十五

 鬼へびの亡骸は、そのままゆっくりと、まるで地面に吸い込まれていくように消えていった。不思議な光景であった。そこにいる誰もが呆然としてそれを、鬼へびの亡骸が地に吸い込まれていくのを眺めていた。武雲も肩を大きく上下させながら、鬼へびの消えていく様をじっと見つめていた。

 ようやく立ち上がった武雲は天威神槌をつくづくと見て、そしてそれを鞘に納めた。空は一転晴れ渡り、澄み切った青空と、きらきらと光る太陽が顔を見せた。

「おおおおおおおー。」武雲と鬼へびの戦いを見守っていた人々から歓声が漏れた。

「鬼へびを討ち倒したぞ。」

「あの若者が鬼へびを討ち倒したぞーっ。」

 人々は、最初はゆっくりと、そして最後は先を争うようにして武雲の元に近づいてきた。武雲は片手を堅く握ってみんなに向かって突き上げた。

「おおーーーー。」どよめきが起こった。

「やったぞーっ!」武雲は叫んだ。

「おおーーーーっ!」どよめきは歓声に変わった。

「『選ばれし者』じゃあないのか?」歓声の中から声が上がった。

「伝説の?」

「そうだよ。『選ばれし者』だ。」

「あの伝説は本当だったんだよ。」

「間違いない。鬼へびを、『魔』を打ち倒したんだもの。」

「あの若者こそ、伝説の『選ばれし者』だ。」

「魔を打ち倒した。」

「『選ばれし者』だ。」

「この世に平穏をもたらした。」

「『選ばれし者』が現れた。」

「選ばれし者!」

「選ばれし者!」

 人々の口々に喜びの声を上げた。その声は遂に一つの塊となって、大地から湧き上がるように響いた。


退け、退けーっ!」

 武雲の周りに群れ集って一団となっていた群衆が一斉に声の方に顔を向けると、大王の騎兵の一隊が、すぐそこに迫っていた。群衆が二つに割れる。騎兵の一隊は、武雲と鷹勢の正面、二尋ほどのところで止まった。

「鬼へびを討ち倒したのはそなたらか?」隊を率いる武官が馬上から言った。

「いかにも。」武雲が答える。

「大王の命により、そなたらを討つ。」

 そう言ったものの武官は、馬上とはいえ腰が引けている。鬼へびを討ち倒すほどの者と戦っても勝てるはずなどないことはわかっていた。

 武雲はその武人を見上げたまま黙っていた。人々は周りの者たちと声をひそめて話し始め、次第にざわざわと騒がしくなった。

「なぜこの方々を討つんだ?この方々は鬼へびを討ち倒してくれた勇者だぞ。」

 群衆の中の誰かが叫んだ。それを機に、多くの人々から声が上がる。

「そうだ。伝説の『選ばれし者』だぞ。」

「この世に平穏をもたらしたんだ。」

「鬼へびを討ち倒したんだ。お褒めの言葉なり褒美の品なりってのが当たり前じゃないか。」

「そうだ、そうだ。」

「なぜだ。なぜ討たれなきゃならないんだ。」

 騒がしくなりすぎて、もはや何と言っているのか聞き取れなくなっていった。

「黙れーっ!」武官が一喝した。たちまち辺りは静まりかえった。「大王の命である。」

 怯えを含んだ震えた声でそう言うと武官は剣を抜き、兵に号令をかけようと剣を頭上に振り上げた。

「ふざけるなーっ!」

 声と同時に大きな石が武官の体に当たった。武官の体がぐらつく。

「何が大王だ!」またもや石が武官に向かって飛び、今度は二の腕に当たった。同じ声である。「俺たちを鬼へびから守ってくれもせず、それどころか俺たちを苦しめてばかりじゃないか。」

