弐十六

「皆、疲れ切っておりますな。」宿禰が多宜留に言った。東の空にようやく赤みがさしてきていた。陣の内では兵たちは皆、何かに寄りかかったり互いに寄りかかりあったりして、楯で身を覆い隠し、剣を抱え込んだままうとうとしている。

「はい。二日続けて夜討ちにあい、気も体も張り詰めたままです。」

「雄足が攻めかかってきてからというもの、江連を退ければ鬼へびが現れ、鬼へびをやり過ごせば黒備え・黒装束の彼奴かやつらの夜討ちと、一日も休めることができません、気も体も。」斑が兵たちの様子を眺めながら言った。

「おそらく今日は、雄足がまた攻めてくる。」

「今日ですか。」

「儂ならそうする。」

「我らが疲れ切っていることはわかっているじゃろうし、このままでは彼の者たちに楠岡を奪われてしまうかも知れぬとも思っているじゃろうしの。」

「暫くは、鎮まっているだろうと思っていたのですが…」

「それを望んでいるようじゃのぉ。」

「は?」

「楠岡が争い乱れていること。それを望んでいるようじゃ。」

「誰がです?」

「彼の者たちも、そして鬼へびも。」

「鬼へびも?」

「うむ…」

「確かにそのようにも考えられますな。しかしなぜでしょうか」

「わからぬ。」


 東の空は次第に青みがかり、辺りがようやく明るくなってきた。

「来ます!江連です!」

 陣の北側の見張り番が声を上げた。

 雄足を先頭に、江連の全軍が岡をゆっくりと駆け上がってくる。雄足が右手を挙げると、江連軍は足を止めた。陣の内からの弓矢がまだ届かない距離である。江連軍は隊列を整え直す。

 雄足が剣を抜いて頭上にかざした。

「来るぞ!弓構え!」多宜留が命じる。

「掛かれーっ!」雄足が剣を振り下ろしながら叫んだ。

 ―うううおおおおぉ―

 地鳴りのような声とともに、江連軍が岡を駆け上がってくる。

「放てーっ!」

 多宜留の号令で、矢が雨のように江連軍に降りかかる。江連軍は矢に射られて倒れる者を踏み越え乗り越えて、頂に迫ってくる。

「放てーっ!放てーっ!!」

「怯むなーっ!攻め掛かれーっ!!奴らは疲れ切っておるっ!楠岡を奪い取れーっ!!」

「剣を抜けーっ!……掛かれーっ!迎え討てーっ!!」

 伴部の兵たちが岡を駆け下りて江連軍を迎え討つ。人と人がぶつかり合い、剣と剣が打ち合わされる。斬られ、或いは突き刺されて倒れる者。戦いの緒は互角であった。そこに江連軍の両翼から和智と大衛の軍が攻め上ってきた。

「厳蔵の軍は西側の、和智軍にあたれーっ!」

 伴部軍の後に控えていた厳蔵軍が西に動いて和智軍と剣を交える。久家の軍が陣を出て、大衛軍を迎え討つ。久家は南東から機を窺う鏑木の押さえに一隊を置き、さらに後詰めとして岡の頂に残りの軍を布陣させた。

 伴部と厳蔵の軍は次第に劣勢となり、押し込まれてくる。久家がその戦線に援軍を送る。頂の手勢が薄くなったのを察知して、鏑木が攻め掛かってきた。久家軍がそれを押しとどめる。久家軍の奮戦により戦はまた五分と五分となり、一進一退の攻防が続く。そこへ…

 頂の南西側から一隊が侵入してきた。声を上げることなく攻め入ってきた者たちは、黒の彼奴らであった。不意を突かれた久家の兵たちは混乱を来たし、岡の頂でも乱戦となった。楠岡は混乱の坩堝と化した。

