十四
視界の先には大きな宮がはっきりと見てとれた。宮京は前に来た時と何も変わっていなかった。
「この辺りに潜んで、鬼へびの現れるのを待つとしよう。」鷹勢が言った
「潜む?宮京には入らないのか?」武雲が聞き返す。
「宮京で野宿はできぬ。臆病で用心深い大王だ。どこの誰とも知れぬ者が宮京に野宿をしながら居着いていると知れば、捕らえられて、悪ければそのまま打ち首だ。」
「ふぅーぬ……」武雲はやれやれといった顔をした。
「さて、明るい内に夕餉を済ませよう。暗くなってからでは火は使えぬぞ。誰ぞが近くで野営をしていると、大王の衛兵に教えるようなものだからな。」
「……」
「それから、いつ何時、野犬などに襲われてもいいように、寝ている間も気を張っておけ。火は、使えぬのだからな。」鷹勢は少し楽しそうに言った。
武雲は今朝も早くから目が覚めてしまった。空はまだ仄暗い。樹上を寝床にしたのでは、どうしても眠りが浅くなる。火が使えないのであれば、野犬や狼から身を守るためには仕方がないが、どうも気が落ち着かない。別の枝の上で寝ている鷹勢に目をやると、鷹勢はまだ気持ちよさそうに眠っている。武雲は空が明るくなるまでとまた目を閉じたものの、頭は冴えたままだ。武雲は深く息を吸い、そして大きく長く息を吐いた。
「ずっずぅーーん」
武雲がどうにか再びまどろみかけた時、振動とともに大きな音がした。武雲と鷹勢は枝の上と上とで目を見合わせた。 「ずっずぅーーん………ずっずぅーーん………」
二人とも枝から飛び降りた。鬼へびだ。現れた。宮京の西側、武雲たちから見て宮京の左手に鬼へびがいた。前に見た時と同じ姿がそこにあった。鬼へびは宮京近くに散在する家やその周りの小さい木を尻尾で薙ぎ倒し、足で踏み倒しながらだんだんと宮京に迫っている。
武雲は手に持っていた天威神槌を背負い、木に繋いであった馬の手綱を解いてさっと馬に跨った。前に鬼へびに突進していった時とは違い、心は静かに落ち着いていた。
「行くか。」鷹勢が言った。
「行く。」
武雲は手綱をぐっと握ると、馬の腹を両足で一蹴りして鬼へびに向かっていった。鷹勢は武雲の背を見て涼やかに笑みを浮かべ、そして武雲に続いた。
宮京は騒然としていた。しかし人々に慌てふためいた様子はない。急いではいるが惑うことなく、逃げている。宮の様子も同じであった。宮の外にはすでに弩が据えられ、大矢がつがえられている。武雲が前に見た時よりも大きな弩であった。弩の後には次の大矢を持って待っている者と弩を引き絞るための手勢。その後に長く頑丈そうな槍を持った武者たち、馬に跨って剣を抜き放ち号令をかける時機を計っている武官たちが整然と鬼へびを待ち構えていた。
「武雲ーっ、まずは人々が逃げるのを待たねばならん!」鷹勢が叫んだ。
武雲はすでに天威神槌を抜いて、右手に高く掲げていた。
宮からは民を守るための兵は出てこない。大王の近衛軍は大王を守ることしか頭になかったし、大王も自分自身を守ることしか考えていなかった。人々がいる中で天威神槌を振るっては、多くの人が巻き添えになってしまう。
「どうすればいいーっ!」武雲が叫び返した。
「人々がなるべく遠くへ逃げるよう、導こう!」
「わかったー!」
二人は鬼へびを追い越して、馬首を返す。かき曇った空には黒雲が湧き出てきた。
「楠岡の東の麓まで逃れよーっ!!」鷹勢が抜いた剣で指し示しながら叫ぶ。
「東へーっ!東の麓へーっ!」同じようにして武雲も呼びかけた。
遠くに雷鳴が聞こえる。人々がざわつき出す。
「楠岡の東の麓へーっ!」