「そうだ!」別の声が言い、石が飛んでいった。「俺たちを命懸けで守ってくれた勇者様に手を出すな!」

「そうだ!」

「近づくな!」

「うぅわああああー!」

 多くの人の声が響きあって喊声となり、石がそこかしこから絶えることなく、騎兵の一隊に向かって投げつけられた。石を顔面に受けて馬から落ちる兵もいた。

「鬼へびさえも討ち倒した我らの勇者が、おまえたちなどに討ち取れるものか!。」

 誰かの声がした。騎兵たちも初めからそう思って怯えながらここまで来ていた。そこに民衆からの思わぬ反撃である。一隊はたじろいで後退していく。

「奴らをこそ討ち取れー!返り討ちだー!」

「おおおおー!」

 騎兵たちは踵を返して宮へと逃げ出した。興奮の頂点にある群衆はそれを見て追い討ちを掛ける。

「いかん。」鷹勢が言った。「みなを止めなくては。行くぞ武雲。」

 投石の攻撃で乗り手を失っていた馬にひらりと飛び乗ると、鷹勢は群衆を追いかけた。武雲もそれに続く。走る群衆を追い越して、鷹勢と武雲は彼らの前に馬を回り込ませた。

「やめよー!落ち着けー!」

「落ち着けー、落ち着けー!」

 石を手に血走った目をしていた群衆が、鷹勢と武雲の制止する姿を目にして足を止めた。しかしそこはすでに宮の内、大王の座する正殿の前であった。宮の外壁も正門も、武雲と鬼へびとの闘いですべて壊れてしまっていた。武雲は正殿の方に向き直った。宮の正殿はまだ無事であった。西側が少し崩れていたが、大きな支障はない。近衛軍の武将や兵たちが正殿の前庭で剣や槍を構えていた。正殿の回廊上には、立派な鎧を身につけた男が五人、剣を構えて立っていた。そしてその奥、一段高くなったところに、悠然として玉座に座っている人の影が見えた。大王である。武雲はその姿をよく見ようと目を凝らしたが、大王の姿や顔ははっきりと見ることはできなかった。奥の方にいるため、薄暗くて人影しか見えないのだ。正殿の回廊と前庭とをつなぐ階段の下に、民衆に追われて逃げ帰った武官が走り寄った。

「あの者たちが、鬼へびを討ち倒した者どもです。」後ろ手に武雲と鷹勢を指さしながら大王に奏上した。

 大王が玉座から立ち上がり、ずんずんと大股で正殿の回廊のきわにまで進み出てきた。武雲はようやく、大王の容姿をはっきりと見て取ることができた。豊かな髭をたくわえ、屈強そうな大きい体をしていたが、その目に輝いているのは冷たい光だけで、顔には表情がまるでなかった。

「朕を、…殺しに来たか?」武雲と鷹勢を見下ろしながら、容貌と同じように表情のない声で、大王が言った。

 武雲は何も答えなかった。

「その方どもが、鬼へびを倒したのか?」同じように表情のない声で大王が言った。

「はい。」武雲は顔を大王に真っ直ぐ仰ぎ向け、澱みのない声で答えた。

「そうか。誰ぞ、その者どもを斬れ。」抑揚のない、感情などまるで感じられない冷たく乾いた物言いであった。

「………………………」

 あたりは静まりかえった。誰も返事をしなかった。誰も声を出さなかった。それどころか、音さえも立てなかった。

「誰ぞ、そ奴らを斬り捨てよ。」

 今度の声には苛立ちがあった。大王が武雲に見せた初めての表情であった。しかし武具を構えて立っている大王の兵たちの誰も、大王の命を実行に移そうとはしなかった。そもそも、鬼へびを討ち倒した英雄をなぜ殺さねばならぬのか理解ができなかったし、何より、鬼へびをも討ち倒すような者を相手に勝てるわけがないと誰もがわかっている。

