九

「大丈夫か、鷹勢?」空が白んで来て、はっきりと見えるようになってきた鷹勢の顔の傷を覗き込みながら、武雲が訊いた。

 鷹勢は口の中で何かを噛みながら、横目で武雲を見た。

「うむ、心配ない。血止めを塗り込んだし、目は傷ついていない。膿み止めの薬草を噛んでいるしな。」

「うまいのか?」

「いや、まずい。………すごく。」

 鷹勢は本当にまずそうな顔をした。それを見た武雲はくすっと笑った。

 息を引き取った宮司を社殿の裏手に埋葬した後、まだまだ夜明けには間があったが早々に社を後にしたのである。

「この社には宮司殿の一族の思念が残されていて、何か禍い事がおきるかも知れぬ。」

 鷹勢はそう言って、急ぎ立ち去ることにしたのであった。

 有明の月となりそうな、真冬の澄んだ満月間近の月明かりを頼りに、ゆっくりと馬を西に進めていた。二人とも口を閉ざして、ただ馬上に体を揺らしていた。腹の底にずんと重石おもしを飲み込んだかのような、沈み込んだ気分であった。とりわけ鷹勢の気分は重かった。多少なりとも心を傾けた相手を、自らの手であやめてしまったも同然である。なぜ宮司を救えなかったのかと、そればかりが胸によぎるのだ。そこまでは顔には出さないが、自分自身を苛む気持ちでいっぱいになるのである。そんな重苦しい空気を追い払おうとして、空が白んで来たところで武雲が口を開いたのであった。それからは少し空気が軽くなった。心なしか馬の足も速くなったようである。

「鷹勢。」武雲が真っ直ぐ前を見ながら言った。

「ん。」

「ひとつ訊きたいんだけど。」

 武雲は鷹勢の横顔を見た。その目はいつもどおりの鷹勢の目で、涼しげで真摯でそして強い意志が感じられた。しかし、哀しく厳しい影は色褪せてはいたが、完全に消えてしまったわけではなかった。

「何だ?」

「宮司殿が言っていた。俺は『希人』だと。………『希人』って何だ?」

「うむ。………宿禰殿もな、おまえは『希人』であると言っていた。『希人』とはな、まあ普通とは違う人というような意味らしい。だからな、宿禰殿はおまえが選ばれし者であるかも知れぬと考え、すべてではないといえ、秘伝をお示しくださったのだ。」

「ふぅーーん。」

 空に赤光が映える。朝焼けを背にして二人は、冷気の中、背筋を伸ばしきりっとした気持ちで馬を進めていった。日の出を向かえ、辺りの明るさが次第に増してくると、朝靄の中、遠くに大きな鳥居が見えた。

「『西の大社』だ。」武雲が言った。

「うむ。」

 二人は馬の足を速歩はやあしにして鳥居の元へと向かった。


 鳥居の前まで来た。大きく立派な鳥居である。二人は馬を降り、その鳥居を見上げた。

「間違いなく、大社だ。」が武雲がきびきびとした口調で言った。

「まさしくな。」鷹勢が応えた。

 馬の手綱を引きながら鳥居をくぐって参道を奥へと進んでいった。向こうに二の鳥居が見える。参道には石畳が敷き詰められ、両脇は大きな老杉の木立となっていた。まだ日が低く光が射しきらない中、朝靄にかすんで立つ老杉は幽玄の趣を醸し出していて、いかにも神域といった雰囲気である。長い参道であったが、一の鳥居をくぐってからは二人とも口をきかなかった。常ならぬ神聖な空気が、二人を押し黙らせていた。

 二の鳥居から先は石段になっていた。五―六十段はあるだろうか。石段の上に三の鳥居が見える。二の鳥居の前で二人は馬を木に繋ぎ、鳥居をくぐって石段を登っていった。両脇に、もう杉木立はない。石段と同じ急な斜面に低木や草が生い茂っているばかりである。石段を登りきると、三の鳥居の先は白玉石が敷き詰められていた。そしてその奥に大きな社殿があった。途轍もなく大きな社殿である。朝日を正面から受けて、荘厳な佇まいを武雲たちに見せていた。

「まさしく、天下一の大きさだ。」武雲が感嘆の声をあげた。

 鷹勢は何度も頷いた。高さ三十尋はあろうかという社殿の上に、さらに外削そとそぎに切られた千木ちぎが長く聳えている。檜皮ひわだで葺かれた屋根の勾配は急で、まるでそそり立つようにして合わさり、見る人を天上へと導くかのようである。その屋根の上に八本の堅魚木かつおぎが整然と並ぶ。社殿全体は太い十六本の柱に支えられている。柱の太さは半尋もあろうか。柱と柱の間はおよそ二尋、社殿全体の横幅はざっと四十尋ほどである。中央の柱四本分の幅に渡って小さい屋根が前に二尋ほど突き出していて、同じ太さの柱四本で支えられている。小さいとは言っても普通の家よりよっぽど大きい。大屋根と同じ形をしているその屋根には、大屋根と同じように千木があり、四本の柱に渡って大注連縄が掛けられている。注連縄の太さは、一番太いところでは柱と同じくらいあり、重さにしたらどれだけになるのか見当もつかない。社殿の両側からは屋根のついた、高さ二尋ほどの板垣が真横に六十尋ほど延び、そこから直角に折れて、そのまま真後ろの神体山にまで及んでいる。板垣の内側の結界は、まるでその上空の空気まで濃密さが違っているように感じられた。二人は口と目とを、同じように大きく開いたまま社殿を見上げている。

「ご参拝ですか。」

 横から声を掛けられた。社殿のあまりの大きさに我を忘れて見入っていた二人は、はっと我に返って声の方に顔を向けた。

「初めての方は皆、我を忘れてこの場で佇みます。」にこにこと微笑みをたたえながら、その若い神職は言った。鷹勢より少し歳が下であろうか。

「まったく、圧倒されました。」鷹勢が応えた。

「ご参拝ならば、どうぞ拝殿の前までお進み下さい。」

「はぁ。」

「これが拝殿……」武雲が呟いた。

「はい……、みなさんそう言って驚かれます。」神職はまた微笑みながらそう言った。

「ということは、奥にご本殿があるのですよね………」武雲が言った。「でも、ご本殿の姿が見えませんが……」(拝殿でこの大きさならば、本殿はいったいどれくらい大きいというのだろう。でもそれにしては本殿の姿が見えない………。もしかしたら本殿は拝殿に比べて小さいのだろうか。)