 戦いの騒音と喚声の中。

 ずずぅうん……

 地響きとともに音がする。

 ずずぅうん……

 地面の揺れるのもはっきりと感じ取れる。

「鬼へびだ…」

 ずずぅうん……

「鬼へびだーっ!」

「鬼へびが来たぞーっ!」

「鬼へびだーっ!鬼へびが向かってくるぞーっ!」

「鬼へびが来るぞーっ!南から来るーっ!」

 戦っていた者たちの動きが止まる。誰もが南に目を向けた。

 ずずぅうん……

「んぐぅおああーー!!」

 鬼へびが真っ直ぐに宮に向かって緩やかな岡を登ってくる。

 戦いは止まった。どの軍の兵も鬼へびの動きを見ている。鬼へびが岡を登ってくる。地響きと吼え声とともに。

「退けーっ!退けーっ!!」

「退けーっ!退け退けーっ!!」

 すべての軍で退却の命が号された。伴部と厳蔵と久家の兵たちは、岡の頂へと戻り、ほかの豪族の兵たちは、自陣へと退いていった。混沌としてはいたが、斬り合い、討ち合いはなく、ただぶつかりぶつかられしながら、それぞれの陣に急いだ。

「陣を調えよ!」江連雄足が号令する。(鬼へびの狙いは岡の頂、宮の地のみ。逃げ場のない今、伴部たちは鬼へびに壊滅させられるぞ。それを待って楠岡の頂を奪い取るのだ。)

 戦乱を眩しく照らしていた朝の陽を、湧きおこった黒雲が覆い隠す。それは岡にいるすべての者たちの胸に、ざわついた捉えどころのない不安を憶えさせる。

「どうにも…打つ手がない……」伴部多宜留は絞り出すように言った。

 鬼へびを追い返すことはできない。このままここにいては、鬼へびに滅ぼされてしまう。鬼へびをやり過ごすために岡の頂を下りれば、待ち構えている江連らの軍の餌食になる。遠く聞こえだした雷鳴が、岡の頂で息を潜めている者たちの恐怖をつのらせる。

 ずずぅうん…………ずずぅうん…………

 鬼へびが迫ってくる。

「ぅぐぅああーー!!」

 鬼へびの吼え声だけが響き渡るが、頂は静まりかえっている。雷鳴が近づく。稲妻が走る。

 ひときわ強い稲妻が雷轟らいごうとともに天から降りて来た。

「んんぎゅうおああーー!!」

 雄叫びを上げた鬼へびが向きを変えて頂に背を向けた。その背には大きな傷ができており、傷からは黒い煙が燻るように出ていた。背を向けた鬼へびのその先、馬上に剣を高く掲げ持つ者の姿があった。

