八

 鹿渡村を発ってからどれくらいの月日が経ったであろうか。どれくらい西に来たのであろうか。馬を進める二人の吐く息が白い。行く先々で天威神槌のことを尋ねてはみるものの、手掛かりはまるで得られないまま、季節はもう冬を迎えていた。

(こうして何のあてもなく旅を続けていて、天威神槌を手に入れることができるのだろうか?)武雲の不安は募るばかりであった。(何よりも、天威神槌は本当に存在するのだろうか。古い伝承だけがその拠りどころだ。他には何もない。宿禰殿のほか、今までにその剣のことを知っていたのは、ただの一人もいない。本当は、そんな剣は存在しないんじゃないだろうか。)

 武雲の不安は日増しに大きくなっていった。その不安とともに、武雲の中ではひとつの期待もまた大きくなっていった。

(もうあと何日かで、西の大社おおやしろに着くはずだ。この前に立ち寄った村の人たちも口々に言っていた。『西の大社に行って見ろ。西の大社なら何かわかるかも知れない。』西に進めば進むほど、その社のことを口にする人が多くなってきた。天下一の大きさといわれる西の大社。そこに行けば在るかも知れない、天威神槌が。もしなかったとしても、きっと何かがわかるはずだ。)

 武雲の心は不安定だった。不安と期待とが入り混じって、うまく均衡が保てなくなっていた。そしてそれが武雲にさらに深い不安をもたらすのだった。それはもはや恐怖に近かった。

(もしも西の大社に行っても何もわからなければ、天威神槌なんて剣はこの世に存在しないって言うことだ。)

 馬の首を並べて進めていても、会話らしい会話はなかった。鷹勢は元々あまり話をする方ではない。しかし武雲のそんな心持ちを察してか、珍しく鷹勢が自分から話しだした。

「もう間もなく西の大社に着く。西の大社はその大きさだけでなく、古くからあるということでも天下に一か二であろう。西の大社に着けば何かわかるはずだ。」


 もう今日は、目指す『西の大社』へ着くはずであった。本当は昨日の内にも大社に着くと思っていた。しかしどうしたわけか今日になっても、行けども行けども大社の姿は見えず、とうとう陽も西に傾き始めてしまった。

「どうなっているんだろう、鷹勢。」武雲が尋ねた。「山を越えたら、あとは三日もあれば間違いなく着くって、この前に立ち寄った村で言われてきたのに。山を越えてもう丸四日だ。道に迷ったんだろうか。」

「いや、迷うような道ではなかった。方角も間違っていない。」鷹勢も腑に落ちないような顔をして馬を進めていた。「このまま……西へ進むしかないな。」

 日はどんどん傾いて、夕闇が迫ってくる。冬の冷気がますます厳しくなってきた。もはや今日のうちには、西の大社には行き着けない。もう今夜の野宿の場所を定めなければならない頃合いである。冬の野宿はとても辛い。しかも今日はいつもに増して冷え込みが厳しい。もう少し馬を進めたら、もしかすると大社が見えてくるかも知れない。そんなことを思って二人とも、馬を止められずにいたのであった。

 右手の視界を遮っていた林が途切れた途端であった。突然、古い鳥居とその奥の小さな社が目に入ってきた。もちろん西の大社ではない。大社どころか、普通の民家よりも小さい粗末な社であった。灯が灯っているので、誰か宮司がいるのであろう。

「今夜はあの社の世話になろう。」鷹勢が言った。

 今日は野宿をしないで済むかと思うと、武雲はほっとした。二人は社のそばまで来ると、馬から下りて古い鳥居をくぐった。近くで見ると鳥居は、今にも朽ち果てそうなほど古ぼけていた。

「何年前に建てられたものだろう。」武雲が誰にともなく呟いた。

「相当なもんだな。」鷹勢も誰にともなく答えた。

 社の建物はひとつしかなかった。小さな社である。拝殿も本殿も神職寮も、ひとつの建物に収まっているのだ。

「ご免。」鷹勢が大きな声で呼びかけた。

 返事がない。

「ご免。」もう一度、鷹勢が呼びかけた。

 やはり返事がない。

「誰もいないんじゃないか。」武雲が言った。

「だが中には灯が灯っている。」鷹勢は不思議そうに言った。

 武雲が背伸びをして中を窺おうとしていると、突然後ろから声がした。

「何用でありますか。」

 二人はびくっとした。女の声であった。振り返るとそこには、社のみすぼらしさには似合わない、やけに整った装いをした美しい巫女が立っていた。いつの間にそこに来ていたのであろうか。まるで気配というものを感じなかった。鷹勢はほんの少しだけ目を見張って、その巫女を見つめていた。

「この社の方でしょうか。」わずかな間を置いて鷹勢が訊いた。

「いかにも。」

「我らは旅のもので、私は檜垣鷹勢と申します。今宵の宿をお願いできないかと尋ねました。宮司様に取り次いでいただけないでしょうか。」

「ここの宮司はわたくしです。」

 一瞬、鷹勢は言葉に詰まった。

「これは失礼をいたしました。」

 女の宮司がいないわけではなかったが、それは非常に珍しいもので、その社の縁起に何か関わりがある場合がほとんどであった。

「あまりにお若くて美しいものですから、まさか宮司殿とは思いもしませんでした。」

 そう言いながら鷹勢は、宮司と言えば男と思いこんでいた自分を少しばかり恥じた。武雲は驚いていた。鷹勢の口から「若くて美しい」なんて言葉が出るのを初めて聞いたし、まさか鷹勢がそんなことを言うとは思いもしなかったからである。