「本殿はございません。」神職が言った。相変わらずの微笑みである。

「はっ?」

「我が社には、本殿はございません。」

「はぁ……」

「さぁ、どうぞご参拝下さい。」

 二人はいまいち得心のいかぬまま、拝殿の前へと進んで行き、大注連縄の下まで行って参拝を済ませた。大注連縄も柱も、近くで見るとますます迫力があった。よく見ると大注連縄のかかっている柱の真ん中の二本は、はかの柱よりもひとまわり太い。そして何よりも、ほぼ真下から見上げる大屋根は、屋根の勾配のせいで遠目で見るよりももっと高く聳えて見えた。参拝を済ませてから鷹勢は、一緒に拝殿の前まで来てくれていた神職の方に向き直った。

「我らは天威神槌と呼ばれる、神威を宿した剣を探し求めて旅を続けている者です。こちらの社に、その剣について何か伝わっていないものかと思い尋ねて参りました。」

「ほおぉ、そうでございますか。」

「こちらの宮司殿にお会いしたいのですが。」

「はぁ……、ではお取り次ぎをいたしましょう。どうぞこちらへ。」

 そう言うとその若い神職は、すぐに端の方にある神職寮しんしきりょうに向かって歩き出した。

「本殿がないなんて変わっているな。」若い神職に付き従って二人で並んで歩きながら、武雲が小さな声で言った。「こんなに大きな社なのに。」

「うむ。」鷹勢も小さな声で応えた。

 神職寮ではそのまま広間まで通された。

(なんだか不用心だなぁ。こんな大きな社なのに。)武雲は思った。

 今まで尋ねた社では、まず神職寮の前で一度待たされて、そこで代わる代わる出てくる何人かの神職に尋ねて来たわけを繰り返し話してからようやく、広間に通してもらって宮司と会うことができるというのが常であった。時には宮司が会ってくれないこともあった。こんなに簡単に宮司と会えるのは初めてだった。鷹勢も少し厳しい表情をしている。

 やがて奥から足音が聞こえてきた。鷹勢は自分の左に置いた剣に一度触れて、その位置を確かめた。昨日のことがあるので気を張っているのである。

 足音はどんどん近くなり、広間の障子戸の前で止まった。武雲も気が張りつめた。

「失礼っ。」

 障子戸を開けて姿を現したのは壮年の神職であった。戸を開けるなりその神職は、武雲たち二人にさっと目をやった。視線は一瞬武雲に留まり、それから広間の中に入ってきてすっと腰を下ろした。落ち着いた物腰であった。

「私がこの社の宮司にございます。」野太い声で宮司がいった。

 落ち着いた物腰ではあるが、手はごつごつと大きく、顔は陽に焼けているのか浅黒く、見るからに逞しい感じがした。およそ神職らしからぬ風態である。

「私は檜垣鷹勢。これは武雲と申します。天威神槌と呼ばれる神剣を求めて旅をしております。こちらの社にその剣のことが何か伝わってはいないかと尋ねて参りました。」

「はい。息子から聞きました。」

「その神剣について何かご存じのことはございませんでしょうか。」

「残念ですが、我が社にそのような伝承はございません。私自身もそのような剣については何も聞いたことがありません。」

「で、ありますか。………」

「………もう随分と長いこと旅をしているようですな。」

「旅立ったのは、まだ夏が盛りを迎える前でした。」

「ではもう半年以上も旅をしておられるのか。…どちらから参られたのですか。」

「遙か東の村からです。」

「さぞやご苦労も多かったことでしょう。」

「はい。」鷹勢の答えには謙遜も高慢さもなく、真っ直ぐで澱みなかった。

「ここに来るまでに、随分と困難な目にお遭いしてきたようですが、」宮司は鷹勢の顔の生々しい傷に一瞬視線を落として言った。「まぁ少し気を楽にしてください。」宮司は気を張りつめている二人の様子を察してか、穏やかな口調であった。「と言っても、すぐには信用できないでしょうが。」

 宮司の目が微かに微笑んだ。その目はとても穏やかで、二人はなぜだか気が安らんだ。

「失礼します。」

 広間の外で声がして、障子戸を開け、初めに会った若い神職が盆を持って入ってきた。

「こんなものしかございませんが。」そう言いながら若い神職は、つぶした木の実を練り込んだ団子と白湯を二人に差し出した。

「有り難うございます。」

「私の息子です。名を那祁邇なぎにといいます。あ、申し遅れました。私は那璃千なりちと申します。」

 団子を見て、武雲の腹がぐぅっと鳴った。朝食をとっていないので、とても腹が減っていた。

「どうぞ、召し上がってください。」那璃千が笑いながら優しく言った。

「では遠慮なくいただきます。」

「いただきますっ。」

 武雲は団子を丸ごと口に入れ食べてしまった。

「これはこれは、団子よりも握り飯の方がよかったですね。」そう言うと那祁邇は広間を出ていった。

「空腹の上に随分とお疲れでもあるようですが。」那璃千が言った。

 二人とも昨夜の件でほとんど寝ていない。そして身も心も疲れ切っていた。

「はい、少々。」

「こちらで少しお休みになるとよい。どうか私らを信じてもらってな。」那璃千は笑みをたたえながら言った。

「はい。お言葉に甘えさせていただきます。」

 那祁千が特大の握り飯を2つ、盆にのせて、再び広間に入ってきた。

「さあさあ握り飯で腹を満たして、それから少しお休みなさい。」那璃千はそう言って、息子ともども広間を出ていった。

「ここは大丈夫みたいだな。」武雲が握り飯に手を伸ばしながら言った。

「ああ、那璃千殿の顔を見ているとなぜだか心が和む。」そう言って鷹勢も、握り飯に手を伸ばした。


 どれくらい眠ったろうか。武雲が目を開けると、壁に寄り掛かった姿勢まま、鷹勢も目を開けていた。握り飯を食べ終わった後、武雲は「うぅーんん」と伸びをして広間の床にごろんと横になり、次の瞬間には寝入ってしまったのである。

「鷹勢、眠らなかったのか。」武雲が訊いた。

「いや、よく眠った。久しぶりに。おまえが目覚める気配で、俺も目が覚めた。」

 鷹勢は一応用心をして、壁に寄り掛かったままの姿勢で眠ったのであった。

「もう朝なのかな。」武雲がまだ眠りたそうに言った。

 今はどれくらいの時分であろうか。朝早くにこの大社を尋ねて、那璃千殿とお会いして、握り飯をいただいてから、倒れるように寝入ってしまった。武雲は広間の障子をそぉっと開け、外の様子を窺ってみた。外は薄暗かった。夕暮れかあるいは夜明けか。どちらかである。

「たぶん、夜が明ける頃だ。」夕暮れにしてはあたりがしぃーんと静まりかえっているので、武雲はそう思った。「って言うことは、ほとんど丸一日眠ってたってことだな。」武雲は目を丸くして続けた。「我ながら、よく眠れるもんだわ。」呆れたように、人ごとのように武雲がさらに続けた。

