり深々と頭を下げて言った。

「どこでどうしておった。」

「はい、まぁ、いろいろと…」

「いろいろかいな。」

「はい。」

「で、あの少年は?」

「あれは武雲という者で、私が親代わりとなって育ててきた者です。訳あって宮京に行ったところ、鬼へびに出くわしてしまったのですが、突然あの者が鬼へびに斬りかかっていき、蹴り飛ばされて気を失ってしまったのです。それで助けを求めて、宮京近くに館を構える宿禰殿を頼ってこちらに参りました。」

「そうであったか。何事もなければいいのぉ。」

「この家の方々に手厚く介抱して抱いており、感謝しております。」

何故なにゆえあの子は鬼へびに斬りかかっていったのじゃ。」

「武雲は幼い時に、鬼へびに襲われ親を失ってしまったのです。」

「それを鷹勢が親代わりになって育ててきたというわけか。」

「はい。」

「鷹勢は今どこでどうしておる?」

「私は今、鹿渡という村で暮らしております。その村の守人もりとをしております。」

「鷹勢ほどの男が守人とは心強いのぉ。今は山賊・野盗のたぐいが多いからのぉ。」

「その村の長の息子、逆登実という者が、私を守人として招き入れてくれました。」

「鷹勢の噂を前に一度耳にしたことがあるぞ。どこぞの山の中で隠れ暮らしているのを見つけたやからが、同志に引き入れようとしたが断り、そのあとまた姿をくらましたと。」

「………」

「守人となる前の話かな?」

「………」

「で、武雲とはどうして?」

「その逆登実という男と野駆けをしておりましたところ、川原にその母共々流れ着いているところを見つけたのです。母はすぐに事切れてしまいました。」

「武雲という名は?」

「母が今際の際に残した言葉です。その子の名だと思い。」

「なぜ鬼へびに襲われたと?」

「翌日、武雲のことを尋ねながら、その川のかみの方へと進んでいきました。最後には宮京に着き、宮が鬼へびに襲われ大王も今は大宮にいると聞きました。武雲自身のことについては何もわかりませんでしたが。」

「それで村で育てることにしたのか。」

「はい。」

「なぜ村の子として育てなかったのじゃ。剣を使い馬にも乗れる。」

「武雲の母の身なりからして、身分の高い家の者であろうとわかりました。いつか素性がわかるかも知れませんし、それを武雲に隠して育てたところで、村の者がいつか武雲に喋ってしまうでしょうから。」

「ならば初めからすべてを話した上で育てることとしたか。」

「はい。」

「となると、いつか、自分が誰なのか知りたいと言って、村を出て行くだろうのぉ。」

「それで、宮京に行ってみたいと言い出したのです。」

「で、宮京に行ったらそこに鬼へびが現れた。」

「はい。」

「失礼をいたします。」引き戸の外から宿禰の家の者が声をかけた。「鷹勢殿のお連れの方が気を取り戻しました。」

「おお。」鷹勢は喜びの声を漏らした。

「それはよかった。よかったのぉ。」

「失礼をいたします。」鷹勢は宿禰に一礼をして、武雲の寝かされている部屋へと戻っていった。


 夜が明けた。寝床から起き上がろうとすると、武雲は体中のそここかしこが軋むように痛かった。朝餉をいただいたあと、武雲は鷹勢に伴われて宿禰のいる広間に行った。

「こちらが厳蔵宿禰いつきくらのすくね殿だ。」鷹勢が武雲に言った。

「武雲といいます。この度は有り難うございました。」

 宿禰はにこにこと笑って武雲を見つめた。宿禰は長い髪も伸びた髭も真っ白で、温和そうな顔をしていた。年の頃は幾つくらいなのだか武雲には見当もつかない。ただ相当な高齢であることだけは武雲にもわかった

(仙人というのはこんな感じなのかなぁ。)武雲は思った。

「体の方は大丈夫かな?」

「はい。」

 そう答えたものの、武雲はまだ体中のあちらこちらが痛かった。

「武雲は、…何故鬼へびに斬りかかっていたんじゃ?勝てるわけなどないであろうに。」

「………鬼へびは、…鬼へび母の仇です。もしかすると父の仇かも知れません。そして鬼へびは私自身の仇でもあります。」

「そなた自身の?」

「はい。今の私は母もわからず父もわからず、どこの誰かもわからない。本当の自分を半分失くしたままの半端者です。奴を目の当たりにした時、その思いが溢れて、我を忘れて斬りかかって行ってしまいました。」

「ふむ。しかしの、鬼へびを倒したら武雲のもう半分が手に入るのか。そもそも半分足りないとも思えぬ。武雲は、今の武雲でもう本当の武雲なんじゃないのかのぉ。」

「はい…」

「失礼いたします。」引き戸の外から声がかかった。

 広間に入ってきた者は宿禰の脇に座り、盆に乗せて持ってきた椀を宿禰の前に置いた。

「お久しぶりです。鷹勢殿。」

「おお。これは靫田ゆきた殿。本当にお久しぶりです。」

「すまんの。年寄りは長く話していると喉が涸れてしまうのでな。」

 宿禰は白湯を一口啜った。宿禰の右手の人差し指に、緑がかった石の指環が嵌められているのが、武雲の目に入った。その指環は一抓ひとつま(一抓は指一本の太さと同じ長さ。十抓で一柄)ほどもある太いもので、文様が彫り込まれていた。武雲には何かの植物の蔓が絡み合っているように見えた。