「武雲様だ!」靫田が言った。

「武雲様だ。間違いない!」斑も言った。

「おお武雲じゃ。」宿禰の目にもはっきりとその姿が認められた。

「あれが天威神槌の力か…」多宜留が言った。

「まさに天の力、神の力のなせる業…」可尾留が言った。

「武雲様が戻られたーっ!」斑が叫んだ。「武雲様が戻られたぞーっ!!」

「武雲様が戻られた?」

「あれが武雲様か。」

「あの方が…」

「武雲様が戻られたーっ!」

「武雲様が戻られたぞーっ!」伴部と厳蔵の者たちは口々に叫んだ。

「武雲…戻ったか…よく戻ってくれた…」

 頂から見えるその姿の後には、さらにもう一騎の武者があった。

 空はさらに厚く黒雲に覆われ雷鳴は轟き響く。

「武雲様が、戻られたーっ!」斑が剣を振るいながら叫ぶ。「もはや鬼へびは恐れるに足りぬ。武雲様が神の剣で鬼へびを打ち倒してくれるぞーっ!」

「おおおーーっ!」歓喜の応えが響いた。


「神の剣?」

 しかし頂近くに潜んでいた黒備えの彼の者たちは、斑の言葉に暗い反応を見せた。

「剣の使い人……」

「あれが剣の使い人。」

 彼奴らは武雲のみを見据え、湧き出るように岡を駆け下りていった。

 武雲は馬の足を止め、鬼へびと睨み合っていた。その武雲に向かって彼奴らが迫ってくる。

「あの者たちは、お前を狙って駆け下りてくるようだな。」武雲の横に馬を並べた鷹勢が言った。「鬼へびに加勢しようということのようだ。」

 彼奴らが斬りかかってきた。がぎっ!打ち下ろされる剣を受け止める。すぐさま横から別の者が斬りかかってくる。ぐごっ!それをまた受け止める。逆側から剣が突き伸ばされてくる。何とかそれをかわす。武雲も鷹勢も馬から降り、背中合わせになって黒の者たちに相対した。雷電と雷鳴の中、次々に襲ってくる彼奴らの剣を、武雲も鷹勢も何とか受け止め跳ね返す。鬼へびは再び向きを変え、岡の頂に向かって足を進めだした。

「んぐぅうあぁあぁあーーーっ!」岡の頂に向けて足を進める鬼へびが吼える。

 その姿を目で追いながらも、武雲は雷電を鬼へびに撃ち込むことができない。黒の者どもに斬りかかられ打ちかかられするのを防ぐのに手一杯である。鬼へびどころか彼奴らに反撃することすら難しい。

「続けー!!」斑が号令とともに頂を駆け下りた。「武雲様を守るのだーっ!我に続けーっ!!」

「おおーーっ!!」一群の騎馬武者が斑に続く。

 鬼へびを大きく迂回して頂を駆け下りた斑が、ようやく黒武者たちに斬りかかった。数人の黒武者が斑に対する。斑に続いた騎馬武者たちも、次々と黒武者に斬りかかる。斑は血路を切り開いて武雲の側まで辿り着いた。

「武雲様っ!」

「斑殿。」

「少々遅いです。」

「申し訳ありません。」

「うぐぉおおおーー!!」鬼へびが頂に近づいていく。

「武雲様、鬼へびを頼みます。」

 武雲は天威神槌を頭上高く振り上げた。その瞬間、黒武者が武雲に斬りかかった。武雲は身を翻してその剣をよける。鷹勢が武雲に斬りかかった黒武者を突き刺した。斑に続いてきた者たちも皆、武雲を取り囲むようにして戦っている。しかし一心に武雲のみを狙ってくる彼奴らをなかなか防ぎきれない。鬼へびは一歩、また一歩と頂に近づいていく。武雲はもう一度天威神槌を振り上げ、すぐさま鬼へびの背に向かって振り下ろす。切っ先に僅かに振り降りた雷電が、細い雷刃となって鬼へびの背を斬りつけた。しかし鬼へびは、一時足を止めはしたものの振り返りもせず、ひと声吼え上げるとまた頂に向かって進み出した。

 空はいよいよ厚く黒雲に覆われ、稲妻が走り雷鳴は轟いている。しかし武雲はその雷電を我がものとすることができない。雷電をしっかりと受け入れるだけの時を与えてもらえない。彼奴らに打ちかかられて応戦せざるを得なくなってしまうのだ。彼奴らはすべて、武雲ただ一人を狙って来る。鷹勢や斑たちがそれを防ごうと闘ってはいるが、すべてを防ぎきることはできない。武雲も彼奴らを相手に闘わなくてはならないのだ。

 武雲が天威神槌を高く振り上げる。黒武者が武雲に斬りかかってくる。鷹勢がその黒武者の剣を自分の剣で受けるや否や、返す剣で斬り倒した。空に雷電が走り武雲の掲げる天威神槌に降り下りてくる。また別の黒武者が武雲に斬りかかってきた。武雲は反射的にその男の剣を天威神槌で受け止める。

「ぶぅおあずぃうん!!」閃光と轟音。

 男は弾かれたように一尋ひとひろほど跳ね飛ばされて、どさっと地面に落ちた。体も衣服も灼け焦げたその男は二度と動くことはなかった。

 黒の彼奴らの動きが止まった。

「武雲っ、剣を打ち振るって活路を開け。」鷹勢が言った。

「どういうことだ?」

「とにかくやってみろ。」

「わかった。」

 武雲は天威神槌剣を、彼奴らに向けて振り下ろした。武雲の振り上げた剣に向かって導かれていた雷電が、剣の動きに操られるようにその切っ先の振り指した方に向かっていった。

 ずばーん!