 そこで武雲の腹が「ぐぐぅぅ」と鳴った。

「腹が減った。」武雲が小さなため息をつきながら言った。

「よく減るもんだわ。」鷹勢が武雲の口調をまねて言った。

「くくくくっ」二人は笑い合った。


 武雲も鷹勢もすっきり目が覚めたので、広間の外の回廊に座り込んで大きな社を見ていた。拝殿であるという社を、拝殿にしては大きすぎるその社を。空が次第に白んできて、初めは影のようにしか見えなかった拝殿も少しずつはっきりと見えるようになってきた。やがて武雲たちの右手から陽が差してきた。陽光は三の鳥居から拝殿に向かって差し込んでいる。まだ太陽が低いので三の鳥居の影が拝殿に向かって長く延びていた。

 「あっ。」武雲が声を上げた。「拝殿の中にもう一つ鳥居がある。」

 目を凝らしてみると確かに拝殿の奥に、二本の柱が鳥居を形作っている。昨日は拝殿の中が薄暗かったので気がつかなかったのであるが、今は、登り始めのやわらかな太陽の光が拝殿の奥まで差し込んでいた。二人は不思議そうにそれを見ていたが、陽が高く上がるにつれて拝殿の中は暗くなり、その鳥居はまた、神職寮からでは見えなくなってしまった。

 「お目覚めですか。」回廊の向こうから声がした。那祁邇であった。「今、朝餉をお持ちしましょう。」

 二人は広間の中に戻って座った。やがて那璃千と那祁邇が朝餉の膳を持って広間に入ってきた。

「お世話になります。」鷹勢が申し訳なさそうに言った。

「何の、何の。たいしたもてなしはできません。」那璃千が言った。昨日と同じ柔らかい笑顔である。周りの人をほっとさせる。

「いただきます。」武雲はぱくぱくと食べ出した。

「はっはっはっ。若い人の食べっぷりは気持ちがよい。」那璃千はとても嬉しそうだった。


「那璃千殿、いろいろとお伺いしたいことがあります。」食事がすんだ後で鷹勢が言った。

「うむうむ。」さもありなんといった風に那璃千が応えた。「ここではなく、外に出ませんか。今日はとてもよい天気だ。」そう言うと那璃千は立ち上がった。

「はい。」鷹勢も返事をして立ち上がった。

「あっ。」武雲は腰を半分浮かせて、困惑した。

「あなたも一緒においでなさい。」那璃千が言った。

「でも、食事の後片付けくらいは手伝いませんと………」

「気にしなくともよい。さあ、一緒に外に参りましょう。」

 鷹勢が何も言わずに頷いたので、武雲も二人に従って広間を出ていった。


「那璃千殿。」神職寮と拝殿のおよそ中間あたりまでゆっくりと歩を進めて来たところで、鷹勢が言った。「昨日もお話ししましたが、我ら二人は『天威神槌』と呼ばれる神剣を探して旅をしています。しかし旅立ってから今日まで、多くの神社の宮司殿や村の長老に尋ねてみたのですが、何の手がかりもありませんでした。宮京にまで名の聞こえた西の大社、ここに来れば何かわかると思っていたのですが……。」

「残念です、鷹勢殿。私自身もそれについては何も聞いたことがありません。」

「もはや我々には何の当てもなくなってしまいました………」

「………」

「ですが那璃千殿、この社についていくつかのことをお聞きしたいのです。せめて何かの手がかりにでもなることがあればと思っているのです。」

「はい、私にわかることならばお答えしましょう。しかしその前に鷹勢殿、私にもひとつ教えていただきたいことがあります。」

「何なりと。」

「その剣を探しているわけは?」

「その剣で鬼へびを討ち倒そうと思っています。その剣だけが鬼へびを討ち倒すことができるのです。」

「ほほぉ。鬼へびですか。話には聞いたことがあります。時折宮京に鬼へびという化け物が現れては、宮を襲っているとか。でもなぜ、なぜその剣だけが鬼へびを討ち倒せるのですか。」

「なぜかは私にも分かりませんが、古くからの言い伝えを守っている一族の首領であるお方に教えていただいたのです。その剣には神の力が宿っており、その剣ならば鬼へびを討ち倒すことができると。」

「ふぅむ。」

「そしてその剣を使いこなすことができるのは『選ばれし者』だけなのだそうですが、或いはここにいる武雲がその選ばれし者であるかも知れぬと、そのお方はおっしゃいました。」

「ふぅぅぅむ。………選ばれし者………。確かに武雲殿は稀人である。それは私にもわかる。しかし………」

 暫くは沈黙であった。

「大変な決意をしたものだ……命懸けの……なぜそうまでして?」

 鷹勢は、武雲とそして自分自身の思いとを那璃千に説明した。

「ふぅむ……強い決意であることはわかりました。」

「はい。」

 那璃千は穏やかに目を閉じた。静かな安らぎを感じさせる横顔であった。

「さて那璃千殿、私の方からいくつかお尋ねしてもよいでしょうか。」

「はい。どうぞ。」

 武雲も目を輝かせた。武雲にも聞きたいことは山ほどあるのだ。

「なぜこのお社にはご本殿がないのですか。」

「いやいや。確かに本殿となる建物はありませんが…後ろの山全体がまあ本殿の代わりのようなものでございます。」

「山が………」

「我が社は、御山おんやまそのものをお祀りしているのでございます。」

「へぇー。」武雲が声を上げた。

「ですから本殿となる建物はないわけです。」

「それでは拝殿があれほどまでに大きいのはなぜですか。」

「山に見合った大きさにしたためではないでしょうか。」

「それだけですか。」

 鷹勢がそう言うと、那璃千に向けられていた武雲の目がさっと鷹勢を見つめた。

(鷹勢は何か気にかかることがあるのだな。)

「はい…おそらくは。」那璃千が少し考えながら答えた。

「例えば……、この社の話が人の口の端にあがるようにと、そしてその評判が遠く遠く地の果てまでも届くようにと、これほどまで大きな社にしたということはないでしょうか。」

「有り得ないとは言えませんが……少なくとも我が社、我が一族に伝わる伝承には、そのようなことは語られておりません。ただ拝殿の造りについてはこと細かく決められており、必ずや並ぶものなき大きさであらねばならぬとされています。」

「那璃千殿はそのようにはお思いになりませんか。あなたの一族の遠い祖先が、何かの考えがあってそうしたのだと。誰かが神の御心に少しでも触れたいと願ったとき、必ずこの社のことに思いを巡らすようにと。」