「……」宮司は鷹勢の言葉には応えずに、冷たい笑みを浮かべた。「こんな粗末なところでよろしければ、どうぞ雨露の凌ぎにして下さい。」

「有り難うございます。」

「有り難うございます。」鷹勢に続いて武雲も礼を述べた。

「これは武雲といいます。旅の同行でございます。」


 社の正面の階段を上り、脇の回廊を宮司の案内で奥へと進んだ。社の幅は二尋ばかりで、その両脇に回廊が通されていた。社の正面が拝殿と本殿、その奥が宮司の普段過ごす部屋となっているようだ。神職寮はない。建物の奥行きは六尋ほどであった。

「どうぞこの部屋をお使い下さい。」

 そう言って宮司は障子戸を開けて、二人を部屋の中に通した。

「夕餉の膳をお持ちしましょう。」

「重ねがさね有り難うございます。」

「どうぞ気になさらないで下さい。たいした食べ物もありませぬゆえ。」

 宮司はそう言って障子を閉めると、どちらかへと向かっていった。

 部屋の奥には襖戸があった。そのむこうは宮司の寝所であろうと察しがついた。

「この社は、なんだか重苦しい。今にも天井が降りてきて、押しつぶされてしまうような感じがする。」武雲が顔を曇らせながら小声で言った。「空気が重い。体にまとわりついてくるようだ。」

「うむ…」鷹勢は肯定とも否定ともつかない返事をした。

「それにあの宮司殿が後ろから声をかけてきた時、突然思いもしなかった方から声がしたからびっくりしたけれど、それと一緒になんだか背筋がぞぞぉっとしたんだ。」

「……」

「いつの間に後ろに立っていたんだか、まるで気配を感じなかった。鷹勢は感じたか?」

 しかし鷹勢は何も答えなかった。


「お待たせをいたしました。」障子の外で宮司の声がした。またもや突然であった。また武雲はびくっとした。

 障子がすーっと開いて、宮司が二人の膳を据えてくれた。

(いつの間に膳を運んできていたんだろう。)武雲は首を傾げた。(ここに近づいてくるような気配は、まるで感じなかったんだけどなぁ。さっきの話を聞かれてしまったかもしれない。)

「まことに有り難うございます。」鷹勢が言った。

(鷹勢は何も感じていないんだろうか。)武雲は不審に思った。

「ごゆっくりと。」

 そう言って宮司は部屋を出ていった。


 食事がちょうど済んだところで、宮司が膳を下げに来た。それはまさに二人が食事を終えたちょうどその時であった。まるでどこからか二人の食事の様子を見ていたかのようであった。

「宮司殿。」鷹勢が言った。「いくつかお尋ねしたいことがあるのですが。」

「そうですか。では膳を下げてから、またこちらに伺いましょう。」

 武雲は手伝いを申し出たが、宮司はそれを柔らかく、しかしきっぱりと断った。


「お尋ねになりたいこととはどのようなことでしょうか。」障子戸の内に座り直して宮司が言った。

 その座っている姿が、蝋燭の火に片側だけ照らされいる顔が、驚くほど美しかった。武雲は息を呑んだ。

「こちらの社の大注連縄ですが、普通の社のものとは逆向きに締められているのはなぜですか。」

 武雲はおやっと思った。鷹勢は天威神槌のことを尋ねるのだとばかり思っていたからだ。

「さぁ、なぜでしょうか。わたくしにもわかりません。」

「何か社に古くからの言い伝えでもあるのでしょうか。」

「わたくしは存じません。」

「こちらに祀られている御神おんかみは、いずれの御神でありますか。」

「この土地の一柱ひとはしら地祇ちぎにございます。」

「何という御名みなの御神にあられますか。」

「名もなき地祇にございます。」

「女性の宮司とは珍しいのですが、この社はいにしえより女性が宮司と定められているのでしょうか。」

「いいえ。わたくしの前は、わたくしの父が宮司でした。たまたま父の跡を継ぐ者が、わたくししかいなかったのです。」

 鷹勢の質問は矢継ぎ早であった。宮司に対して非礼ではないかと、武雲は内心冷や冷やとしていたが、鷹勢も実は何かを感じて注意深く目を配っていたのだなと、少し安心もした。

「そして今、わたくしには跡を継ぐものがおりません。」宮司は哀しげに言った。

 鷹勢はその話題には触れずに、質問を続けた。

「『天威神槌』と呼ばれる剣のことをご存じないでしょうか。」

「『天威神槌』………」

「私たちはその剣を探して旅をしております。」

 宮司は何も答えない。

「その剣には神の力が宿ると伝えられているものです。………何かご存じないでしょうか。………この社の伝承に、何か関係のありそうなことは伝わっていないでしょうか………」

(なぜ何も言わないのだろう。)武雲は思った。

 宮司は鷹勢から目をそらして俯いている。しばらく沈黙の時間が流れた。

「何も、知りません。我が社には、そのような伝承はありません。」宮司はか細い、哀しげな声で答えた。

「そうですか。」鷹勢は静かに言った。「有り難うございました。相継いでの質問の非礼をお詫びいたします。」

「いいえ、お気になさらないで下さい。」宮司の声はやはり哀しそうであった。

「今宵はもうお休みになりますか。」少しの沈黙のあとで宮司が訊いた。

「はい。そうさせていただきます。」

 宮司は二人に布団を用意してくれた。布団で眠れるなんて何日ぶりだろうか。それはとてもうれしいことであったが、武雲はどうしても心持ちがすっきりしなかった。

(この社には、それに宮司殿にも、解せないことが多すぎる。)

