十六

 広耜ひろすきは一人荒れ野を歩いていた。どこへと向かうわけでもない。ただ次の一歩が踏み出された方へとその一歩分進み、そしてまた次の一歩が踏み出され、その一歩の方向にまた一歩分進むことの繰り返しである。供回りの者はもう誰もいなくなった。宮を出る時に付き従ってきた側近達は、宮京を落ちてから暫くは轡を並べていたが、そのうちに誰も彼も、何も言わずに離れていった。鬼へびから逃れて宮京を出ても、鬼へびがいなくなればまた広耜は玉座に戻る。しかし大王の位を追い落とされた広耜には、もはや従っている意味などない。乗っていた馬は森を抜けると急に、何に怯えたのか竿立ちとなり、広耜を振り落としてそのままどこかへ走り去ってしまった。それからは、広耜はただ一人歩いていた。気がつけば荒れ野であった。

「荒れ野…か……」

 空は暗く重苦しく曇っている。空気は澱み、薄いもやが視界全体を覆っていた。広耜は歩き続けた。意思を持ってそうしているのではない。しかし足を止めることができないのだ。よろけながら、躓きながら、ただ次の一歩が、そしてまた次の一歩が前に出てしまう。止められない歩みの中で広耜は、神託を受けた時のことを思い出していた。

 この国の大王は、即位に際して神託を受ける習わしであった。即位の儀式がすべて済み、正式に大王となって最初に迎える払暁に、神卜によって選ばれたいつきの巫女ととも神所に籠もり、神託を受けるのである。その神託が広耜の苦しみの元であった。神託は大王本人しか聞くことができず、他の者に一切話してはいけないというしきたりであった。そして神懸かりして神託を告げた斎の巫女は、正気に返った時には何も覚えてはいない。しかしほとんどの大王の場合、即位の際の神託は当たり障りのないものであったに違いない。「人民を慈しめ」とか、「天神地祇を篤く祀れ」とか、その程度のことであったろう。まさかあのような神託を受けようとは思いも寄らなかった。

 今でもはっきりと耳に残っている。神懸かりした巫女が告げた言葉。少女の声とは思えぬような恐ろしい響きで語られた言葉。

『そなたは大王の座を追われる 新しい大王が人々の歓喜に祝福される そなたは一人荒れ野をさまよい そなたの滅ぼした者たちとともに 滅び 朽ち果てる。』


 即位してからの広耜は、残虐非道であった。末の王子であった広耜は、兄二人が存命であった時には大王の位になど関心はなかった。二人の兄が相次いで不慮の死を遂げてしまったために、転がり込んできた玉座である。しかしながら、そもそも大王の位に登ることのできる生まれにありながら、その地位にまるで関心のない人間など在り得ようか。兄二人があまりにも優れていたがため、広耜ははなからそれを諦めていただけである。自分でも気付かぬうちに、玉座を望むことを避けていただけのことである。思わず手の内に転がり込んできたこの位に、しかもやがては失われると神より告げられたこの玉座に、広耜は強い執着を抱いた。玉座を追われるとはつまり、殺されるということであろう。そうならないことを望まない者などあろう筈がない。

 広耜が即位した時にはすでに、近親のものはいなかった。母は広耜が幼い時に亡くなっていた。しかしかつては叔父や従兄弟が何人もいた。広耜はこの王や王子たちを、次々と、悉く亡ぼしていった。大王の位の継承を認められている他の王家にも、何人もの王たちが存在していたが、広耜はこの王たちもすべて亡ぼした。誰もが神託のいう『新しき王』に見えたのである。誰もが自分に取って代わって大王の位に即こうとしているように思えたのである。

 大きな力を持っていた叔父王には、謀をもって謀反の罪を着せ、一族もろともに攻め滅ぼした。その館を夜半に大軍勢で取り囲み、問い糾すこともせず館に火をかけたのである。

 人望の厚かった従兄弟の一人は、政について内密に相談があるといって宮に呼び出し、人目につかない所で自ら刺し殺した。他の王家のある有力者は、その家の下働きの者を買収し、毒を盛って殺害した。こうしてありとあらゆる方法を用いて、広耜は大王の位に即く資格を持つ者を次々に亡ぼしていったのである。

 自分の犯した殺戮が引き起こした自分への憎しみに怯え、その憎しみが自分を亡ぼす前に次の殺戮に手を染めていった。自分の犯した殺戮がさらに大きな権力を自分に与え、誰もがその権力を狙っているように思えて、さらに殺戮を繰り返していった。暗黒へと続く螺旋の坂を、広耜は転げ落ちていったのである。そして大王家の血を受け継ぐ者は、広耜以外にはいなくなった。