「わかりません、今となっては。もう私の代までは伝わってはいないのです、なぜこのように大きな拝殿にしたのかは。」

「那璃千殿、あなたの一族に伝わる伝承を、差し支えなければ教えていただけないでしょうか。」

「わかっていただけると思いますが、すべてを明らかにするわけにはいきません。ですが、大まかなところでよいならば、お話ししましょう。」

「お願いいたします。」

「この御山を守り続けることが我が一族の使命です。なぜ山を守らねばならないのかは伝わっておりません。いつから守ってきたのかも、もはや定かではありません。ただ御山を祀り、守り続け、何人であろうとも山に入らせてはならぬと戒められています。………私があなた方にお話しできるのはこれくらいです。」

「はい、ありがとうございます。」

「しかしまあ、山を祀り、山を守るといっても、普段は田んぼ仕事、畑仕事ばかりをやっておりますが。」

「あの……」鷹勢との話が終わったのを見計らって、武雲が言葉を繋いだ。「今日、朝の光が差し込んで、拝殿の奥に鳥居が見えました。なぜあのようなところに鳥居があるのですか。」

「鳥居というものが、どういう意味を持つものなのかご存じですかな。」

「神域への……『入口』ということだと思いますが。」武雲は少し自信がなさそうに答えた。

「はい、その通りです。」那璃千は嬉しそうに言った。「鳥居というのは結界への入口を表しています。鳥居をくぐって入ったその先は、外界げかいとは区切られた神聖な場所であるということです。」

 武雲は黙って頷いていた。

「あなた方は、ここに来るまでに三つの大きな鳥居をくぐって来たでしょう。結界の中へ、その結界の中のさらなる結界の中へ、と進んできたのです。拝殿の中の鳥居もさらなる結界への入口です。近くまでご案内しましょう。」

 拝殿の正面である拝所の前まで来た。頭の上には大注連縄がある。

「この奥に五の鳥居があります。」那璃千が言った。

「えっ。五の鳥居ですか。」武雲が聞き返した。

「はい。五の鳥居です。」那璃千は相変わらずにこやかであった。「四の鳥居はこの拝所です。」

 二人は顔を上げて、拝所の上の辺りを見回した。二人とも怪訝そうな顔つきである。

「この大注連縄とその上の梁と、そしてそれを支える二本の柱が鳥居を形作っております。」

「あぁあーあぁ。」二人はなるほどといった風で声を揃えた。

 大注連縄とその上の梁との間が離れており、確かに鳥居の形になっている。中の二本の柱がほかの柱より幾分太いのは、このためであったのだ。

「そしてこの拝殿の奥に、五の鳥居があるのです。」

 二人は目を凝らして拝殿の奥を窺ったが、奥は暗がりでよく見えなかった。しかし暫く見ていると目が慣れてきて、鳥居の形がうっすらと見えてきた。

「さらなる結界の中へと足を踏み入れてみましょう。」那璃千が嬉しそうに言って、大注連縄の下をくぐり、奥へと進んでいった。

 二人は那璃千に従って大注連縄の下を通って、拝殿の中へと入った。拝殿の中は薄暗く、太い柱の上の方は見えなかった。おそらく梁が何本も走って大きな屋根を支えているのであろう。足下は大きな石畳が敷かれており、そこから等間隔に柱が伸びているだけでほかには何もないがらんとした空間であった。

 奥に進むにつれて五の鳥居の姿がはっきりとしてきた。形は普通の鳥居と同じだが小ぶりである。いくら巨大とはいえ建物の中にある鳥居なのだからそれも当然だ。三人はさらに鳥居に近づいていった。

「あっ。」武雲が声を上げた。「鳥居の中が扉になっている。」

「それにこの鳥居は奥の壁と一体となっている。」鷹勢が不思議そうな声で武雲に続いた。

 鳥居はまるで奥の壁から盛り上がってきたかような造りになっていて、その中は両開きの重厚な扉となっていた。

「五の鳥居は、誰でも入ることのできる入口ではありません。」那璃千の言葉は今までよりも厳かに響いた。「この鳥居の扉の先の結界は、結界の中の結界。常人禁足の聖域。我が一族の当主たるこの社の宮司と、正式にその位を継ぐと認められたものだけしか立ち入ることが許されていない神聖な場所です。我が息子那祁邇も、まだ足を踏み入れたことがありません。」

「那璃千殿は、いつなりと入れるわけですね。」鷹勢が訊いた。

「いいえ。たとえ宮司であろうとも、好きな時に立ち入ることができるわけではありません。五の鳥居の内側に足を踏み入れることができるのは、年に三度のみです。」

「年に三度とはいかなる時でしょうか。」

「元旦と新嘗にいなめと、それから初夏に行われる浄泉きよしいずみの神事の際の三度です。」

「浄泉の神事とはどのような?」

「我が社の境内の北西のはずれに、その水は絶えたことがないと伝えられる、こんこんと湧き出る泉があります。その泉の水を、稲を植える前の田に初水として撒くと、その田は必ず豊作になるといわれているのです。実際この土地は、常に稲の実りがとても豊かです。その泉に感謝し、その泉が枯れることのないようにと祈る神事です。」

「なるほど、そうですか。そのような神事を営まれておりますか。」

「我が社の本当の名をご存じですか」

「『西の大社』ではないのですね………」

「人々が『西の大社』と呼び習わしてくれていて、それが正しい名のように思われていますが、本当の名は『大瑞致おおみずち神宮』と言います。浄く美しく恵みあらたかな水が地表にたくさん湧き出ると言う意味であろうと言われています。」


「武雲殿、今晩は食が進まなかったようですが。」

 その日の夕餉のあとで那璃千が心配そうに声を掛けた。

「あ、はい…」

 武雲は気落ちしていた。今日の朝、那璃千の案内で拝殿の中をくまなく見て回り、いろいろな話を聞かせてもらい、そして那璃千にいろいろと訊いては見たものの、天威神槌に関係のありそうなことは何一つ、見いだせなかった。

「残念です、あなた方のお役に立てなくて。」

「いえいえ、那璃千殿。いろいろと有り難うございました。」鷹勢が言った。

「このあとはどうなさるおつもりですか。」

「はい………。」鷹勢ははっきりとした答えをしなかった。

「なあ鷹勢、天威神槌なんて、本当は存在しないんじゃないだろうか?」

 朝方に那璃千からいろいろと話を聞かせてもらってから、武雲の心には水に落とした墨のように、不安と疑いが少しずつ少しずつ広がっていった。時とともにそれは大きくそして濃くなっていき、今やそれは恐怖に近いものにまでなって武雲の心を覆い尽くしていた。