 武雲は鷹勢にいろいろと訊いたり話したりしたいところであったが、襖一枚隔てた向こうには宮司がいるので、何も言わずに目を閉じて眠りについた。


 武雲は夢を見た。おかしな夢であった。必死で前に進もうとしているのに、何者かがそれを阻んでいるのだ。その何者かは目に見えず、感触もない。だからどこにいてどうやって武雲の体を阻んでいるのかはわからないが、ただ武雲ははっきりとその意志を感じるのだ。武雲の前進を何が何でも止めようとするその意志を。それでも武雲は前に進もうともがいているのだが、どうしても我が身にまとわりついたその意志を振りほどくことができない。もうすぐそこに天威神槌が在るというのに、そのあと少しが進めずにいるのである。武雲はもがき苦しみ、まるで蜘蛛の糸のように絡みついたその意志を何とか断ち切ろうとして手足をめったやたらに振り回してみるのだが、そうすればするほど蜘蛛の糸はより強く、よりきつく絡みついてきて、よけいに武雲の体の自由を奪ってゆくのであった。そうやっているうちに武雲は目を覚ました。

 

 朝餉のあと、先に部屋に戻った武雲は出立の用意を始めた。そこに鷹勢が戻ってきた。鷹勢は武雲の様子を見て眉をわずかにぴくりと上げ、小さく息を吐いてから言った。

「しばらくこの社に留まることにさせてもらった。」

「えぇっ。」

「………」

「何で?先を急ごうよ、鷹勢」武雲が強い口調で言った。「西の大社はもうすぐ近くだし、それに……」武雲は周りをさっと見回すと、小さな声で続けた。「それに、ここには長居したくない。何か嫌な感じがするんだ。空気が粘り着くように重たい。」

「うむ…そうでもあるがな…」鷹勢も声を小さくして言った。「どうもこの社には、不思議なことが多い。それに宮司殿にも。」

 それは武雲も感じていたことだ。

「おそらく宮司殿は、天威神槌について何かを知っている。知ってはいるものの隠しているのだと思う。」

「………」

「この社自体も天威神槌と何かしらの関係があるのかもしれない。………もう少しいろいろと教えてもらえるよう、宮司殿に何とかお願いしようと思うのだ。………だがそう簡単には教えてくれぬだろうから、しばらくはここにいることになろう。」

「まぁ……、鷹勢がそう言うのならそうしよう。俺もこの社や宮司殿のことでは腑に落ちないことだらけなんだ。」

「………」

「でもさ、鷹勢。ここは本当に重苦しい。できるだけ早くここから離れたい。」

「わかった。」いつものように冷静な口振りで鷹勢は答えた。


 それから何日か経った。鷹勢は一日の多くの時間を宮司の傍らで過ごした。薪を割ったり、床を磨き上げたりしていた。何かしら話もしていたが、それは天威神槌のことではなさそうだった。鷹勢のそうした時間は、日を追うごとに長くなっていった。

 武雲は毎夜、同じ夢を見た。目に見えない蜘蛛の糸に絡み取られていく、あの夢だ。夢は日ごとに、まるで現実のことのように感じられてきた。目が覚めてもその感触が手足に残っている。今では目を覚ましている時でさえも、体全体がこの社の重苦しい空気に絡め取られているような感覚にとらわれていた。

 武雲は一日中、ほとんど何もすることがない。たまに一人で剣術の稽古をするが、一人ではたいした稽古にもならない。鷹勢はここに来てからは一度も稽古をつけてくれない。宮司とずっと一緒にいる。朝起きて、一日のほとんどをぼーっと過ごして、そして夜寝るだけだ。鷹勢は、夜は遅くまで宮司と一緒に本殿にいる。武雲は鷹勢が部屋に戻ってくる前に床につくのが常であった。

(鷹勢は大丈夫かなぁ?もう天威神槌を探すのやめにしたんじゃないだろうか?…いや、そんなことはあるまい。でも鷹勢、宮司殿に惑わされちゃったんじゃないのか?夜遅くまで二人で何をやっているんだろう。何か聞き出すことはできたのだろうか?…鷹勢は何も話してくれない。宮司殿とどんな話をして何がわかったのか、わからなかったのか。宮司殿の様子はどうなのか。少しは俺に話してくれてもいいのにな…)

 武雲は日ごとに苛立ちをつのらせていった。とうとう武雲は絶えきれなくなって、鷹勢にいろいろと訊いてみることにした。

 武雲は一日中、鷹勢と話をする機会を窺ってはいたが、その機会はとうとう得られなかった。鷹勢の傍らにはいつでも宮司がいたからだ。夜になって鷹勢が部屋に戻ってからでは、もうその話しを切り出せない。隣の部屋には宮司がいるのだ。

 武雲は蝋燭の灯を消して床につき、どうしたものかと思案した。武雲はなかなか寝付けなかった。随分と夜も更けた頃、鷹勢が回廊を通って部屋に戻ってきた。しばらくするとふすまの向こう側の部屋に、同じように宮司が入ってくる様子が伺えた。宮司は鷹勢とは反対側の回廊を通って部屋に戻っているのであった。

