参

 武雲と鷹勢が鹿渡に戻ると、村の奥から奇志室くしむろが走ってきた。

「武雲ーっ。」馬を下りて手綱を引いていた武雲に抱きついた。「もう、どうしたのかと思ったよ。山賊にでも殺されちゃったのかと。」

 奇志室は泣きながら武雲を強く抱きしめた。武雲は体が痛かったが、何も言わずにおいた。

 奇志室は村長の家で下働きをしている。まだ赤ん坊の時に双親ふたおやを共に亡くした。逆登実は奇志室を我が子として育てようとも思ったのだが、長の息子という立場上、そうするわけにもいかず、家で下働きをさせている。しかしそのことで奇志室がつらい思いをしたり悲しい思いをしたことは一度もない。がさつのように見えて逆登実は、気配りの細やかな男だ。武雲とは身の上が似ていることもあり、小さい時から兄妹のように仲が良かった

 逆登実も駆け寄ってきた。

「いやぁ、本当に心配したぞ。二日も行方知れずになっていたのだからな。」

「すまぬ。心配をかけた。」

「どうした。何があったんだ。」

「うん。あとでゆっくり話す。」

「逆登実。」抱きついている奇志室を押し離して武雲が言った。「ごめんなさい。逆登実から貰った剣、なくしてしまった。」

「おお。そんなことはどうでもいい。とにかく無事に戻ったんだからな。」

 そう言って逆登実は武雲の頭をぐりぐりと撫で、もう片方の手で奇志室の頭もぐりぐりと撫でた。


「まさかそんなことまで言い出すとはなぁ。」鷹勢からすべてを聞いた逆登実が言った。

「ああ。俺もそこまでは思いもよらなかった。」

「自分が誰なのか知るために村を出て行くと、いつかは言い出すだろうとは思っていたけどなぁ。」

「武雲は、どうやら本気で鬼へびを倒そうと思っているらしい。」

「でもどう考えたって無理だろ、そんなこと。」

「ああ。だけどな……」

 鷹勢は宿禰から聞いた話と、そしてそれを聞いている時の武雲の様子を詳しく逆登実に話した。

「手立てはあると言ったて、できるわけがないだろ、あんな化け物を討ち倒すなんて。その宿禰殿ってのは信用できるのか。」

「間違いない。信じてよい方だ。」

「じゃあ嘘ではないと。」

「嘘ではない。」

「鷹勢がそう言うのならそうなんだろうけど。」

「必ず倒せると言うことでもないそうだ。」

「武雲はその剣を探しに行くつもりなのか。」

「そのつもりだろう。あのときのあの様子では。」

「なんでそんなことを。死ぬぞ。」

「わからぬが、何かがそうさせているように感じた。」

「何かって?」

「わからないから、何かだ。」

「……武雲が鹿渡を出て行く時が来たのは、確かだな。」

「ああ。」

「まあそのために、武雲は鷹勢に預けて、弓も剣も馬も鍛錬してきたのだものな。間違いなくやんごとなき身分の家の子である武雲のためにな。」

「そうだな。」

「お前、武雲について行くつもりだな。」

「うむ。」

「なぜ?」

「わからん。」

「わからない何かか。」

「そうだな。」

「止められないだろうな。」

「止めれば、黙って出て行くだろう。」

「ならば、鷹勢と一緒に大手を振って出て行かせるか。」

「ああ。それがいい。」


 鹿渡に帰ってからの武雲は、よく眠れる日がなかった。夜、寝床で目を閉じると頭の中で鬼へびが暴れ出した。夢を見ているのか、はたまた覚醒した意識の中で想像をしているのか判然としなかった。ただ武雲の頭の中では、鬼へびの暴れまわる姿が渦巻いていた。そのうちに夜が明けてしまうのだった。

 村の夕餉のあとでは、それまでと同じように、武雲周りに若者達が集まる。どういうわけか武雲は、若者達に慕われていた。些細なことを話のたねに、みんなで語らい笑いあって時を過ごす。武雲の横にはいつも奇志室がいた。この時だけが、今の武雲にとって心の安らぐ時であった。


 その朝も武雲の頭の中では鬼へびが暴れ回った。まだ明けきらぬ朝の薄明かりの中、武雲は静かに起き上がった。

「どこへ行くのだ?武雲。」鷹勢が言った。

 後ろから不意に声をかけられて、武雲はびくっとなって立ち止まった。ゆっくりと振り向くと武雲は、鷹勢の目を一瞬見てすぐに視線をそらした。武雲はこのまま鹿渡を出て行こうと思っていた。旅の支度は小屋の外の物陰に隠してある。鷹勢を出し抜いたと思っていたのだが、鷹勢はそう甘くはなかった。