「随分と、気弱なものだな。」

「鷹勢もそう思っているんじゃないのか。」

「いや。そうは思っていない。」鷹勢はきっぱりと答えた。

「でもさ、どこで訊いても、誰に訊いてもそんなものは知らない、聞いたこともないと言う。ここならばと思って来た『西の大社』だけれども、やっぱり何もわからなかった。………天威神槌のことを知っていたのは、宿禰殿とあの女宮司だけだ。でも、どちらも古くからの伝説だった。………天威神槌なんてただの言い伝え、お伽話みたいなものか、あるいは、大昔には在ったけれど今はもう失われてしまったものなんじゃないのか?」

「在ると………信じるしかない。その剣がないのならば、鬼へびを討ち倒すことはできないのだから。鬼へびを打ち倒そうと心に決めた俺たちが今できることは、天威神槌があると信じて探し続けることだけだ。」

「でも本当は存在しないのだとしたら、俺たちのやっていることには意味がない。」

「………那璃千殿、」鷹勢は小さく息を吐いてから、武雲には応えずに、那璃千に言った。「この社には天威神槌剣に関わる何かがあるはずだと、私は思っています。」

「なぜ、そう思われるのですか。」

「昼間にも言いましたが、この社がこれほどまでに大きいのには、何かしらのわけがあるはずだと思うのです。」

「遠く遠くの村々にまでも、この社の存在が知れ渡るようにするためにと?」

「『なぜ知れ渡るようにしておくのか』ということです。」

 武雲は考えては見たが、なぜなのか思いつかなかった。

「大きさは天下一だと言われるこの神社の存在を知ったとき、どう思った、武雲。」

「ここに、天威神槌が在るだろうと思った。もしなかったとしても、何かわかるだろうと思った。」

「俺もそう思った。宿禰殿もそう思っていた。だからここに来た。………しかしその期待が大きかった分、何もわからなかったことでの落ち込みも大きいのだよな、武雲。………なぜここに来れば何かわかると思ったのか?それはここが天下一大きな神社だからだ。もしも天威神槌を求める者ならば誰でもそう思うだろう。だから俺たちはここに来た。ということは、実は俺たちはこの大社に引き寄せられてここに来たのではないのか。………神の力を求める者が、必ずここに来るように仕向けるために、この神社はこれほどまでに大きいのではないのか。」

 鷹勢の話しぶりは誰に説明すると言うよりも、自分自身に対して言い聞かせるような話しぶりであった。

「神の力を求める者が、この神社の話を耳にしたならば必ずここに来るようにするために。そして遠く遠くの村々にまでもこの神社の評判が伝わり、その者の耳に必ず伝わるようにするために。………求める者を導き、引き寄せるために、そのためにこれほどまで大きいのではないのか。」

 鷹勢の目は遠くを見つめていた。

「ようするに、俺たちみたいな者を引き寄せるために天下一大きいっていうことか。」

「うむ。」遠くを見つめながら鷹勢は答えた。「それに、天下一の大きさというのにもわけがあると思っているのです。」鷹勢の目が再び那璃千に向いた。

「それはどんな?」那璃千が訊いた。

「『その神社には何かある、神の元に近づけそうだ』と思わせるものは、何も天下一の大きさだけとは限らない。天下一古くても、天下一格式が高くても、人はそう思うはずです。」

「ふむふむ。」

「しかし天下一古いということは、いつかあやふやになってしまうかも知れぬし、別の神社がそう言い張るかも知れぬ。格式などいつかは廃れてしまうこともあるでしょう。永い永い間ずっとそう在るためには、それではだめだ。だが、一番大きいと言うことは目に見える。確かめられる。変わることもないし、あやふやにもならない。」

 武雲も小さく頷きながら聞いていた。

「しかも那璃千殿は言っていました。社の大きさは、並ぶものなき大きさでなくてはならぬと社伝に決められていると。………神の力を求めるものを永遠ともいえるような時を越えて待ち続けるには、天下一大きいということが一番都合がよかった。……だからこの神社は、その大きさが天下一であらねばならぬと決められていて、それを厳しく守るように伝わっているのではないのでしょうか。………それにもう一つ、ここには何かあると思わせることがありました。」

「もう一つ?」武雲が聞き返した。

「この大社に来る前に起きたことをよく考えて見ろ。」

「あの女宮司のこと?」

「先程も言っておりましたが、『あの女宮司』とは?」那璃千が訊いた。

 鷹勢は先日の女宮司の神社での一件を詳しく那璃千に話した。


「そんなことがありましたか。……しかし不思議です。そんな神社や女の宮司のことは初めて耳にします。今まで何も知りませんでした。」

「我らはあの日、目指していたこの社のほど近くまで来ているはずにもかかわらず、なかなか行き着くことができずにいました。そしてなぜか、その女宮司の社に行き当たったのです。道に迷ったのかも知れませんが、私は迷わされ導かれたのだと思っています。」

「ほぉおほぉお。」

「おそらく普段は、森の奥深く、人目から何らか力で閉ざされているのでしょう。」

「ふぅむ。そうかも知れませんな。」

「彼女は命を懸けてまで我らの行く手を阻もうとしました。武雲の言うように、ただの『お伽話』に踊らされてしまっただけの、悲しい一族の末路かも知れない。しかし彼女の一族の伝説と宿禰の一族の伝説とは、見事に呼応している。」

「確かに。それはその天威神槌剣の伝説がただの作り話ではないということを示していますな。」

「しかもだ、どうしてあの場所に、西の大社の目と鼻の先に、あの一族は社を構えたのだと思う、武雲?」

「それは………天威神槌を探し求める人をこの大社に近づけさせないため。」

「そうだ。そして大社のそば近くで待ち構えていれば、天威神槌を探し求めている者を必ず迷わせ導くことができる。」

「あっ。」

「天威神槌を探し求める者だけを迷い込ませる異界。張り巡らされた蜘蛛の糸。………それがあの社だ。」

 武雲は何も言わず、数回、小さく頷いた

「ということは、俺たちはもうすぐそばまで来ているということだ。この社は天威神槌剣と何らかの繋がりがあるはずなのだ。」

「なるほど、鷹勢殿のいうことには一理ある。」那璃千が言った

「だけど……何もわからなかった。那璃千殿も何も知らないと言うし………かつては存在していたのかも知れない。この社には何かが伝わっていたのかも知れない。でももう忘れられてしまった……剣はもう失われてしまったんじゃないだろうか。」

 武雲は、心を覆い尽くしている暗い影を、どうしても払いのけることができなかった。

 と、その時である。

 ぐぁらがらがらどぉぉん。

 障子越しにも反射的に目を閉じてしまうほどの強い閃光とともに、大地をも揺るがす凄まじい音が響いた。

「うわっ。」武雲は目を閉じて思わず声を上げた。

 突然の雷鳴であった。

「信じよ。確かに存在するのだ。」

 聞いたことのない声が言った。野太い、低い声だ。武雲も鷹勢もびくっとして声の方に目を向けた。鷹勢は傍らに置いておいた剣の柄に右手をかけている。しかしそこにあるのは那祁邇の姿であった。