泰持やすもち!その者どもを斬れ!」大王は声を荒げて、側近の一人に直に命じて言った。

「はっ、しかし……」大王のすぐ脇に控えている男が答えはしたが、命に従おうとはしなかった。

「なぜ。なぜ我らの勇者様を討ち取ろうとするのだ。」民衆の中から声がした。

「その者どもは、」大王がまた元の無表情な顔と声とで言った。「鬼へびを宮へと導びいてきた。朕を殺そうとしてのことであろう。」

 その場にいる誰もが、そんな馬鹿なという顔をした。大王の側近たちさえも表情を大王に悟られないようにと、片膝を付いて大王の膝あたりに向けていた顔をさらに俯けた。

「宮の大半が崩れたのを見て朕がもはや死んだと思い、それから鬼へびを倒したのだ。しかし残念なことに、朕はまだ生きていた。鬼へびさえも朕を殺すことはできない。」大王は片側の目元と口元だけで、冷たく笑った。「朕がまだ生きているとわかり、今度は愚かな民衆を扇動して宮に攻め入ってきたか?」

 みなは唖然とした。誰がどう見てもそんな状況ではなかった。

「それにあの力、鬼へびを倒したあの力、人のものではあり得ない。おまえ達もまた魔物か?正体を現してみよ。」

 大王の兵たちはその言葉にびくっとなった。

「私は、魔物などではありません。」武雲が口を開いた。

「そうだ。魔物なんかじゃない。その方は我らの勇者様だ。伝説の『選ばれし者』だ。」群衆の中から声が上がった。群衆の口火を切るのは常にこの声だ。「その方を殺そうなんて、俺たちが許さない。たとえ大王でもそんなことはさせないぞ!」

「そうだ!その方は鬼へびを打ち倒し、宮京に平穏をもたらしてくれたんだ。」

「その勇者様を殺そうなんて、それが大王か?」

「大王は自分の身を守ることばかりで、俺たちのことなんか守っちゃあくれなかったじゃないか。」

「そのお方は、大王の命だって守ってくれたんじゃないのか。」

「そうだとも。いつも宮を襲ってくる鬼へびを倒してくれたんだからな。」

「その人を、大王は討ち取ろうというのか。」

「自分の命を助けてくれた人なのに。」

「命の恩人を殺すのか。」

「何という大王だ。」

「そんな大王があるものか。」

「そんなのは大王なんかじゃない。」あの声が言った。

「そうだ!そんなのは大王じゃない!」

「だいたい大王は、今までずっと俺たちを苦しめてきた。今まで俺たちは、大王のせいでさんざん苦しんできた。大王ってのは、国を守り民を安んじてくれるものじゃあないのか。」あの声がまた言った。

「俺たちを苦しめるばっかりだった。」

「大王は思い税を取り立てる。気に障れば捕らえて殺す。」あの声が言った。

「こんな大王など要らない!」

「そうだそうだ。こんな大王、要らないぜ。」

「鬼へびから守ってくれなかった大王は要らない!」

「俺たちを苦しめるばっかりの大王は要らない!」

「鬼へびを討ち倒してくれた勇者様を殺そうとする大王など要らない!」

「そうだ!俺たちのことをさんざん苦しめて……」

「鬼へびから守ろうともしないで……」

「俺たちの勇者様を殺そうだなんて……」

 人々の怒りは昂ぶり、うねりとなって広がり、人々は口々に大王に対する怨みや不満を叫び、中には拳を振り上げている者もいた。

「大王なんて要らない!」

「こんな大王なんて要らない!」

「こんな大王、いない方がいい!」

「そうだ。楠岡の大王を宮京から追放しろ!我らの勇者様が新たな大王だ!」あの声が叫んだ。

「大王を追い出せーっ!」

「大王を宮京から追い出せっ!」

「おぉおおおー!」

 もはや興奮は頂点に達した。気持ちの昂ぶりは沸騰した。人々は宮の内に散乱していた剣や鑓を手に取り、一団となって正殿へと迫っていく。まさしく反乱である。市井の人々による反乱である。受け身に立った武者たちは、皆正殿の回廊の上へと昇った。市井の人々と武者たちと、正殿の回廊の上と下と、睨み合いとなった。しかし武者たちの方が気押されている。武雲の存在に怯えている上に、群衆の数の方が圧倒的である。