「いや…その……」

「自分が誰なのかを知るために行く。か?…そして鬼へびを打ち倒すために」

「………」武雲は何も言わない。

「いつかはお前が村を出て行く日が来るとわかっていた。……そしてそれがもう間もなくであろうということもな。逆登実と、そして村長には、出立の挨拶ぐらいしてから行け。」

「え?」

「引き留めると思っていたか?」

「…うん。」

「さっきも言ったろう。いつかはおまえがそうすると思っていたと。」

「行ってもいいのか?」

「おまえが自分で決めることだ。」

「『馬鹿なことはやめろ』って言われると思っていた。」

「そう言いたいところだが、言ったところでやめたりはしないだろう。」

 武雲は声を出さずにこくりと頷いた。

「逆登実も村長も、この日の来ることはわかっている。………だから、出立の挨拶ぐらいはしていけ。」

「わかった。」


 朝陽が高くなってから、武雲は鷹勢に伴われて村長の元へと行った。鷹勢の言ったとおり、村長も逆登実も、武雲を止めたりはしなかった。

「そうか。いよいよ行くか。」逆登実が言った。

 武雲は顔をあげられなかった。自分の命を救い、そしてこのように成長するまで見守ってくれた村長や逆登実に、何の恩返しもしていない。それどころか勝手に村を出て行こうとしている。そんな自分はとんだ恩知らずの裏切り者だと思っていた。

「少々待っておれ。」

 そういうと村長は一度奥へと下がっていった。少しして、村長は手に大層立派な造りのつるぎを一振り持って再び現れた。

「旅立ちの餞別じゃ。」そう言って村長は、その剣を武雲に差し出した。

 鞘の拵えは見事と言うほかなく、その鞘に納まった剣の柄は見るからに美しい。

「とんでもない。そのようなものは、受け取ることはできません。」武雲は両の手を大きく左右に振りながら村長に断った。

「我がいえに代々伝わる秘蔵の剣じゃ。なぜこんな立派なものが我が家に伝わっているのかは、もはやわからなくなってしもうたがの。」

「ならば、ますます受け取るわけには参りません。」武雲は堅く辞した。「どこの者とも分からぬ私の命を助けていただき、さらに今日まで村に置いてくださった大きな御恩がありながら、それに何も報いることなく村を出て行こうという私です。恥じ入るばかりで、とてもそのような物を頂くわけには参りません。」

「随分と立派なことを言うようになったもんだ。」逆登実が驚いたように言った。

「まったくのぉ。」村長も嬉しそうに言った。

 村長はまるでそこら辺に落ちている木の枝ででもあるかように、武雲に向かってその剣をひょいと放り投げた。

「我が家にあっても何の役にも立たん。おまえのような若者にこそふさわしい。」

 武雲は投げられた剣を両手に抱えたまま困ってしまった。まさか村長に投げ返すわけにもいかない。かといって「はいそうですか。」と受け取るわけにも行かず、横にいる鷹勢の顔を見た。

「有り難く、頂戴してはどうかな。」

 武雲は黙ったまま、自分の両手の上にある剣を見つめた。剣の柄のあまりの美しさに、武雲はその場で柄を握りしめ、剣を抜き放ちたくなった。その欲求に堪えて武雲は、剣を両手で頭の上に掲げて言った。