 那祁邇は傍らに座り何も言わず話に聞き入っていたのだが、しかし今は、つい先ほどまでと同じように座ってはいるものの顔つきがいつもの那祁邇ではない。いつもの穏やかさがその表情から消えていた。大きな目は半開きになって虚空を睨み、口は微かに開かれている。

「信じよ、我の元に参れ。」那祁邇の口からその言葉は発せられていたが、しかし那祁邇の声ではなかった。

「山に入って参れ。その石がある。」

 鷹勢、武雲、そして那璃千の三人は、言葉を失ってただ那祁邇を見つめていた。

「時は至れり。六の鳥居をくぐり、我が元に参れ。」

 そう言い終わると、那祁邇はどさっと崩れるように伏してしまった。

「那祁邇、那祁邇。どうした。」

 那璃千が那祁邇を抱きおこし、軽く揺さぶりながら呼びかけてはみたが那祁邇は意識を取り戻さなかった。鷹勢は那祁邇の息づかいや脈を診てみた。

「深い眠りに落ちているだけのようです。心配はありますまい。」

 宮司は那祁邇を静かに横たえた。

「今のは何だろう、鷹勢。」武雲が興奮しながら訊いた。

「わからん。何かが那祁邇殿に神懸かりして我らを導いているようだ。」鷹勢はいつも通り落ち着いた口調でそう言ったが、言葉の端々やその表情に驚きやら懐疑やら、期待やら不安やらの入り交じった感情が表れている。

「『山に入ってこい』って、『その石がある』って言っていた。」

「うむ。」

「行かなくっちゃ、鷹勢。呼んでる。俺たちを呼んでる。天威神槌に関係がある。」

 武雲は立ち上がり、興奮して話している。今にも外に飛び出していきそうだった。

「那璃千殿…」鷹勢が呼びかけたが、それとほとんど同時に那璃千も言葉を発した。

「あなた方は、いったい何者ですか。」

「那璃千殿、那璃千殿……」武雲は興奮したまま、那璃千に呼びかけた。那璃千の言葉は耳に入っていない。

「黙れ、武雲!」鷹勢が厳しい声で一喝した。

「………」鷹勢に怒鳴られて、武雲は落ち着きを取り戻した。

「あなた方はいったい何者ですか。」那璃千が同じ質問を繰り返した。

「我らは天威神槌剣を求める者。その我らを何かが導こうとしています。」

 那璃千の顔に、驚きの表情が見る見るうちに広がった。鷹勢は那璃千が何かを言うかと待っていたが、那璃千は何も言わなかった。

「那璃千殿、」鷹勢が沈黙を破って言った。「『六の鳥居』とは、いかなるものでしょう?」

「『六の鳥居』とは……」那璃千は一旦ためらった。僅かの間、ほんの少し俯いて眉間に微かな皺を寄せ、何かを考えていた。

「あなた方にはお話してもいいでしょう。と言うよりも、お話すべきなのでしょう。………五の鳥居のことは朝方、お話ししましたが、実は五の鳥居の向こうにはさらにもう一つ、鳥居があるのです。」

「いったい幾つ…。」武雲が呟いた。

「おそらく、六の鳥居が最後かと。」

「おそらくというのは?」

「六の鳥居の先のことは誰も知らないのです。………なぜなら、六の鳥居は何人なんぴとたりともくぐり抜けて行くことを許されていないからです。六の鳥居の存在を知るのは今の世には私だけです。その私にも六の鳥居をくぐって先に進むことは許されていません。鳥居の先は、我が御山のまさに神域。六の鳥居は『不可穢(ふかあい)の鳥居』と呼ばれています。」

「『ふかあい』とは?」

「《穢すべからず》という意味です。」

「なるほど。」

「その鳥居をくぐって参れと、我らの祀る御山が告げられた。」

「那祁邇殿に神懸かったのは御山だと?」

「間違いないでしょう。」

「なぜそう思われるのですか。」

「『六の鳥居をくぐり我が元に参れ』と言っているのですから。」

 鷹勢も武雲も、大きく二回頷いた。

「そして、私はもっと驚くべきことに思い至りました。……我ら一族は、御山こそが、御山そのものがご神体であるとして祀ってきましたが、神懸かりした那祁邇にから発せられた神託によると、山の中、六の鳥居の先であなた達を待っている方がいると言うことになります。」

「確かに。」

「と言うことは、御山にまします神がおわすと言うことです。………そのようには伝えられてはこなかった。ただ御山を守り、祀るとしか。………驚きです。……我が一族の永い永い歴史の中で、初めて明らかになったことなのか、或いは埋もれてしまっていたことなのか。………あなた方は鬼へびを討ち倒すために神剣を探し求めている。そのあなた方を、御山の神は呼び招いている。我が社は、鷹勢殿の言うように、天威神槌剣と何かしら関係があると言うことでしょう。」

「………那璃千殿。私たちを御山の中へ入れてもらえないでしょうか。六の鳥居をくぐらせてはいただけないでしょうか。」

「いいも何も、御山の神が、我らの祀る神があなた方を呼び招いているのですから。私はそのご意思に従うのみです。」

「有り難うございます。」

「有り難うございます。」

「我が一族にとっても、あなた方を御山にお連れするのは大きな、大切な役目であると思います。」

「宜しく、宜しくお願いします。」

「宜しくお願いします。」


 夜がようやく白んで来た。武雲にとっては長い夜であった。うとうととしては目が覚めることの繰り返しであった。夜明けとともに御山に入ることになっている。とても落ち着いて寝てはいられなかった。しかし鷹勢はというと、まだ寝いっているようだ。

(さすがは鷹勢。)と武雲は感心した。

 武雲はそぉっと上体を起こした。

「眠れたか、武雲。」鷹勢が言った。

「ごめん。おこしちゃったかな。」

「いや、俺もよく眠れなかった。」

 武雲は少しばかりほっとした。

「いよいよ、かな?」

「いよいよ、かもな。」

「目覚めておいででしょうか。」小さな声が障子の向こうからした。那祁邇の声である。

「はい。」

「ではこちらにお召し替えをお願いします。」

 そう言いながら障子を開けて、那祁邇が二人分の白装束を差し入れた。那祁邇自身はすでに白装束姿であった。

「はい、有り難うございます。」

「那祁邇殿、大丈夫ですか。」武雲が訊いた。

「はい。大丈夫です。昨日のことは先程父から詳しく聞きました。何も覚えていませんが、どこも変わったところはありません。」

「そうですか。よかった。」

「有り難うございます。」


「武雲、」着替えをしながらどこかそわそわとしている武雲に、同じように着替えの手を進めながら、厳しい目をして鷹勢が言った。「気を引き締めておけ。この先どんなことがおきるかわかぬからな。」