「あああああぁぁーー。」

 大王は崩れた表情で、言葉にならない声を上げた。鬼へびが宮を襲ってきた時でさえ平然としていた大王が、今は大きく動揺していた。

「不遜であるっ!」側近の一人が叫んだ。

「下がれ、下がらぬかっ。」

「来た…来た…」うわずった声で大王は言った。「その時だ……」

 側近たちは大王を守り人々を退けようとするが、群衆は一歩も退こうとはしない。大王はもはや呆然自失となりただ立っているだけの状態であった。側近達に抱えられて、ついに大王は玉座の間を逃れ出た。側近たちは正殿の裏手へまわり、鬼へび来襲の報を聞いて備えてあった馬に大王を乗せると自分たちも飛び乗って宮京から奔り去っていった。


 短い時間のことであった。武雲はその様子をただ眺めていただけであった。止めるいとまもなかった。そして今は、大王とその側近たちの奔り去っていった方にずっと目を向けていた。武雲の後ろでは鷹勢も同じ方に目を向けてはいたが、武雲と違って鷹勢は厳しい目をしていた。

「ぃやったぁーっ!」

「大王を追い出したー。」

「大王を追放したぞー。」

 人々は喜びの声を上げた。正殿の中や回廊の上、そして回廊のすぐ下あたりで、人々は手を叩いたり抱き合ったりしていた。長い圧迫から解き放たれた、心からの晴れ晴れとした喜びが人々を覆っていた。どの顔もこぼれるような笑いがあふれていた。

 喜びのざわめきが続いている中、鷹勢よりも十歳ほど年若そうな男が武雲の方に進み出てきた。その男の身なりはほかの人々と同じようであったが、髪の色が少し変わっていた。濃い茶色の髪に銀髪が混ざってまだらになっている。まるで雪の野原を走り回ってきた狼のようであった。

「あなたのお名前は?」

 あの声であった。折りにつけ真っ先にあがっていたあの声。

「私の名は武雲。」

 その男は武雲の答えを聞くと人々の方を振り返った。

「我らの新しい大王は、武雲様とおっしゃる。」

「うおおおおおおー!」群衆から歓喜の声が大きくあがった。みんな両手を高く突き上げている。

「みんなー、武雲様を玉座へー。」その男が叫んだ。

 群衆は、今度は歓喜のうねりとなって武雲を取り囲み、そして担ぎ上げるようにして武雲を正殿の奥へと運んでいった。武雲は玉座に座らせられた。鷹勢も群衆の輪に押されて正殿の奥へと進められ、武雲の右に立たされた。玉座の前の広間には人々がひしめきあって座っている。そしてそこに入りきれなかった人たちは、回廊や前庭から中を窺い見ていた。

「おおー。」突然前庭にいた人々が歓声をあげた。

 赤い大きな鳥が正殿の上を飛んでいた。高く昇った太陽の光を反射させて輝いて見える。まるで自らが光り輝いているかのようであった。尻尾は長くたなびき、翼を優雅に羽ばたかせていた。美しい鳥であった。高貴さを感じさせた。正殿の上に輪を描き、前庭の上を低く舞い飛んだ。その姿は玉座に座る武雲からもよく見えた。