「有り難く頂戴いたします。」

「うむ、うむ。」村長はとても満足げで、そしてとても穏やかに微笑みながら頷いた。

「重ねがさねのご恩、一生忘れません。」

「何を今生の別れのようなことを。よいか、生きてまた、この鹿渡に戻ってくるのだぞ。」

「はい。」武雲の目が涙で潤んだ。

「決して死んではならん。」

「はい。」

「命を捨ててまで、やり遂げようとしてはならぬ。」

「はい。わかりました。」

「で、いつ出立いたすのじゃ?」村長も目を潤ませていた。

「今日、これから。」

「それはまた急なことじゃ。」村長は目を丸くした。

「はい、思い立てば一日と待ってはいられません。」

「そうか。そんなもんであったかのぉ、若さとは。………儂はもう、ちぃっとも覚えておらんわい。」

 武雲の心が少しだけ揉みほぐされた。

「村長殿。」鷹勢が言った。「私も武雲とともに参ります。」

「えっ。」武雲が小さく声を発した。

 しかし村長は驚きはしなかった。

「うむ。武雲を頼むぞ。」

 村長には予想通りのことであったのだ。


 鷹勢の旅支度はすぐに済んだ。武雲は朝早くから支度はできている。もう一度村長に挨拶を済ませると、村長の館の外で逆登実が馬を二頭引いて待っていた。

「村一番の駿馬二頭だ。」そう言って逆登実は手綱を鷹勢に手渡した。

「俺からの餞別だが、大事にしている馬なんだ。必ず戻って返してくれ。」逆登実は半分真顔で、そして半分笑って言った。

「わかった。必ず。」鷹勢が応えた。

 武雲は言葉を出すことができず、ただ黙って頭を下げた。目に涙が溜まって溢れそうになり、下げた頭を上げることができなかった。逆登実は武雲の頭を片手で鷲掴みにすると、ぐりぐりと回した。

「では、参ろう。」鷹勢が言った。

 二人は馬の手綱を引いて村の出入り門へと向かった。村人たちも総出で二人を見送ってくれた。村を囲う柵を出たところで二人は馬に乗り、村の方に向き直った。

「では、行って参ります。」武雲は必ずここに戻ってこようと強く思った。

 鷹勢は何も言わず馬の首を返すと先に進んだ。武雲は見送りに出てくれた村人達を見回した。何度もそうして見たが、奇志室の姿が見つけられなかった。諦めて武雲はさっと馬の首を返し、もうずいぶん先に進んでしまった鷹勢の後を追って馬を速歩はやあしにした。その時、

「武雲ーっ。」

 振り返ると奇志室が、村の出入り門のすぐ際にある、鷹勢と武雲の小屋の屋根の上で叫んでいた。

 武雲が自分の出自を知るために村を出ると聞いた奇志室は、なぜ行くのかと武雲を責めた。

「武雲がどこの誰かなんてわかっている。武雲は鹿渡の武雲だ。鹿渡の武雲でいいじゃないか。」奇志室は宿禰と同じことを言った。

 奇志室は、どうしても行くという武雲に背を向けて走り去ったきり、どこかに隠れてしまっていた。村の人々には、鬼へびを打ち倒そうとしていることは隠しておいた。そんなことを言えば奇志室は泣きながら武雲にしがみついて離れないだろうし、村の者たちも口々に、「そんなことできるわけがない。やめろ。」と言い立てるであろう。

「馬ぁー鹿!」

「奇志室ーっ、行ってくる!」

 武雲は叫び返すとくるっと向きを変えて馬を駆け足にした。武雲の背には、村長からもらい受けた剣が、革の紐で括りつけられて揺れている。まもなく夏の盛りを迎えようとする季節の眩しい太陽に向かって、武雲は馬を駆けさせた。


 鹿渡を出発してからまだ一刻程しか経っていないのに、鷹勢は山道の開けたところで馬の足を止めた。

「どうしたんだ?」

 武雲が訊いても、鷹勢は口元でにやっと笑うだけであった。鷹勢は馬を下り、道端の大きな石に腰を下ろした。武雲は肩をすくめ、自分も馬を下りて道ばたに腰を下ろした。間もなくすると、馬の足音が近づいてきた。そちらを見やると、一頭の馬がこちらに向かって走って来る。近づいて来てようやく、馬に乗っているのは逆登実だとわかった。傍らまで来て馬を止めると、逆登実は鷹勢を見て、さっきの鷹勢と同じようににやっとした。

「俺が来るとわかっていたか。」逆登実は馬を下り、口元に笑みを浮かべながら鷹勢に訊いた。

「ああ。」鷹勢がうれしそうに答えた。「必ず後を追ってくると思っていた。いろいろと聞きたいことがあるのだろう?」

「あるある。」逆登実がすかさず答えた。「こいつが急に事をおこすもんだから…」言いながら逆登実は右の人差し指で武雲の胸をずいっと押した。「この先鷹勢がどういう段取りなんだか聞く暇がなかった。」