 次の夜、武雲は部屋の灯りを吹き消してから障子戸をそぉーっと開けて部屋の外に出た。細心の忍び足で武雲は本殿の方へと進んだ。何やら話し声がする。鷹勢と宮司が小声で話をしているようだが、その内容までは聞き取れない。あまり本殿近くまで行くと気配を察せられてしまう。武雲は自分たちに宛われている部屋と本殿との境目辺りで、板壁に身を寄せて蹲った。

 一刻ほどして、鷹勢が本殿を出ようとする気配が感じられた。武雲は閉じていた目を開けて立ち上がり、鷹勢が来るのを待ち構えた。鷹勢は武雲を見つけると一瞬小さく身を引き締めたが、武雲が人指し指を口に当てて鷹勢を制した。鷹勢は何事もないように武雲に近づいてきた。

武雲は両手の平を下に向けて、それを上下にゆっくり動かした。ここに留まってくれという合図だ。二人は息を殺してその場に留まった。少しすると、宮司が本殿から出ていき部屋に戻っていく気配が感じられた。もう間違いなく宮司は部屋で床についたであろうと確信してから武雲は、指で本殿のほうを指し示し、静かに静かに歩き出した。鷹勢も武雲の後に続いた。二人は用心深すぎる盗人のようにして本殿へと歩いていった。本殿に入ると武雲は、戸をそろりそろりと閉めた。

「夜中の本殿で、宮司殿と一緒に毎晩何をしているんだ、鷹勢。」その声はとても小さく、どうにか聞こえる程度であったが、強い口調であった。

「うん、あぁ……」いつもの鷹勢らしくない。

「何かわかったことはあるのか?」

「いや、まぁ…」

「いつになったらここを発つつもりなんだ?」

「今しばらくはここに留まるつもりだ。」

「何で?もうここに来てから随分になる。」

「………」

「天威神槌を探すのは、もうやめにしたのか?」

「いや。そんなことはない……」語尾がはっきりしない。どこか口を濁している。

「鷹勢、宮司殿に心を奪われたか?」

「………」

 鷹勢は否定しなかった。武雲は動揺した。しばらくは沈黙であった。気まずい沈黙である。

「鷹勢がここに残りたいというなら、それは仕方がない。ならば俺一人で行く。」

「いや、実はな…」

 あきらかに鷹勢は動揺していた。視線を武雲に向けない。こんな鷹勢を見るのは、武雲は初めてであった。野盗に襲われた時も、そしてまつろわぬ民の一団に襲われた時も、鷹勢は常に冷静沈着であった。

「実は、毎晩宮司殿と一緒に調べものをしているのだ。この社に宮司殿も知らない伝承があるのではないかとな。それで社に伝わる古文書や御神宝などを一緒に調べさせてもらっているのだ。」

「二人だけでか。しかも夜中に。」

「えっ、あぁ……」

「俺に知られては、何か困ることでも?」

「いや、そう言うわけではないんだが……」

「………」

「宮司殿はまちがいなく天威神槌について何かを知っている。本人は何も知らないと言ってはいるがな。おそらくそれは、一族のもの以外には明かすことの禁じられた秘伝なのであろう。それで……宮司殿に心を解いてもらいたい。我らのことを、我らが何のために天威神槌を探し求めているのかを信じてもらって、秘伝を明かしてもらいたいと思い、少しでも宮司殿と懇意になれるようにと、いつもそば近くにいるのだ。宮司殿はご自分の一族の来し方行く末や社の縁起などについてまだよくわからないことがおありで、それを調べたいとかねてから思っておいでだった。それで、宮司殿のお手伝いをしてこの社のことを詳しく調べていたのだ。それに調べているうちに天威神槌のことが何かわかるかも知れないし……。調べながら我らのことや我らがやり遂げようとしていることをいろいろと説明しながらな。」

 鷹勢の答えは、武雲の問いかけの答えにはなっていなかった。しかし武雲は、それ以上は問い詰めなかった。

「その名の剣について……」

 気まずい沈黙を破って、突然宮司の声がした。鷹勢も武雲も、一瞬心臓が凍りついた。二人は息を呑みこんだまま声のする方に顔を向けた。宮司がそこに立っていた。

「生前の父から伝え聞いております。」

 いつの間に本殿の中に入ってきたのだろう、いつからそこにいるのであろう。背筋がぞぞっとした。鳥肌が立った。驚いたと言うよりもそれは、恐怖であった。二人は目を見開いて、口は何かを話し出しそうに半開きとなったが、言葉は何も出てはこなかった。

「お察しの通り、それは我が一族の秘伝。如何なる人であろうともとも、それを明らかにすることはできません。」

 ごくりっと鷹勢は息を呑んだ。その音は本殿中に響いたように思えた。それから鷹勢は浅く息を吸い込んで言った。

「やはり…そうでしたか。」


 次の日の朝、朝食の後で鷹勢は久しぶりに武雲とともにいた。二人は社の境内に出て、空に淀み浮かんだ雲を透けて射してくる薄い光を受けながら、立ったまま話しをしていた。そう言えばこの社に来て以来、空にはいつも雲が立ちこめていて太陽の姿をはっきりと見ていない。

「宮司殿は秘伝を明かしてくれるだろうか。」武雲が言った。

「無理かもしれんが、そこを頼み込んでみるしかない。」

 今日の鷹勢は、ここに来る前の鷹勢であった。

 その日の午後、それまでどこで何をしていたのかわからなかった宮司が、奥から本殿の方に出てきた。二人は待ち構えたように ―実際待ち構えていたのであるが― 宮司の元に歩み寄った。宮司は本殿の回廊の上、二人は回廊の下である。宮司が二人を見下ろすような形になっていた。二人が近づくと、宮司は視線を武雲に落とした。まるで睨みつけるかのように、しかし哀しい瞳で。