「靫田。こちらは武雲じゃ。鬼へびに斬りかかっていた勇者じゃ。」

「武雲です。」武雲は恥ずかしさに顔を真っ赤にして言った。

「武雲。儂の息子の靫田じゃ。」

 靫田は、幾つも年下の武雲にするには不釣り合いなほど丁寧なお辞儀をした。

「宿禰殿。」宿禰にからかわれていると感じた武雲は、宿禰を睨みつけるように見ながら言った。「私は勇者などではありません。」

「いやいや。鬼へびを倒そうなんて思うだけで、もう立派な勇者じゃよ。」

「………」武雲はさらの顔を赤らめた。

「もう一日、この館におるのがいいのぉ。明日になれば体の痛みも和らいで、馬にも乗れるようになるじゃろう。」


 鷹勢と武雲は鹿渡に戻る支度を済ませ、別れの挨拶をするため宿禰の元に行った。

「この度は誠に有り難うございました。」

「有り難うございました。このご恩は一生忘れません。」

「うんうん。そう思うなら鷹勢、武雲。たまにで良いからこの館に顔を見せに来てくれ。ここにいるとな、退屈でたまらん。」宿禰はいつもの笑顔で言った。

「はい。無沙汰をして申し訳ありません。」鷹勢がすまなさそうな顔をして言った。

「あまり待たせるなよ。檜垣鷹勢。」

「はい。本当に申し訳ありません。」

「ほっほっほっほ。」宿禰は機嫌良さそうに笑った。

「宿禰殿。」武雲はにこやかな顔をしている宿禰に視線を真っ直ぐ向けて言った。「教えてください。宿禰殿はいろいろなことをよく知っている方だと鷹勢から聞きました。この国で一番の物知りであると。鬼へびを、鬼へびを打ち倒すにはどうしたらいいのですか。」

「おお、勇者殿。鬼へびを討ち倒したいか。」宿禰は笑顔をさらにほころばせて応えた。

「討ち倒したいです。」武雲はまた顔を赤くしながら答えた。「昨日からずっと、宿禰殿との話が終わってからずっと。夜の寝床の中でも。鬼へびを討ち倒すことしか、頭の中に浮かびません。自分でもなぜかわかりません。鬼へびを討ち倒し、半欠けの、宙ぶらりんの自分を本物の自分にしたいのです。今の自分をなぜ半欠けだと感じるのかはわからないのですが、今のままではだめだと言うことははっきりとわかるのです。だから…鬼へびを討ち倒して……鬼へびを討ち倒したい。」

「わからないでも、ないのぉ。」

 鷹勢は何も言わず、驚いた顔で武雲を見ていた。

「鬼へびを倒す手立てを知っているのですか。」

「知っておる。」

 武雲は身を乗り出した。鷹勢も驚いて、宿禰を見る目を大きくした。

「教えてください。」

「たやすいことではないぞ。」

「わかっています。」

「命を懸けねばならぬぞ。」

「わかっています。」

「剣を手に入れねばならぬ。鬼へびを打ち倒す力を持った剣を。」

「その剣はどこに在るのですか。」

「西方じゃ。」

「西方のどこに?」

「西方の遠い遠いところとしかわからぬ。それしか伝えられておらぬ。」

「その剣があれば鬼へびに勝つことができるのですね。」

「必ず勝てるというわけではないがの。」

「どうすれば手に入れられるのですか。」

「わからん。その剣のもとに行ってみなければ。」

「本当の話ですか。」

「多分な。…今話してやれるのはここまでじゃの。」

「剣…」

「うむ。剣じゃ。」

「あとのことはいつ教えてもらえますか。」

「いや、いつということでもないがの。…さあ、鹿渡の者たちがお前たちのことを心配していよう。行きなさい、陽の高いうちに村に戻れるように。」

 鷹勢と武雲は宿禰の館をあとにした。

 二人を見送り、その背中が見えなくなったところで靫田が宿禰に尋ねた。

「父上。なぜあの話を、天威神槌あまのいかづちのことをあの子に?」

「うぅむ。あの子は、武雲は希人まれびとじゃ。お前も感じたであろう。」

「はい。」

「そして鬼へびを目にしてからは、鬼へびを討ち倒すものとしか考えておらぬ。普通なら、鬼へびが来ると聞いただけで恐ろしくて逃げ出すものだ。しかし武雲は鬼へびに斬りかかっていった。何かが、それが武雲の身の内にある何かなのか、外にある何かなのかはわからぬが、何かが武雲をそうさせておる。或いは、武雲が…」

「果たしてそうなのでしょうか。」

「わからぬ。わからぬが、そうかも知れぬ。」

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