 力ある氏族たちはみな、大王のそばから離れていった。いつ大王の刃が自分に向くか知れない。自分の本領に引き籠もって守りを固め、息を潜めた。しかし広耜の気持ちは安まることなどなかった。いつか民衆の中から蜂起する者が出て、自分を追放し新しい王朝を建てるのではないかと怖れたからである。海の向こうの国では実際に、そうやって王朝が交代したことがあるのを広耜は知っていた。それ故に民衆さえも怖れたのである。自分に対して不満を抱く者があれば、それがどんな身分の者であろうとも、それがどんな些細なことであろうとも、捕らえ、そして殺した。厳しい弾圧によって、さらに民衆の中に広耜への憎悪が深まっていった。そしてそのことが広耜にさらなる疑念を抱かせ、ますます厳しい弾圧を加えていった。螺旋の坂を転げ落ちる広耜は、その速さを増すばかりであった。


 広耜が大王に即位してから三年ののち、大后おおきさきが王子を産んだ。

 大后は名を玉代たましろという。広耜は立太子に先立って玉代を后を迎えていた。広耜が玉代を后としたのは、次の大后となるのはこの媛と既に決められていたからである。本来は長兄の后となるはずであった。そして長兄に続いて次兄も亡くならなければ、次兄の后となっていたはずであった。長兄の喪があけるとすぐに、次兄の立太子の儀が執り行われ、この媛は後の大后―つまりは次兄の后として、次兄の横に座してその儀式に臨んだのであった。大后には国の祭祀を司る役目があった。だから誰でもが大后となれるわけではない。血筋、容姿、声などといった祭祀者としての資質、そして何よりもその存在自体から発せられる気、存在そのものが放つ力。そういうものを併せ持つ乙女のみが、大后となれるのである。いわば広耜は玉代を后とさせられたのである。日継御子ひつぎのみこの位にあるものが二人相次いで亡くなったので、媛の神聖なる威力によってその厄を追い払い、新たな日継御子を守ってもらうために、広耜の立太子の儀に先立って婚儀が執り行われたのであった。婚姻の儀において初めて、広耜は玉代を目にした。自分の意志で后に選んだわけではないが、広耜は玉代を后とすることに何の異存もなかった。玉代を后とできることを嬉しく思った。広耜は玉代を初めて見た瞬間に、深く深く魅入られてしまったのである。それほどまでに美しい媛であった。神々しいまでの容姿が、大后の地位を玉代に与えたのであった。

 玉座と同じように、思いがけず手に入れたこの美しい大后に対しても、広耜は強い執着を持った。ましてやそれを失うと告げられているのであるから、思いは強まるばかりであった。


「お生まれになりました。」大后に仕える女官が小走りに正殿の回廊まで来ると、膝をつき額ずいて告げた。「お生まれになりました。男子王子おのこみこ様にございます。」

 正殿の中や回廊から朱雀の姿を見やっていた一同から静かな歓声がおこる。しかし大王は声を発することなく、朱雀を追っていた怯えるような目を、歓声を上げた群臣たちに向けた。