「宮司殿、お願いがあります。」鷹勢が言った。

 宮司は黙っていた。

「何のことか察しはついていることと思いますが。………あなたの知っている天威神槌についての伝承を、どうか教えていただきたいのです。」

 幾ばくかの沈黙の後、宮司が応えた。

「昨夜も申しましたとおり、それは我が一族の秘伝。如何なることがあろうとも、お教えするわけには参りませぬ。」哀しい声で、哀しい顔で、宮司は言った。

「それは重々承知の上。我らは何としても天威神槌を見つけだし、手に入れたいのです。鬼へびを討ち倒したいのです。どうかお願いいたします。」鷹勢は強い眼差しで宮司に頼み込んだ。

 武雲も同じ目をしていた。鹿渡を発ってからどれほどの月日が経ったことか。いくつの神社を訪れたことだろうか。いったい何人、何十人の人に剣のことを尋ねたろうか。長い旅を続けてきて、初めて天威神槌について何かを知るという人と出会ったのである。

「あなた方の目的はわかりました。もうあなたから何度もお聞きしましたもの。気高いことだと思います。我と我が身を犠牲にしてでも、やり遂げようとのご決意。まことに深く感じ入っております。しかし、それはこの社の宮司にのみ伝えられる秘伝中の秘伝。たとえ我が一族の者であろうとも、この社の宮司にあらざる者にはいっさい明らかにされない伝承です。お教えすることは決してできないのです。」

「すべてとは言いません。天威神槌がどこにあるのか、どうすれば手に入れられるのか。せめてその手掛かりだけでもいいのです。どんな些細なことでもいいのです。どうかお願いいたします。」

「できません。我が一族もこの社も、その伝承を守るためだけに、守り続けるためだけに生き永らえ、そして存在してきたのです。決してできないことなのです。」

「その伝承にはおそらく、天威神槌を使いこなせる選ばれし者が現れて、鬼へびを打ち倒してくれるというようなことが語られているのではないですか。」

「………」

「その選ばれし者が、或いはここにいるこの武雲かも知れないのです。」

 宮司はまた、凍りついたような冷たい、そして哀しい目で武雲を見た。

「ある方が、或いはそうかも知れぬと言っておりました。」

 宮司はぐっと武雲を見つめていた。その視線が武雲には恐ろしいほどであった。

「宮司殿の目にも、その方と同じように、武雲が選ばれし者であるかも知れぬと映っているのではないですか。」

 宮司はただ黙って武雲を睨みつけるだけであった。

「その方の一族も、いにしえよりの伝承を守り伝えてきた一族です。………その方の話を聞いて私たちは天威神槌の存在を知り、それを求める旅に出ました。………宮司殿の一族も、そしてこの社も、天威神槌の伝承を守り、伝えてきたのではないのですか。………どうか私たちにその秘伝を開き示してください。お願いいたします。」

「お願いします。」武雲も、宮司を見つめ返して言った。

 長い沈黙のあとで、宮司がようやく口を開いた。

「できません。……何ゆえ伝わっているのか、何ゆえ伝えてきたのか。その理由はもはやわかりません。おそらく遠い過去に失われたのでしょう。わたくしはただ、我が一族の秘伝を守り、そして次の宮司に伝えるのみ。」

「宮司殿、今この時の宮司であるあなたが、その秘伝を私たちに解き示すことを決断することはできませんか。」

「そうは言われましても、これは我が一族が何代にもわたって守ってきた秘伝。わたくしの一存でその戒めを破るなど、到底できぬことです。もうこの話はやめにしましょう。」

 そう言うと宮司は体を翻し、奥の方へと戻っていってしまった。

 宮司の後ろ姿が見えなくなってから武雲が言った。

「宿禰殿みたいに…さわりだけでも教えてくれるわけにはいかないのだろうか。」

「まあ、宮司殿の言うことも尤もではあるがな。」鷹勢が半ばあきらめ顔で言った。「しかし…それだけではないようだな。」


 武雲は夢を見ていた。いつもと同じあの夢だ。もがいてももがいても前に進めない。すぐそこにある天威神槌に近づくことができない。必死で前に進もうとするのだが、手足はどんどん重くなってくる。そのうちに武雲の後ろから誰かの声がした。

「渡さぬぞ、お前には。渡さぬぞ。」

 振り返るとそれは、白装束の巫女であった。

「渡さぬぞ、お前には渡さぬ………」

 振り向いた時には一人だった巫女が、二人になり、さらに四人に増えた。

 巫女の数はどんどんと増えていき、とうとう武雲のまわりを何十人という巫女が取り囲んで同じ言葉を繰り返している。

「渡さぬぞ。渡さぬぞ。お前には渡さぬぞ。渡さぬぞ………」

 その言葉が武雲の頭の中で反響し共鳴しあって、わんわんとうねるように響いた。

「うううう………、うぅうわぁ。」武雲は布団の上に上体を跳ね起こした。

 夢とわかって人心地ついた武雲は、鷹勢のいないことに気がついた。昨夜はともに床についたはずであったが、今は姿がない。武雲は耳を澄まし、襖の向こう、宮司の部屋に神経を集中させた。人の気配は感じられなかった。目を閉じ、体全体を研ぎ澄まして本殿の方に気を集中させてみた。人の話し声が聞こえる。また鷹勢と宮司が二人きりで何事か話しているのだ。真夜中に。