雷鳴が近づき、黒雲が空を覆う。人々はそれを鬼へびのせいだと感じ、恐怖に捕らわれた。今まで粛々と逃げていた人々が、落ち着きを失い騒ぎ出した。平然としているように見えても、心の奥には不安が巣くっている。その不安を突然の雷が呼び覚ました。足が竦んで動けなくなる者、慌ててしまって転ぶ者、それらの人に蹴躓いてさらにまた転んでしまう者。
「落ち着けーっ!。落ち着いて東の麓へ逃げよーっ!!」鷹勢が大声で叫んでも、誰の耳にもその声は届いていない。
「だめだ武雲ーっ、みんな雷を怖れて我を失っているーっ!天威神槌をいったん鞘に納めてくれーっ!」
武雲は天威神槌を鞘に納めた。見る見るうちに空は晴れ渡っていった。
「東だ。東へ逃げろ、東の麓に向かえ。」二人は馬を走らせながら、逃げ惑っている人々に向かって叫んでいた。そして逃げ遅れた年寄り子供や、へたり込んでしまっている人を抱えては力のありそうな男にその者たちを預け、またとって返しては人々を誘導し、救い出した。
「みんなーっ!ここでなるべく身を伏せていてくれーっ!」楠岡の東に麓で、鷹勢が人々に言った。
「あんたたちは誰だ、何をしようとしてるんだ?。」逃げて集まっていた人々の中の一人が訊いた。
「これから鬼へびを討ち倒す。」鷹勢が何でもないことのように言った。「だからここで、身を伏せていてくれ。」
人々は初めその意味がうまく飲み込めなかった。
「そんな無理なことを………。」少しの間のあと、誰かが小さな声で言った。
「そりゃあ無理だ。」
「命の無駄だぁ。」
「やめといた方がいい。」
誰も武雲たちに期待をかけなかった。武雲はその声を聴きながら、馬の首を鬼へびの方に向けた。
「はぁーっ!」と掛け声高く馬の腹をけり、一閃鬼へびに向かって疾駆していった。
「放てーっ!」
武将の号令の元、弩から大矢が放たれた。大矢が鬼へびの胸や腹に刺さる。鬼へびは一旦足を止め、突き刺さった大矢を払い落として何もなかったかのようにまた宮に向かって進み出した。
「放てーっ!」
武将は声をからして二の矢の指示をする。鬼へびは同じように一旦は足を止めるが、すぐに宮に向かって来る。三の矢、四の矢と放たれた。鬼へびは宮へと迫ってくる。
「退けーっ、出立だーっ。退けーっ!」武将が叫んだ。
武将を先頭に武者たちは一斉に退却した。鬼へびが一旋させた尻尾が取り残された弩を打ち壊す。退却していた武者の何人かが、壊され飛ばされてきた弩に潰されてしまった。
正殿の内で大王は、
鬼へびがもう一度尻尾を振った。残りの弩が、弾き飛ばされる。馬上の大王が大宮へ向かうことを宣しようとしたその時、空が急にかき曇り雷鳴が轟きだした。
「うおおおおーっ!」
馬上で抜き放たれた天威神槌を頭上高くかざした武雲が、雄叫びを上げて鬼へびに向かっていく。空は真っ黒な雲に覆われ、稲妻が走り雷鳴が響く。
「うおおおおーっ!」
武雲はもう一度雄叫びを上げた。鐙の上に仁王立ちになって剣を大上段に構える。雷雲から稲妻が走り降り、天威神槌の切っ先に落ちてきた。武雲はそのまま満身の力を込め、鬼へび向けて天威神槌を振り下ろした。剣から飛び出た雷電は鬼へびがちょうど振り終わったところの尻尾の付け根あたりにあたった。
「うんぐあわあああーっ!」
鬼へびは、この世の者とは思われない叫び声をあげて身をよじると、動きを止めた。武雲はそのまま鬼へびの足下を走り抜け鬼へびの前に回る。鬼へびはめったやたらに尻尾を振り回した。宮の外壁が打ち飛ばされる。その荒れ狂う鬼へびに、武雲は今度は正面から向かっていった。同じように力一杯天威神槌を振り下ろすと、雷刃は今度は鬼へびの右足を斬りつけた。
「ぐがうわあああーっ!」
またも鬼へびは叫び声をあげた。そして今度は動きを止めず、自分の背後に走り抜けていった武雲を狙って尻尾を打ち振るってきた。右に振り向きざま、武雲の目がその尻尾の一旋をとらえた次の瞬間、武雲は空中高く打ち飛ばされてしまった。