「ごめん。鷹勢と逆登実がそんなつもりだったなんて、まるで思いもしなかったから…」

「まぁいいか。で、鷹勢。まずはどうするつもりなんだ。」

「まずは、前に話した宿禰殿のところに行って、鬼へびを倒せる剣のことを詳しく教えて貰う。」

「そのあとは?」

「そのあとは、宿禰殿の話次第だ。」

「あまり段取られてないな。」

「そりゃ鬼へびを倒すなんて無茶なことに、段取りなんてあるわけがない。」

「そりゃあそうか。」

「そりゃあそうだろう。」

「であるにしてもだ。とにかく必ず鹿渡に戻ってこい。」

「わかってる。」

「お前もだぞ、武雲。」

「はい。」

「お前がどこの誰であっても、俺にとっては、お前は鹿渡の武雲だ。」

「はい。」

「鷹勢、頼むぞ。俺は鹿渡を離れるわけにはいかないからな。………武雲。……いや、言わなくてもわかっているか。十分に。」

「うん。鷹勢が一緒に行ってくれると聞いたときには、正直嬉しかった。」

「俺もだ。……しばらく同行しよう。そして今宵は、お前たち二人の出立を祝って酒を酌み交わそう。」

「酒を持ってきたのか?」鷹勢が訊いた。

「ああ。一瓶くすねてきた。食い物もたっぷり持ってきたぞ。」

「さすがは次の長になるだけの男だ。手抜かりがない。」

「おうよ。」

 三人は山間やまあいの道を宮京の方に向かって進んでいった。陽も間もなく暮れようかという頃になって、馬の足を山の中に向けた。しばらく行くと小さな瀬の側に見窄らしい小屋が見えてきた。鷹勢が鹿渡に来る前に住んでいた小屋だ。小屋はもはや廃屋同然で荒れ果てていたが、とりあえず形は残していた。

「今日はあの小屋を宿としよう。」逆登実が言った。

 小屋のそばで馬を下りると、武雲は小屋の中へと入っていった。遠目に見たり、逆登実から話を聞かされていたりはしていたが、そばまで来るのは初めてであった。武雲は興味深そうに中を見回したが、何てこともないただのぼろ小屋であった。

「武雲、薪を拾い集めてくれ。」小屋から出てきた武雲に逆登実が言った。逆登実は馬の鞍に括りつけた袋を降ろしてそれを解いているところであった。

 武雲が薪を集めて戻ってくると、逆登実は干し肉と餅と酒を並べていた。武雲は薪を組んで火を熾した。火はすぐに勢いを増し、三人はその周りに車座になった。

「まずは武雲に。」逆登実はそう言うと木椀を武雲に向かってつき出した。

「えっ。」武雲には意外であった。武雲はまだ酒を飲んだことがない。鹿渡ではまだ大人として扱われてはいなかったのだ。

「今日からはお前も一人前だ。飲め。」

 逆登実はそう言うと、椀をもう一度、武雲に向かってぐいっとつき出した。武雲は少し嬉しくなってそれを受け取った。逆登実が酒を並々とついでくれた。鷹勢と、それに自分の椀にも酒をつぐと逆登実は、その椀を少しだけ上に上げてからぐっと飲み干した。鷹勢も同じようにして一気に椀をからにした。武雲も二人と同じように椀を少しだけ上に上げてから、椀の縁に口を付け酒を啜ってみた。

「んっ。」熱い気が武雲の鼻腔を通り抜けていった。

「ぐいっと行けぐいっと。」逆登実が言った。「これはお前の門出の酒ぞ。そんなことで鬼へびが倒せるものか。」

 武雲はむっとして、ぐぐっと椀をあおった。初夏の茜空が一段と美しく見えた。

「ふぬーー。」鼻から酒の気が抜けていった。

「おお、おお。たいしたものよ。それもう一杯。」

 逆登実はそう言うと嬉しそうに武雲の椀に酒をついだ。それからあとのことは、武雲は何も覚えていなかった。


「どうした武雲、顔色が悪いぞ。」出発の準備を終えた逆登実がにやにやしながら言った。

「頭が痛い。」

「夕べは何も食わなかったし、朝飯もまだ食ってないんだ。腹が減ったろう、これを食え。」そう言って逆登実は、焼いた干し肉と餅を大きな木の葉に乗せて武雲に差し出した。

「いや、何も食いたくない。胸の辺りも気持ち悪いんだ。」

「それじゃあ、あとで食え。」

 逆登実はそれをうまく包みにして麻紐でくるくると巧みに縛り武雲に持たせた。

「じゃあ、またな。」逆登実は鷹勢の方を向いて言った。

「うむ、また。」鷹勢が応えた。

 ふたりは堅く手を握りあった。そして逆登実は、今度は武雲を両腕で胸の中に引き寄せて、ぎゅっときつく抱きしめた。

「ううぇっ。」

「死ぬなよ。無事でいろよ。必ず生きてまた鹿渡の村に帰ってこい。」

 逆登実は手を離すとさっと馬に跨り、昨日来た道を早駆けに戻っていった。

「さあ、俺たちも行こう。」逆登実の姿が見えなくなると、鷹勢が言った。

「逆登実の馬鹿力のせいで、ますます気持ち悪くなった。」武雲は自分の胸を撫でながら言った。そのせいもあって、武雲の目は涙でいっぱいになっていた。

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