「どうしたら教えていただけるのでしょうか。………私たちは、命さえも懸けているのです。………」

 鷹勢が何を言っても宮司は沈黙したままであった。鷹勢もそれ以上は何も言わず、長い沈黙が続いた。

 本殿の隅に灯る蝋燭のまわりに、季節遅れの一匹の蛾が舞い飛んでいる。蝋燭の明かりに照らされて、蛾の羽から舞い上がった鱗粉がゆっくりと落ちていくのが見える。

「あなた様が今夜もここに参られると思っておりました。」

 突然、宮司が口を開いた。しかし話題は先程までの鷹勢の言葉とは大きくかけ離れていた。戸惑いながらも鷹勢は応えた。

「私も、宮司殿が参られると思っておりました。しかし不安もありました。もう私とはお話をしていただけないのではないかと。」

「わたくしも同じように不安でもありました。もしや、あなた様はもうこちらにはお出でにならないのではないかと。もうわたくしと二人切りの時間をお過ごしになってはくれないのではないかと。」宮司が頬を染める。

「………」

「毎夜毎夜のこの時は、わたくしにとってとても大切な時間です。」

「それは私にとっても同じこと。」鷹勢も顔をやや上気させていた。「………しかし……しかし宮司殿がどうあっても秘伝を明かすことはできぬというのであるならば、我らは宮司殿のお力添えをあきらめ、一刻でも早く秘められた剣を探し出せるよう、早々にこの社を発たねばなりません。………」

「………お話ししても同じこと。もしもわたくしが、我が一族の伝承をあなたに明かしたならば、あなたはすぐにも剣を求めてここを出て行ったでしょう。」

「………」

「それが理由でお話しなかったわけではありませんが……」

 またもや沈黙の時が流れた。鷹勢は真正面から宮司の目を見つめている。しかし宮司は顔を少し俯かせ、哀しげな目で、蝋燭の灯りに引き寄せられて舞い飛ぶ蛾を見つめていた。

「それほどまでにお望みであるならば………」

 鷹勢の両の眉がわずかに上がった。

「それほどまでに強く求めておいでになるのならば………お教えしましょう。」

「な、何と。」

 鷹勢は目を大きく見開いた。正直なところ、もはやあきらめていたのである。鷹勢は腰を浮かせ、片膝を一柄ほど前にぐいっと進めて身を乗り出すようにした。

「何と、何と有り難きこと。」

「けれども……」

「けれども?」鷹勢は小さく眉を寄せた。

「けれども……、あなた様にも………」

「私にも、そのために何かしなければならないことがあるのですね。」

「はい……」

「何をすれば、どうすれば教えていただけるのか?」

「もしも………」

「もしも?」

「もしもあなた様がわたくしと、夫婦めおとの契りを結んでくださるというのならば……」

「えっ。」鷹勢の発した声は小さなものであったが、驚きは大きかった。

「わたくしに、我が一族に跡継ぎをもうけさせてくださるのならば………」

 鷹勢は体を元に戻し、座り直した。

「さすれば我が一族の秘伝、あなたに明かしましょう。」

 鷹勢は目を閉じた。眉間には深くしわが寄っている。

「わたくしには跡を継ぐ者がおりません。………このままでは我が一族の血脈は絶えてしまいます。………それではこの社の伝承も後世に伝え残していくことができない。わたくしには跡を継ぐものが、そのための伴侶が必要なのです。………あなたとわたくしの間に子が授かれば、あなたはこの社の次の宮司の父。そうなれば、あなたに我が一族の秘伝を示すのに何の差し障りがございましょう。………あなたが知ったその伝承を誰にお話しになろうとも、わたくしはそれを咎め立てたりしますまい。ですがあなたには、わたくしと夫婦となったあなたには、この社に残っていただきます。」

「では剣は、天威神槌は武雲一人で手に入れろと。」鷹勢は目を開いて言った。

「わたくしからは、そのことについては何も申し上げることはございません。」

「年若い武雲一人では、おそらくそれは無理なこと。」

「そうでしょうか。」

「それならば、あなたから教えていただいたとしても無駄ということです。」

「武雲殿は一人でも立派にやり遂げられるのではありませんか。選ばれし者であるならば。」

「その申し出は受け入れられません。」

「なにゆえに……、なにゆえにあなたは、武雲殿を手助けするためだけに生きるのですか。………命を懸けて鬼へびを打ち倒そうとするのですか。………あなたご自身の人生はどこにあるのです?」

 そう言いながら宮司は鷹勢に躙り寄ってきた。

「あなたの人生はあなた自身のもののはず。………あなたはあなたの人生を楽しく生きればよいではありませんか………」

 宮司は座っている鷹勢の左の腿に、柔らかに右手を乗せた。鷹勢は片眉をくいっと上げて宮司を見た。

「他人の幸せのために自分の人生を懸けるよりも、わたくしとこの社で楽しく生きて参りましょう。わたくしととも幸せに暮らしましょう。………」

 宮司のもう片方の手が鷹勢の右の脇を抜け、その細い指先が背中に触れた。

「武雲殿が選ばれし者であろうがなかろうが、それはあなたとは何の関わりもないことではありませんか。………」

 宮司の右頬が、鷹勢の左の頬に重なる。

「鬼へびを倒すこと。それは選ばれし者である武雲の人生。………」

 鷹勢の左の腿に置かれていた宮司の右手が、鷹勢の首にまわされる。

「あなたはあなたでわたくしとともに、あなた自身の人生を生きようではありませんか。………」

 宮司は両の手にくっと力を込めた。蝋燭のまわりを舞い飛んでいた蛾が、とうとう火に近づき過ぎて、焼かれて落ちた。

「蝋燭の火に魅いられて、その火に触れんとして焼かれて死んだ蛾と、火に近づくことをためらって、わずかに命永らえた蛾と、どちらの生き方がより幸せであったでしょうか。………」

