弐十壱

「おいっ!武雲。」

 いつもの樹の、いつもの太い枝の上で、組んだ両手を枕にして武雲は寝そべっていた。片膝を立て、もう片方の足はだらんと垂れさげて、眠っているわけではないが目を閉じていた武雲は、突然の樹下からの呼びかけに少なからず驚いた。聞き慣れた声ではあるがここのところ聞いてはいなかった声が自分を大きく呼んだからである。武雲はびくっとして体を半分起こし、樹の下を見下ろした。

「………」大樫の根元に鷹勢と逆登実が立ってこちらを見上げている。

「ああ、鷹勢。」武雲は枝に座り直して気のない返事を返した。

「武雲、宮京に戻ってくれ。」

 武雲は黙っている。

「宮京には思った通り、野心を抱いた豪族がやって来た。………おまえが宮京に戻らないと、この国は治まらぬ。」

 武雲を見上げていた逆登実が、眉毛も目もぎょろっと動かして鷹勢の顔を見た。

「………おい。俺もそこまで登っていくぞ。」

「ああ。」武雲が初めて応えた。

 鷹勢はひょいひょいと身軽に樹を登っていった。

「ほぉう、なかなか気持ちのいい場所だな。」

「ああ。」

 鷹勢は武雲の座っている近くの枝に腰を下ろした。

「ふぅーー…」鷹勢は気持ちよさそうに息を吐いた。

 下では逆登実があっちへ二歩、こっちへ三歩と、樹上をちらりちらりと見ては体を揺さぶりながらうろうろしている。意を決した逆登実は二人の登っている木から五尋ほど離れたところで、二人に背を向けて地べたにどっかと座り込んだ。そして腕を組んで背中を二―三度もぞもぞと動かしたあと、がっくりと頭を垂れた。

「箕輪玖麻という男が、一族郎党を率いて宮京の近くに陣を布いた。」鷹勢はやや小声で話した。「おまえの即位を認めないと言っている。」

「おれは……大王の位に即く気などない。」

「玖麻は自分が大王になろうともくろんでいるのだ。」

「よかったじゃないか、自分から大王になろうという者がいて。大王になってもらえばいい。」

「昨日の朝、宮に攻めかけてきた。………しかし宮を守っている宿禰殿の手勢と剣を僅かに打ち合わせただけで、素早く軍を退いていった。………おまえの力を怖れているのだ。………おまえが宮にいないことはまだ知られていないからな。………しかしそのうちに知られる。………知れば箕輪は躊躇することなく、全力を挙げて宮を攻め落としにくる。………斑殿の率いる伴部の軍勢が来れば宮を守ることもできようが………。守りきれるか落とされるか………大きな戦乱となることは間違いない。」

「?…その箕輪とかいう豪族に宮を明け渡せばいいじゃないか。そうすれば戦乱も起こらずにすむ。」

「そんな簡単なことではないのだ、武雲。………箕輪玖麻が宮に入れば、今度はほかの豪族が玖麻を打ち倒そうと宮を攻める。………玉座への野心を持つのは箕輪だけではないからな。………今こうしているうちにも、豪族どもが軍を整えて宮京を目指していることだろう。………豪族どもが相争い、何年も何年も戦乱が続くことになる。」

「ならば勝ち残った者が、大王となればいい。」

「豪族たちはそれでいい。しかし民たちはどうなる。国中で戦乱となる。戦乱で命を落とす者もでよう。生き残ったとしても家族を亡くし住むところをなくし、田畑は荒れ食べるものもろくにない。この鹿渡だって、戦乱に巻き込まれてしまうのだぞ。………おまえしかいないのだ武雲。………おまえがあの大きな力を豪族達に見せつけて大王として君臨することだけが、戦乱を避けるただ一つの手だてなのだ。………おまえだけが、民たちの大きな苦しみを未然に防ぐことができる。」

「………………」

「……戻れ武雲。宮京に戻って大王となれ。」

「いやだ。大王にはなりたくない。父を玉座から追いやり、その玉座に自分が座るなど、絶対にできない。」

「大王は、楠岡の大王は民の力によってその座を追われたのだ。おまえが追いやったのではない。前の大王が玉座を追われたのは、自らの行いの報いを受けたのだ。」

「………いや。…できない。」

「………民が、多くの民が苦しむのだぞ。今まで散々苦しんできた民たちが、これからも苦しみ続けるのだぞ。」鷹勢は目を赤くして武雲を見つめた。

 しかし武雲は鷹勢から顔をそらして何も言わなかった。暫くは沈黙であった。武雲をもはや睨むように見つめる鷹勢から顔をそむけ、武雲は哀しい瞳で遠い空を見つめていた。

 鷹勢は樹を下りていった。大樫から下りてきた鷹勢に逆登実が駆け寄ってきた。鷹勢は樹上の武雲を見上げて大きく息を吸い込んだが、言いかけた言葉を飲み込んだ。

「宮京に戻る。」鷹勢は逆登実に言った。

 逆登実は何かを言いたげに口を開いたが、その逆登実を鷹勢は静かな瞳でくっと見返した。それを見て今度は逆登実が言葉を飲み込んだ。

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