「おぉおぉー。」人々からさらに大きな歓声が上がった。

「見事な鳥だ。」

「何とも美しい。」人々はその姿に見入っていた。

 すると後ろの方でしわがれた声がした。

「しょりゃあしゅじゃくだ。しゅじゃくがまた、宮京にやって来たんだわ。」

 皆が振り返ってみると、盲いた老婆が女の子と一緒に座っていた。女の子から鳥の様子を聞いて大きな声を上げたらしい。

「おばば、何のことだ。」武雲を取り巻いている人々の中から男の声がした。

「しょの鳥はしゅじゃくに違いない。長い尾を持った赤く輝くような鳥と言えば、しょれはしゅじゃくじゃ。」

「しゅじゃくって言うのか、あの鳥は。」

「違う、しゅじゃくじゃ。」

「だからぁ、しゅ・じゃ・く、だろう。」

「違うわい。しゅ・じゃ・く、じゃ。」

「あぁーっ?」

「わかったっ。すざくだな、おばば。」

「しょうじゃ、しゅじゃくじゃ。」

「すざくか。」

「『すざく』って言う鳥だそうだ。」………

 人々の口から口へ、朱雀という名が伝わっていくうちに、空に真っ白な、それは見事な、力強い雲が湧き立ってきた。

「おおぉぉ。」人々はその雲を見てまたどよめきの声を上げた。

 すると…朱雀は舞い飛びながら、その雲の中に吸い込まれるかのように入っていった。次の瞬間、雲がさぁーとひいていくと、そこにはすでに朱雀の姿はなかった。人々は雲のひいていったかたを、まるで幻術の類を見せられた子供のような顔をして見いっていた。


「おばば。」呆けた表情のまま、男が訊いた。「『また宮京に来た』とか言ってたけど、前にも来たことがあるんだな。」

「あぁしょうじゃ。前にも来た。じゅい分と前のことじゃがな。しょの時も猛々しい雲とともに消えしゃった。」

「いつのことだ?」

「もう二十年かしょこら前のことじゃな。」

「………」

「誰も覚えておらぬのか?」

 人々が近くにいる者と言葉を交わしあい、あたりはざわざわとなったが、覚えていると言い出す者はなかった。

「しょの時にもしゅじゃくを目にした者が、この場に何人もいるじゃろ?」

「……(ざわざわ)……」

「楠岡の大王に王子が生まれなしゃった日のことじゃったが……。………思いだしゃんか?………しょうか、みんなは忘れてもうたか。………儂はあのあとしゅぐに目が見えんようになってしまったから、鮮明に覚えておる。何せ、儂がこの目で見たしゃい後の美しいものじゃからな。今でもはっきりと思い出すことができるわ。みんなはしょのあと、いろんな苦しい思いをして、いろんなものを見てしまったからのぉ、わしゅれてしまったんじゃろな。」

「………」

「朱雀ってのは、どんな鳥なんだい?おばば。」女が思いついたように訊いた。

「じゅい鳥じゃよ、じゅい鳥しゅじゃく。」

「瑞鳥ってのは何だい?」別の女が訊いた。

「じゅい鳥ってのはな、縁起のいい鳥とか、福をもたらしゅ鳥とかってことだ。」老婆は答えた。

人々はざわめき立った。

「福をもたらす縁起のいい鳥だってよ。」

「そりゃあ益々いいこと尽くめだ。」

「鬼へびが討ち倒されて、大悪逆の大王もいなくなり、武雲様が大王になられてその上に瑞鳥だからな。」

「いやいや。武雲の大王が玉座に上られたからこそ、瑞鳥朱雀が現れたんじゃないのか?」

「ああ、そうかもしれないな。」

「うん。今日という日にたまたま朱雀が現れたわけじゃなくてな。」

「そうかもな。武雲の大王と朱雀とには、何かの繋がりがあるんだろう。」

「そうだとも。武雲の大王を、天も祝福しているってことだよ。」

「ああそうだ。」

「そうに違いない。」

「うん。間違いない。」

「まったくめでたいことだ。」

「前に来た時にはどんないいことが起きたんだ?おばば。」

「しょん時は、『王子しゃまがお生まれになった。』って、宮の内じゃあ大喜びだったしょうじゃが、儂らには何もいいことはなかったわい。」

「ふぅぅーん。」

「でも今度は、いいこと尽くめだな。」

「ああ。めでたい、めでたい。」

「まったくだ。」

「めでたい、めでたい。」


 その男が、朱雀のもたらしたざわめきがおさまってきたところで、玉座に座る武雲の前に進み出た。

「武雲の大王。」そう言って男は、跪いて頭を下げた。

「えっ、あっ、…」

 それを見た正殿の中の者たちもみな一斉に、その場に膝を折って頭を下げた。そして宮の前庭の群衆もそれに気づいた者から同じ姿勢になっていった。朱雀の消えた方を見上げて同じ恰好をしていた人々がみな、今は武雲に体の正面を向けて同じ姿勢を取っていた。