 宮司の唇が鷹勢の耳に微かに触れる。

「人の一生は一刹那。悠久の時の中では、ただひとたびの蛍の明滅に過ぎません。苦しみと絶望に満たされたこの世ならば、その身を己が心の欲するままに任せて生きる方が幸せだとは思いませんか……」

 宮司は体を鷹勢にもたせ掛かり、鷹勢をゆっくりと押し倒していった。

「わたくしとともに………堕ちてまいりましょう………享楽の泉の…深い深い水底みなぞこへ………」宮司は鷹勢の耳元で囁いた。

 宮司の息が優しく鷹勢に耳にかかる。宮司のささやきは鷹勢の鼓膜に甘く絡みつき、そして頭の奥へと入り込んでいった。暖かく柔らかい蜜となったそれは頭の奥深くに沁み込んでいき、頭の中の一番深いところにある芯の部分を麻痺させていく。鷹勢は床に押し倒され、宮司は鷹勢の上に自分の体を重ねていた。宮司の左手は鷹勢の胸を、右の手は鷹勢の額から左の頬を優しく撫で、鷹勢はゆっくりと目を閉じた。宮司の唇はゆっくりと、鷹勢の唇に重ね合わされようとしていた。鷹勢の体には心地よい痺れが広がり、宮司のささやきに溶かされていった。

 しかし鷹勢はその甘美な感覚に抗い、目を見開いた。意識の奥の奥の方、何者も入り込むことのできない場所で、鷹勢は言葉にはできない違和感を感じていた。右手で宮司の左の肩をぐっと掴み、その体を自分の体から引き離した。鷹勢の頭の中で堅く強い何かが目を覚ました。暖かく柔らか蜜は、頭の芯から一気に引いていった。

「できません。」鷹勢は少しの動揺も見せずに、乾いた口調で言った。

 鷹勢は宮司の肩を片手で掴んだまま上体を起こしていった。それにともなって、鷹勢の体に乗りかかるようになっていた宮司も、上半身を起こされた。宮司の肩を掴む鷹勢の手の力はさして強いものではなかったが、その腕にはまるで岩のような厳然とした堅さがあった。

「それはできません。私は武雲とともに魔を打ち倒すと決めたのです。魔を打ち破ることが武雲の使命ならば、それを支え助けることが私の使命。一切は私自身が自ら決めたこと。私の意志、それがすべてです。」

 幾ばくかの沈黙であった。長いようにも、また短いようにも感じられた。宮司の目は、哀しくはかなげな色をたたえていた。

「あなたも………鷹勢殿もわたくしと同じお気持ちと思っておりましたのに。………私の思い違いだったのでしょうか。………あるいは、天威神槌を手に入れんがため、わたくしを籠絡したのですか?」

「私も………、私もあなたには特別な思いを抱いておりました。しかし、しかしそれは………あなたは私がかつて愛したお方とよく似ている。まるで生き写しだ………」そう言った鷹勢の表情は少し沈んでいた。「それゆえ私はあなたを……決して天威神槌を手に入れるために、手段を選ばずあなたを騙そうとしたわけではございません。」

「それではなにゆえに………なにゆえにあなたはわたくしを拒むのですか。なにゆえにあなた自身の気持ちに素直になろうとしないのですか。」

「先ほども申したように、天威神槌剣と、そして武雲こそがわたしの意志。そしてそれが我が使命、我が天命です。」

「わたくしは、あなたを愛しておりましたのに、あなたも愛してくださっていると信じておりましたのに。………この数日の間、二人だけでともに過ごした時間の何と濃密であったことか。どれほど満たされていたことか。どんなにか幸福であったことか。………それもこれも夢幻ゆめまぼろし。わたくしには、人並みの幸せは所詮訪れない運命さだめ。」

運命さだめ……」

「ならばわたくしは………わたくしはあなたを殺さなければならない。」

「はっ?」

「生まれて初めて愛した人を、わたくしは殺さなければならない。」

「なぜ……」

 そう言いかけた鷹勢は、宮司の目を見て言葉を飲み込んだ。哀しくはかなげであった宮司の目には、今、憎しみと怒りとが溢れていたからである。宮司は鷹勢の手を撥ね除け、ぐるりと一回転して身を立ち上げた。衣が大きくふくらんで、宮司の体のまわりを舞い回った。立ち上がった宮司の手には、短い剣が逆手に握られていた。目の奥に澱んで鈍い煌めきを放つくらい意志はさらにその濃さを増し、顔はもはや般若の形相となっていた。目はつり上がり、口は歯を食いしばって横真一文字に結ばれている。ほんのわずかな間で、まるで別人のような容貌の変わりようである。

「武雲を助け導き、天威神槌を見いだすことがあなたの天命ならば、あなたと武雲とをこの世から消し去ることがわたくしの天命。」

 そう言って宮司は鷹勢に斬りかかっていった。

「鷹勢っ!」本殿のそば近くに蹲り、中の様子を窺っていた武雲は、その気配を感じて叫んだ。

 武雲が本殿に駆け込むと、鷹勢と宮司が向かい合い、睨み合っているところだった。宮司が幾度か鷹勢に斬りかかり、鷹勢はそれをかわしていたのだろう。二人とも息が荒くなっている。