 細い雷刃の小さな落雷が、その辺りにいた者たちを弾き跳ばした。

「なるほど!」

 武雲は、鬼へびと自分との間にいる彼奴らに向けて天威神槌を打ち振るう。彼奴らが弾き飛ばされる。二度三度と天威神槌を打ち振るい、ついに鬼へびに向けての活路が開けた。武雲はその活路を鬼へびに向かって走る。鷹勢も斑も皆、武雲に続く。武雲と鬼へびとの間には、邪魔するものは何もない。鷹勢たちは武雲に背を向けて立ち、追ってきた黒の彼奴らに対峙する。

 ずぅううーん……。鬼へびは、ゆっくりとした足取りで頂を目指している。

 武雲は天威神槌剣を頭上高々と両手で構えた。暗い空に閃光が走り、轟音が鳴り響く。雷電が天威神槌に降り下りる。

「うおるああーーー!」

 武雲は気合いもろとも剣を振り下ろした。天威神槌剣の切っ先から雷電が刃となってほとばしり出る。雷刃は鬼へびの右の脇腹を左斜めに斬り下ろした。

「うんぎゅぅわああーー!」

 鬼へびは叫び声を上げてその足を止めた。鬼へびが振り向く。武雲は鬼へびの真正面に仁王立ちし、鬼へびを睨みつける。鬼へびの方も武雲を睨み返す。

「うぅぐぅおおああーーーっ!」鬼へびが吼えた。

「うおおおわあああーー!」武雲も吼えた。

 鬼へびは武雲に向かって一歩足を踏み出した。武雲は天威神槌を正眼に構える。その切っ先の指すところに鬼へびの顔がある。閃光はさらに輝きを強め、轟音はさらに大きく大地を振るわせる。

「んんぐぅうわぅわあああーーー!」

 鬼へびが雷鳴に負けじと大きな吼え声を上げた。ずぅうん……ずぅうんと地面を振るわせて近づいてくる。しかし武雲は微動だにしない。

「んぐぅあああーー!」鬼へびが黒雲に覆われた天を仰ぎ、牙の並んだ口を大きく開いて吠えた。

「ううぅうおわあーーー!」武雲も吼えた。

 武雲は正眼に構えた剣を高々と掲げる。目を灼くばかりの閃光が暗い天空の一番高いところから発して宮京の上空を貫き、楠岡全体を青白く照らし出す。凄まじい轟音が響き渡り大気を振動させた。雷電が天威神槌の切っ先に降り下りてきた。雷電は常とは違って一瞬で消えることなく、天と武雲とを銀の光で繋いでいる。天威神槌剣が銀に輝きだし、そして遂に武雲の体も銀の光を発しだした。

「ううぅあああーーー………」

「んぐうわあああーーー!」

 鬼へびは尻尾で武雲を打つことができる間合いまで近づいて来た。一吼えすると鬼へびは大きな体を捻り、武雲を尻尾で打ち払おうと構えを取った。

「でえええーあーー!」

 その瞬間、武雲が全身全霊を込めて大きな雄叫びとともに天威神槌を振り下ろした。剣の切っ先から銀の光がほとばしり出る。光が鬼へびの胸を貫く。鬼へびの体も銀に輝いた。武雲と剣と雷電と鬼へび。銀の光を放ち、すべてが繋がった。光は次第に強く大きくなり、見ている者にはもはや武雲の姿も鬼へびの姿もわからない。ただ銀色に強く輝く大小二つの塊が、同じように光り輝く太い帯で結ばれていた。

「んぐゃあああーー!」鬼へびの断末魔が暗い空に響いた。

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