「いや、待ってくれ、みんな。わたしは大王になれるような者ではない。」

「いいえ武雲様、あなたは鬼へびを討ち倒してくれました。そしてこれからは鬼へびがいつ出るかと心配することなく、心穏やかに暮らしていけるようにしてくれた。あなたこそ、大王にふさわしい。」まだらの髪の男が、顔を上げて言った。

「しかし…そもそもわたしはその血を受け継いではいない。」

「武雲の大王。大王というものは血筋でなるものではありません。大王とはその徳によってなるものです。」

「でも今までの大王は……」

「先の大王、楠岡の大王の政を思い起こしてください、武雲の大王。血筋だけでは立ちゆかないことは明らか。人と国とを治めるには、もっと大切な大きな力―『徳』というものが必要なのです。」

「ですがわたしは大王になるつもりなどないし、なろうなどと思ったこともない。」

「我らの武雲の大王。大王とは自ら望んでなるものでもないし、なれるものでもありません。大王とは請われてなるもの。皆々から押し上げられてなるものです。」

「いや、しかし……」武雲は横にいる鷹勢に目をやった。

 鷹勢は涼しげな目で武雲を見返し、ほんの少しだけ肩をすくめて見せた。

「わたしたちがあなたを玉座へと押し上げた。あなたはわたしたちの大王だ。」

「………」

「武雲の大王。我らをお導きください。」

 そう言ってまだら髪の男は、再び深々と頭を下げた。周りの人たちも、二人の遣り取りを見聞きするために上げていた頭をまた前よりも深く下げた。そして武雲の傍らでは、鷹勢がみんなと同じように片膝をつき、武雲に向かって頭を下げていた。

「わたしにそれほどの力があるとは思えません。それはお断りします。……わたしは…わたしは母の仇である鬼へびを打ち倒したかっただけのこと。その願いが叶った今は……わたしはわたしの村に帰って平穏に暮らしたい。」

 周りの人々からは小さな落胆の溜息が洩れた。

「武雲の大王。このあとあなたがどうなされようと、どこに行かれようと、あなたは我々の大王です。我々のただ一人の大王です。」しかしまだらの髪をした男だけは至極平静で、少しの動揺も感じさせない声で言った。「ですがひとたび村にお戻りになるとしても、そのお体で今すぐにというのは無理。傷を癒されませんと。」

 言われてみれば武雲の体は、鬼へびとの戦いで疲れきっていた。体の節々が軋んで痛かった。着ている服もぼろぼろになってしまったが、それ以上に体がぼろぼろだった。鬼へびを倒したあとの事の展開があまりにも急すぎて気が張っていたが、気づいてみればこうして玉座に座っているのもつらいほどであった。

 「少し…休みたい。」武雲がそう言うと、男はみんなを促して正殿から退いた。

 みんなが退くと、鷹勢が玉座の前の間と正殿の回廊との境にある障子を閉めてくれた。武雲は床に、前のめりに倒れ込むようにして横になった。床板の冷たい感触が心地良かった。武雲の体の中に溜まっている疲れて淀んだ気を、板が吸い取ってくれるようであった。武雲は寝返りをして、宮の天井を見つめた。宮の高い天井を見つめながら母のことを思った。何も覚えていない母のことを。話にしか聞いたことのない母のことを。そして父について考えた。

(父親は誰だったのだろうか。もしやまだ生きているのだろうか?………疲れた……鹿渡に帰ろう。鹿渡で奇志室や、鷹勢や逆登実、そして村のみんなと一緒に、また昔のように暮らそう。そう、ずっと昔の頃のように。)

 天威神槌を手に入れるために鹿渡を旅立ったのはまだ一年余り前のことでしかなかったが、武雲には随分と昔のように感じられた。そんなことを考えながら、武雲は深い眠りの中へと落ちていった。まだ昼前だというのに、深い深い眠りの中へ落ちていった。

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