「手を出すな、武雲。」武雲の姿を認めた鷹勢が言った。

 宮司は武雲に一瞥を投げると、また鷹勢に視線を戻して斬りかかった。鷹勢は宮司の短剣をかわし、短剣を持った宮司の右手を取って宮司を本殿の床に投げ倒した。

「なぜ私を斬ろうとするのか。」鷹勢が言った。

「そなたが我が手に落ちぬのならば、あとは殺すしかない。」

 そう言いながら宮司は、素早く身を起こした。

「私を殺さねばならぬわけは?」

「それがわたくしの運命さだめ。」

運命さだめとは……運命とはいったいどういうことだ。」

 それには答えずに、宮司はまた鷹勢に斬りつけた。鷹勢は身を翻してその切っ先を避け、またもや宮司を投げ倒した。宮司は今度も素早く身を起こし、そして短剣を構えた。

「我が一族に、生まれし者の宿命だ。」

 そう言いながら宮司は鷹勢に斬りかかった。鷹勢は今度は身をかわさずに、斬りつけてきた宮司の右腕を真正面で受け止めた。そしてその右腕をたぐるように引き寄せ、宮司の体を、大きな弧を描いて投げ飛ばした。

「うぐぅっ。」宮司が妙な声をあげた。

 握りしめた短剣の切っ先が、倒れた勢いで自分の腹に突き刺さってしまったのである。宮司は投げ飛ばされても短剣を握ったまま離さなかったためにうまく受け身が取れず、右肘の関節がはずれてあらぬ方に曲がってしまったのであった。

「しまった。」鷹勢は思わず声をあげた。

「あっ。」武雲も同時に声を出した。

 鷹勢は宮司の元に駆け寄り、宮司の上体を抱えて仰向けにした。

「すぐに手当を。そうすれば命に関わるほどの傷ではない。」鷹勢は短剣の刺さった様子を見ながら言った。

「そうであるか。」宮司はそう言うや否や、左手で自分の腹に突き刺さった短剣を掴み、腹から引き抜きざま、鷹勢の顔面に斬りつけた。

「うっ。」鷹勢は仰け反りながら声をあげ、そして宮司から手を離し体を捻りながら後ろに倒れ込んだ。

「鷹勢っ。」武雲が叫んだ。

 鷹勢は倒れ込んだ勢いのまま体を一回転させ、片膝立ちに起き上がった。顔の右半分を押さえた右手の下や指の間から血が流れていた。

「鷹勢っ、大丈夫か。」武雲が鷹勢の元に走り寄った。

「大丈夫だ、深手ではない。」

 そうは言うものの鷹勢は右手を顔から離さず、そして左目は宮司から逸らさなかった。

 宮司は床に横たわったまま、苦しそうな浅い息を繰り返していた。宮司のまわりは夥しい血が溜まっていて、その血は見る見るうちに広がっていった。腹に突き刺さった短剣を引き抜きざまに斬りつけたので、自らの腹部をも大きく切り裂いてしまったのである。

「なぜ自分の身を犠牲にしてまで………」鷹勢が言った。

「お前たちと同じであろう。」宮司は苦しそうに言った。「我が一族の、それが宿命。」

「それほどまでの……いったいどんな宿命だというのだ。」

「わたくしも……わたくしも人並みに生きていきたかった。自ら望んだわけではないのに………この一族にたまたま生を受けたというだけで………あなたとともに生きていきたかった。………誰も愛さず、誰にも愛されず。………それがわたくしに許された、ただひとつの人生。………それでも……あなたのおかげで束の間夢を見ることができた。………しかしあなたは、天威神槌を求めんとする者。………しかもこの、武雲とともに現れた。………あなたの言うとおり、武雲はまさしく希人。………あなたを我がものにして、武雲は亡き者とする。あなたと引き離してしまえば、今の武雲を始末するなどたやすいこと。………そうすれば…わたくしはこの先あなたとともに、幼き頃より密かに思い憧れた人生が送れるものと思ったのに………お前のような者が現れさえしなければ……」

 宮司は顔を動かすことさえできず、横目で武雲を恨むように見ながら言った。しかしその目にはもう、睨みつけるだけの力が残っていなかった。

「お前のような愚か者が現れることがなければ……我が一族の伝承も、存在すらしないものを……さすればわたくしも人並みの一生を送れたであろうに………お前は…或いは人の世に光をもたらす……選ばれし者なのかも知れないが………もしそうだとすれば……我が一族にとって……おまえはただの災厄………」

 宮司の言葉が途切れ途切れになってきた。

「教えてくれ。」鷹勢が言った。「あなたの一族に伝わってきた天威神槌の伝承を。」

 宮司は弱く浅い息をしながら、今度は本殿の天井に目を向けていた。しかしその目はもはや何も見てはいなかった。

「我らの盟王、……復活されんとする時、………禍厄かやくの剣天威神槌を以て……我が盟王を再び打ち破らんと、………剣を求める者、現れん。………禍厄の剣を……人の手に甦らせる…べからず。………剣を求めんとす…るもの、……ことごとく………その命奪うべし。」

 宮司は「はぁ………はぁ………」と小さな息をしながら、静かに目を閉じた。そしてその小さな息も、一息ごとに、さらに弱く小さくなっていき、そして一息少しだけ長く吐き出すと、それが最後の息であった。右目から一筋の涙が右の頬を伝って落ちた。

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