 声は出さず、武雲はこくりと頷いた。先日のこともある。武雲は鷹勢に言われて腹にぐっと力を入れた。これから、社の境内に湧き出る浄泉でみそぎをする。そのための白装束である。五の鳥居の先に入るためには、そうしなければならないことになっていた。着替えをすませて神職寮から外に出ると、同じように白装束に身を包んだ那璃千と那祁千が、すでに二人を待っていた。

「今日は那祁邇も伴うこととしました。」

「そうですか。」

「那祁邇にとっては初めてのこととなります。来る年の元旦に、と思っておりましたが、この度ことは我が一族にとって大きな大きなことです。私の後を継ぐ那祁邇もともに行き、見て感じるべきことと思います。」

 鷹勢と武雲は言葉を出さず、頷いた。


 浄泉の水で身を清め終えて、四人は再び着替えた。武雲と鷹勢は今まで着ていた服をまた着たが、那璃千と那祁邇は常とは異なる衣服に身を包んでいた。禊の時とはまた違った形の白装束に、手には白木の笏と一枝の榊を持ち、頭には冠、足には沓を履いている。

「我が社のいわば正装です。」珍しがって目を凝らしている武雲を見て那璃千が言った。「神事の際には必ずこの装束を着ます。」

 武雲は納得顔で小さく頷いた。

「では、参りましょう。」

 四人は那璃千を先頭にして拝殿に向かった。拝殿の前、四の鳥居で拝礼をし、那璃千のあとについて拝殿の中の五の鳥居の前まで進む。ここでまた拝礼をしたあと那璃千が祝詞を唱えた。祝詞を終えると那璃千は両の手で鳥居の中の扉を押し開いていった。見た目よりもずいぶんと重そうに押し開いていく。ゆっくりと静かに扉は開かれた。

「他の人が押したところで、扉はびくともしないのです。」

「そうなのですか。」

「そうなのです。」

「何かこつのようなものがあるのでしょうか。」

「いや、そう言うわけではないのです。この社の宮司以外の者が押し開こうとしても、扉は頑として動きません。」

「不思議なものですね。」

「不思議なものです。なぜなのかはわかりません。さあ、入りましょう。」

 そう言って那璃千は扉をくぐっていった。鷹勢が続いて進み、次に武雲、最後に那祁邇が入っていった。全員が入り終わると、那璃千は扉を元のように閉めた。五の鳥居の中は狭い斎庭いつきにわとなっていて一面に白玉石が敷き詰められている。空気からしてどこか違う。荘厳さと神聖さを含んだ空気であった。武雲と鷹勢は周りを見回した。拝殿と板垣に囲まれた斎庭は広くなく、奥行きは五尋ほどしかない。那祁邇も目を凝らして辺りを見回していた。すぐにそこに宮司の言っていた六の鳥居があった。六の鳥居は見るからに古そうではあったが朽ちてはおらず、小さなものであったが威厳を感じさせた。六の鳥居の先には獣道のような細い道が続いていたが、その道もすぐに見て取れなくなり、その向こうはまさに山、深い山である。

「あれが六の鳥居です。言うまでもありませんが。さあ、あなた方は六の鳥居をくぐって山の中へとお進みください。」

「那璃千殿はどうされるのですか。」

「私は山には入るものではなく、山を守るものです。ですから私と那祁邇はここで、あなた方の戻るのを待っております。」

 そう言うと那璃千は沓を脱いで白玉石の上に直に正座をし、持っていた笏と榊の枝を顔の前にかざした。那祁邇はそれに倣って宮司の左斜め後ろに座った。

「では。行って参ります。」

「行って参ります。」

 那璃千と那祁千は声を出さずに一礼を返した。

 二人は六の鳥居をくぐり通り、獣道を辿りながら山の中へと進んでいった。獣道はすぐになくなってしまったが、二人はそのまま奥へと進んでいった。大木を避けながら進んでいくと、すぐに方向がわからなくなった。もう空は払暁の茜色ではなく、青みを帯びてきている。方向の感覚はもはや失われた。それでも二人は進んでいった。斜面を真っ直ぐ登っていくように方向を選んで。今から引き返しても山を出ることはできないだろう。どちらから山に入ってきたのかすら見当がつかない。同じ場所を行ったり来たりしているようにも思える。どこにも『その石』のようなものは見あたらない。

(もしかしたら、謀られたのかも?)

 武雲の心に不安がよぎる。暑くもないのに汗が頬を伝う。先頭に立っていた武雲は鷹勢を振り返った。

「この前のこともある。用心するに越したことはない。」武雲が何か言う前に鷹勢が応えた。その時、突然山の木々が開け、確かに『その石』はそこにあった。一目で『その石』だとわかった。理由はない。ただそうわかったのである。わかったと言うよりも知っていたと言った方が、感覚が近い。武雲も鷹勢も、石を見たときにすぐ、これが『その石』だとわかったのである。大きなでこぼことした石であった。高さは一尋を越えて武雲の背丈よりも大きく、横幅は高さよりも少し小さいぐらい。表面はややなめらかになっていて、長い年月を感じさせた。しかしただそれだけの石で、変わったところはない。

「よく来た、武雲。我を探し求める者よ。」

 石からか、石の下の地面からか、あるいは周りの山からなのか、どこからとははっきりしないが、あの声が聞こえた。那祁邇が神懸かりした時と同じあの声だ。

「人と相まみえるのは何と久しぶりのことよ。」

「なぜ私の名を……。」

「我を探し求める者のことは、すべてわかる。」

「あなたは天威神槌剣ですか?」

「そうではないが、そうでもある。」

「………」武雲は首を傾げた。

「そのことはいずれわかるかも知れぬが、それはおまえ次第だ。」

「私が剣を手に入れることができればわかるということですか。」

「そういうことだ。」

「どうすればその剣を手に入れられるのですか。」

「おまえに剣を使い得る力があるのならば、おまえは今日それを手に入れることができる。その力があることを示してもらおう。」

 その声がそう言うと、石の真ん中あたりが青黒く光り出した。光は波紋が広がるようにだんだんと大きくなり、やがて石全体を隠してしまった。

「中に入って参れ、武雲。」

 何があるのだろう。何が起きるのだろう。わかっているのは、あの光の中で力を示すことができれば神剣天威神槌を手に入れることができるということ。そして力を認めてもらえなければ、おそらく命はないということだ。武雲は怖かった。怯えていた。鷹勢の方を振り返った。