「大王。王子さまのご誕生、誠におめでとうございます。」

「おめでとうございます。」

「……」


「おぉ、見ろ、見てみろ。鳥が…見たこともない美しい鳥が宮の上を…」市井の人々は、宮の上を見上げて騒ぎ出した。

「おぉー。本当に。今までに見たこともない鳥だ。」

「燃える火のように赤いな。」

「それに大きい。」

「尾が長い。」

「何という鳥だろう。」

「わからん。」

「知らぬな。」

「おばば、あれは何という鳥だ?」

「うぅーん。」宮京で一番の長老であるおばばが、曲がった腰を精一杯伸ばして空を見上げながら唸った。「あれは朱雀だろうて。」

「朱雀?」

「そうじゃ、朱雀じゃ。火のように赤い…あれは朱雀じゃよ。」

「朱雀っていうのか、あの鳥は。」

「その朱雀って鳥はよぉ、おばば。どういった鳥なんだい?」

「福を呼ぶという瑞鳥じゃ。」

「福を呼ぶのか。珍しい鳥なのか?」

「あぁあ、当たり前だ。福なんぞ、そうそう来るもんじゃあね。めったにゃぁ見られねっ。」

「おばばは前に見たことがあるのか?」

「儂がまだわらしだった頃に、儂のおばばが話しておった。火のように赤い朱雀という鳥がおって、一度見たことがあるとな。」

「そん時は、どんないいことがあったんだ?」

「うん、うーーん……聞いたような気もするが…忘れた。」


「大王。王子のご誕生、まことにおめでとうございます。」

「おめでとうございます。」

「……」

「しかも王子のお生まれになるその時に、朱雀が現れるとは。」

「まったく持ってめでたいことです。」

「……」

「王子のご誕生を寿ぎ、朱雀も姿を現したのでしょう。」

「まさに『瑞鳥朱雀』。」

「まさしくまさしく。」

「後継ぎの王子がお生まれになって、これで大王の世も益々ご安泰です。」

「まことにおめでたいことだ。」

 群臣たちが祝いの言葉を口々にのべるのを聞きながら、しかし大王は何一つ喜んではいなかった。

(何が世継ぎだ。そんなもののどこがめでたいというのだ。世継ぎなどいたところで、俺の心の黒いしみが消えて無くなるわけではない。)

 大王は宮京の空を舞い飛ぶ朱雀を眺めながら思っていた。やがて空に猛々しい雲が湧き上がり、朱雀はその雲の中に消えていった。王子は『武雲』と名付けられた。


「そん時は、どんないいことがあったんだ?」

「うん、うーーん……聞いたような気もするが…忘れた。」

 そんなこんなで大騒ぎをしていると、宮から早馬が何頭も駆け出て行った。

「おおっと。これはどうしたことだ?」

「何事かあったか。」

「また王族の誰ぞが殺されたのか?」

「馬鹿っ、そんなでかい声で。」

「しまった。つい………」

 人々は波が引くようにさぁっといなくなった。


 市井の人々が王子の生まれたことを知ったのは、それから何日かあとになってからであった。宮に貢ぎ物の運び込まれるのが引きも切らないので、忙しそうに宮に出入りしている舎人たちの中の一人に恐る恐る尋ねてみて、ようやくその訳を知ったのであった。

「大王に王子がお生まれになったてよ。」

「ほぇー。」

「あの大王のことだから、」辺りを見回しながら声を顰め、身を屈めながら言うものがあった。「自分の子と謂えど、あやめてしまいかねないぞ。」

「うんむ。無いとはいえないな。」

「さてさて、この先どうなることやら。」

「俺っちにしてみりゃぁ、どうでも関係ねえよ。」

「まあそうだな。俺たちはただただ、鬼へびが出ないように願うだけだ。」

「まったくよ、いつになったら『選ばれし者』とやらが鬼へびを倒してくれるんだか。」

「本当によ、早いとこ倒してもらいたいもんだ。」


 一日と空けることなく、次々とやってくる群臣たちの祝いの言葉に、大王はうんざりしていた。

(めでたくもなんともないわ。世継ぎ、世継ぎとばかばかしい。世継ぎを寿いで何になる。武雲が世継ぎでいられるのもいつまでかわからぬというのに。こやつが間違いなく大王の位を継げるというのであるならば、俺はどんなに清々しい気持ちになれることか。ああ鬱陶しい。いっそ明日にでも大王になってくれ。)

 その時大王の中で何かが弾けた。

(いや待てよ……。いや…待て…。こやつを…武雲を大王にしてしまえばどうなる。さっさと大王にしてしまえば…)「そうすれば俺はこの苦しみから、あの神託から逃れられるではないか。そうなれば…。武雲に大王の位を譲ってしまえばいいのだ。自ら位を退けばいいのだ。そして我が息子武雲の後見として、幼い大王の後ろ盾として、宮の奥にでも住まって今までどおり何一つ変わりなくいられよう。そうだ、そうすればいい。これはめでたい、まさしくめでたい。瑞鳥朱雀か。よくぞ我が手に武雲を授けてくれた。めでたい。何とめでたいことだ。」

 それまでは武雲に対する一片の愛情さえ感じなかった大王であったが、それからも武雲に愛情を持つことはなかった大王ではあったが、その日から朱雀の王子武雲は、大王の心の闇のたった一筋の光となった。武雲の存在だけが、大王の救いであった。しかしそれでも(あるいは“であるから”)、大王はあの神託を告げられた時のことをよく夢に見て、うなされて目を覚ましてしまうのだった。


「今年も新嘗が終わった。武雲が生まれて丸一年。新しい年を迎えれば武雲は三歳みとせになる。」大王は王子の成長が待たれてならない。「早く十歳ととせにならぬものか。」待ち遠しくて仕方がない。

(武雲が十歳になったら大王の位を譲り、そして俺は解放されるのだ。あの呪縛から自由になるのだ。)

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