「どさっ」と音を立てて武雲は地面に落ちた。受け身も取れなかった武雲だが、天威神槌だけは離さなかった。鬼へびは武雲の方に向きを変えた。武雲は重くなった体を何とか立ち上がらせようとしていたが、そこに鬼へびが迫ってくる。
「んがぁあああ!」
鬼へびが足を止め、顔を振り返らせた。鬼へびの尻尾に飛び乗った鷹勢が、武雲が切り裂いた傷の上から、両方の手で逆手に持った剣を突き刺していた。
武雲はようやく立ち上がる。鬼へびは狂ったように尻尾を振り回し、鷹勢は振り飛ばされてしまった。鬼へびは、地面に転がされ起きあがろうとしている鷹勢を睨みつけ、鷹勢を踏みつぶそうとその右足を挙げようとした。その瞬間。稲妻が空を二つに裂いて走り降り雷鳴が轟く。稲妻と大地との接するところに天威神槌を頭上高く構えた武雲がいた。武雲は天威神槌を鬼へびに振り下ろした。雷電は鬼へびの左足を捕らえた。
「ぐうおわああああー!」
鬼へびは大声で叫び、挙げかけた右足を元に戻す。鬼へびはぶぅおんと尻尾をまるまる一回転させた。二人とも地に伏して、間一髪のところで鬼へびの尻尾をよける。すぐさま立ち上がり、一旦、鬼へびの尻尾の届かないところまで全力で走った。
「大丈夫か、武雲。」
「どうにか。鷹勢は?」
「大したことはない。尻尾から振り落とされただけだからな。」
「俺の方も、尻尾の直撃を受けたのは乗っていた馬だったから。」
「武雲、剣に雷の力を目一杯ためてから斬りつけて見ろ。」
「わかった。鷹勢、離れておけ。」
武雲は高々と天威神槌を掲げた。轟音とともに、雷光が渦を巻くようにして落ちてくる。武雲はそのまま天威神槌を構え続けた。雷光はその太さを増し、途切れることなく天威神槌に流れ込んでくる。
「ぐぁごおおおーーっ!」
武雲たちの姿を追って進んできた鬼へびが吼えた。武雲を狙って尻尾を振ろうと体を少しだけ捩る。
「ううぉおおおーーっ!」
武雲も雄叫びをあげた。渾身の力を込めて天威神槌を振り下ろす。
天威神槌からほとばしり出る雷電が、振られてきた鬼へびの尻尾を捉えた。鬼へびの尻尾が根元近くから切り絶たれた。切り離された尻尾は、振られた勢いのまま宮まで飛んでいき、正門や外壁を散々に打ち壊した。
「ぎゃががががああ!」
鬼へびは今までで一番苦しそうな叫び声をあげながら身悶えして苦しんでいる。
「もう一度だ、武雲。」
「うむ。」
「鬼へびに尻尾はもうない。近づいて心の臓を狙え。」
武雲はもう一度天威神槌を頭上高く構えた。雷光が走る。天威神槌の切っ先と黒雲とが雷電によって繋がる。天威神槌の切っ先が次第に眩く輝いてきた。輝きは剣を伝ってどんどんと大きくなり、天威神槌全体を包みこむ。そして武雲の伸ばした両腕までもが輝きだした。
「うぅるぅうわあああああーっ!」
ついに武雲の体全体が輝きを放つ。武雲は雄叫びを止めることなく、天威神槌剣を高く構えたまま鬼へびに向かって大きく一歩を踏み出し、残っている力のすべてを込めて天威神槌を振り下ろした。天威神槌から雷電がほとばしり出た。それは銀色の龍にも見えた。その龍が苦しみもだえている鬼へびの胸を貫く。
「ぐがががががががああーっ!」
鬼へびの断末魔であった。鬼へびはもんどり打って倒れた。武雲は片膝をついて肩で息をしながら倒れた鬼へびを見ていた。
「やったな。」走り寄ってきた鷹勢が武雲の肩を叩いて言った。
武雲は肩で息をしたまま、返事をすることができなかった。
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