「おまえの名しか呼ばなかった。おまえしか、その中には入っていけない。」

 鷹勢は『行け』とは言わなかった。武雲は大きく息を吐いてから歯をぐっと噛みしめ、両の手を強く握りしめて、その光の中へ足を踏み入れた。光の中は、不思議なところであった。一歩足を踏み入れると、もはや武雲の体は完全にその光の内側に入り込んでいた。後ろを振り返ってみたがもはや鷹勢の姿は見えない。光の外の世界、つい先程まで武雲のいた世界とは隔てられてしまっていた。

(ここは石の中なのだろうか。)

 武雲は周りを見回した。どちらを向いても何も見えない。前後左右上下、周りはすべてただの闇である。闇ではあるが視線の先は、遙か彼方まで続いている。武雲にはそれが感じられた。無限の虚無。

(石の中ではないな。こんなに広いわけがない。)

 踏み入れた足下も虚無の広がりである。武雲は確かに、二本の足で立っているつもりでいるのではあるが、その足の下には何もない。あちらこちらを見回している内に、奇妙な感覚が武雲の体に起こった。木登りをしていて乗っていた枝が突然折れ、すぅーっと下に落ちていく瞬間のような感覚。しかし落ちていっているわけではない。ここには上も下もないのだ。それは体が下に落ちていっているのではない。体のすべてがすーっと、外へ外へと引かれていく。虚無に体が拡散していく。まるで野焼きの煙が高く上がるにつれ、大気の中に拡がって消え入っていくように。体とともに意識も薄まっていき、すべてが虚無と同質になってしまいそうな瞬間、武雲の体は一転、その内へと吸い込まれ出した。体が、体の中に吸い込まれていく。体の内へ内へ。無限に吸い込まれていく。体とともに意識も凝縮され、もはや武雲はひとつの大きな目であった。武雲はその存在すべてで感じていた。感覚が、見るという、聞くという、匂うという、触れているという、外界を受容するすべての力が強まっていき極限にまで達した時、大きな光が弾けた。その光の中に、とぐろを巻いた光り輝く巨大な銀の龍がいた。

「よくぞ来た、私の元まで。」

 あの声であった。

「あなたが呼んでくれたから。」

「私は誰でも招くわけではない。」

「ではなぜ私を。」

「おまえには私を強く求める意志があった。そしてそれだけの力も備えている。私に挑むだけの資格がある。試練を越える可能性を持っている。」

「………」

「おまえのその剣を抜け。試練を、受けよ。」

 そう言うと龍は、体をぐわあっと立ち上げた。鬼へびと同じくらいはあるだろうか。

「試練とは何ですか?」仰け反るように見上げながら、武雲は訊いた。

 銀の龍は何も答えず、武雲に向かって突進してきた。

「うわあっ。」

 かろうじて武雲はそれをかわしたが、身につけた衣服の胸のところが裂けている。間一髪であった。龍はすぐさま武雲に向き直った。武雲は背負っている剣を、鹿渡の村長から貰い受けた剣を抜いた。

 龍はまた突進してきた。大きな口を開けて、武雲をかみ殺そうとしている。真っ赤な口腔に尖った牙が立ち並んでいる。一撃でも受けてしまえば、それで終わりだ。その時には武雲の命はもはやない。武雲はさっと横に飛び退いてこの突進をかわした。龍はまたもや素早く向きを変え、武雲を襲ってきた。同じように武雲は横に飛び退いたが、武雲がかわしたと思った瞬間、ずしんと思い衝撃が体を襲った。龍が尾で武雲を打ったのである。武雲は大きく跳ばされたが、うまく受け身を取って素早く立ち上がった。

「むむむむむ…」武雲は唸り声をあげた。(かなりこたえたぞ…もう一撃くらったら動けなくなる。反撃しなくては…)

 武雲は龍の突進を横にかわしながら尾の動きをよく見て取って、その打撃もよけながら剣を力一杯振るった。ざくっと手応えがあった。龍の尾に切りつけた。しかし龍は平然と向き直り次の攻撃を続けてきた。武雲はまた横に飛び退きながら斬りつけた。鷹勢から教わった剣の技である。今度は胴の真ん中あたりをかすめ斬った。しかし龍はいっこうに弱った様子を見せない。

「ぐわっ!」

 深く強い一撃を打ち込もうとした武雲は、小さく右に踏み出して龍の攻撃をかわそうとしたのだが、かわしきれなかった。左の肩口から二の腕にかけて龍の牙を受けてしまった。

 体を回転させながら倒れ込んだ武雲に、龍はすかさず突進してくる。武雲は飛び退いてそれをかわすとすぐに立ち上がった。傷口から血が滴り落ちる。

 もはや龍の攻撃をかわすのに精一杯であった。かわしながら闇雲に剣を振るって、運良く何度か斬りつけることもできはしたが、時折龍の体をかすめてうっすらと傷を残す程度であった。ほとんどが空を切るばかりである。

「がっ!」

 かわしきれなかった。左足をやられた。かわすこともままならなくなってきた。

「ぐっ!」

 脇腹にくらった。

(だめだ歯が立たない。殺される。)

 武雲は痺れた左手を柄にやり、右手に揃えて剣を握ると、切っ先を顔の正面に立てて剣を構えた。龍が真っ正面から武雲に向かってくる。

「うぅうぉおーー…」

 武雲は腹の底から叫び声を上げながら、さらに強く剣を握りしめた。龍をかわそうとはしなかった。右足を一歩踏み込み、龍の攻撃を真正面から受けてたった。

 龍と剣とが触れた瞬間、激しい光が放たれた。剣が龍を真っ二つに切り裂く。龍の体の半分は武雲の右側へ、もう半分は左側へと分かれて、武雲の後ろへと飛び去っていった。龍が完全に切り裂かれた後も、武雲はかっと目を見開いたまま、叫び続けていた。

「よくぞ打ち克った。」

 後ろで龍の声がした。武雲が振り向くとまったく元通りの体の龍がいた。驚いて武雲は素早く身構えたが、龍はもう武雲に向かっては来なかった。

「打ち克った者、武雲よ。おまえは私の使い人である。」

 そう言うやいなや、龍の体が輝きだした。その輝きはどんどん強くなって、龍の体は光の固まりとなり、そして細かい光の粒子の集まりとなった。光の粒子は高く舞い上がり、そして武雲の持っている剣に降りてきた。剣が強く眩く輝く。その瞬間、武雲はあの石の前に立っていた。鷹勢がすぐ傍らにいた。

 武雲は自分の手の内にある剣に目をやった。

「大丈夫か?武雲。ひどい怪我だ。」

「うん。何とか。」

「手に入れることが、できたのか?」

 それには答えずに武雲は剣を鷹勢の方に差し出して、そして自らもその剣をまじまじと見た。その剣には、龍の姿が刻み込まれていた。

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