弐十七
「武雲……。武雲……。」
低く重い響きの、まるで地の奥底が喋っているような声。誰かが自分を呼んでいる。武雲は目を開けた。
(誰だろう?)
武雲は、地べたにうつぶせに倒れていた。
「武雲……。武雲……。」
また呼んでいる。まるで地割れのような声だ。武雲は腕をつっぱて上体を起こし顔を上げた。誰もいない。ただの荒れ野原だ。
(どこだ?ここは。)
「武雲。なぜ…どうやってここに来た?」
また声がした。武雲はばっと跳ねるように立ち上がる。左、右、そして後と見回してみたがやはり誰もいない。
「誰だ。どこにいる。ここはどこだ。」武雲は大声で言った。
「ここがどこだか知らずに来たのか。ならば自らの意思で来たわけではないのだな。」
「………。ということは、おまえが俺をここに連れてきたわけでもないということだ。」
「ふふん。」
その声は、あちらからかと思えばまたこちらからと、聞こえてくる方向がくるくる変わる。
「………どういう力によってこの場所に導かれたのか知れぬが、それがどんな力であれ、俺にとってはまたとない好機であることに違いはない。」
「何?…何が?…なぜ?…」
「ここはな、無念の死を迎える者が最後にやってくるところだ。」
「俺はまだ死にそうでもないし、それに無念でもない。」
武雲は声のする方へと、顔をあちらこちらに振り向けながら話をしていた。
「ここに来たということは、これから無念の死を迎えるということだろう。………俺がそれをおまえに与えるのだ。………そうなる運命がおまえをここに送り込んだのだろうよ。………ここは俺の支配する場所。ここにおまえが来れば、俺は必ずおまえを滅ぼすからな。」
「おまえは死神か?」
「いいや……俺は人の生き死にを定める者ではない。………俺はただおまえの一族、おまえたちの血脈を滅ぼそうとしているだけの者よ。」
「何?」
「そして最後の一人であるおまえが、大朱雀豊武雲が、のこのこと俺の荒れ野にやってきた。」
「なぜ俺のことを知っている?」
「今言ったろう。俺はおまえの一族を滅ぼそうとしている者だと。おまえの一族に連なる者は誰も彼も、おまえの一族の始祖からすべて知っているわ。」
「馬鹿な。人がそんなに長く生きられるわけがない。」
「ふん。俺にはもはや命などない。それに俺は、もはや人でもない。」
「ならば何者だ?」
「俺は…もはや何者でもない。………おまえたちは俺のことを『魔』と呼んでいるようだがな。」
「魔?『魔』とは鬼へびのことではないのか。」
「あれはな、俺が人の世に送り込んだ俺の思念に、人間どもがかってに形を与えたものだ。人間どもにとっての一番の恐怖を形にすると、どうやらあれになるらしい。人間の深い深い記憶の中に、恐怖とはあのような形で刻み込まれているようだ。俺の送り込んだ負の思念に、人間どもの心の奥底に眠るものが呼び覚まされてあのような形になるのだ。」
その声は今やひとつの方向から聞こえてくるようになった。
「それではおまえこそが『魔』の
「まあそういうことだ。おまえたちの、ものの見方ではな。」
声のする辺りの中空に、何か怪しげな薄黒い“気”のようなものがおぼろに現れた。
「それでか。それで新たな鬼へびがすぐにまた現れたのか。」
「楠岡に俺の思念を送り込んだらすぐに新しい鬼へびが生まれおったわ。くくく……あの辺りには恐怖と猜疑心と強欲とが凝り固まり渦巻いていたからな。」
「鬼へびは、いくらでも生み出すことができるということか。」
「今までは、なかなかそうもいかなかったがな。あれはいわば、俺の分身だ。」
「?……」
「おまえの父、楠岡の大館の大王、
「!」
「くっくっくっく。………おまえに二度までも鬼へびを打ち倒されはしたが、おかげで今の俺にはまだまだ強い力が漲っている。」
薄黒い気は次第に凝縮し、人の姿に似た形になっていった。
「……大王が…父…ここに……」
「ああ、そうさ。おまえの足元を見てみろ。おまえの足元に転がっているその髑髏。それがおまえの父、広耜のなれの果ての姿だ。」
武雲は足元を見下ろした。確かにそこには髑髏が横たわっていた。
「わたしの父………」
「そうだ。そしておまえの一族の者達だ。」
さらに周りを見渡すと、そこかしこに骨や髑髏が転がっている。確かに広耜の髑髏だと言われたものはまだ新しいもののようであった。
「なぜ………」
「おまえの一族はな、大王の位を巡って一族の中で相争い、ほかの氏族と相争ってきたのだ。勝ち残る者があれば敗れ滅ぼされる者がある。敗れた者達は最期の時、この荒れ野にやってきて、そして朽ち果てていったのだ。俺の思念が同じ思いを抱いて死んでいく者を呼び寄せるのだ。」
「なぜ………」
「その無念の思いを我が力として、怨み、憎しみを我が力として、俺はおまえの一族を滅ぼすのだよ。」
「なぜ………」
「俺はな、はるか遠い遠い昔、おまえの一族の始祖に滅ぼされたのだ。俺の一族も皆殺された。俺が大王であったのだ。俺の
薄黒く漂う気が渦を巻いた風となって武雲を襲う。渦巻く冥気は武雲にほんの僅かな間、絡みつき、そして武雲から離れた。その時に武雲は心の奥深くで、何か冷たいものが蠢くのを感じた。
「おまえの胸の奥底にあった憎しみ、怨み。それを俺のものとして、俺の力に変えさせてもらったぞ。」
「俺は誰も憎んでいないし怨んでもいない。」
「果たしてそうかな。父親殺しの武雲よ。あんな男が父だとはと、少なからず憎みまた怨んだであろう?」
「そんなこと………」
「なくはないだろう。」
「しかし…俺が父を殺したのではない!」
「同じことよ。」
また冥気が武雲に絡みつく。ぞくりとするほど冷たい何かが、武雲の腹の底から喉元まで上がってきた。武雲は一瞬、くらっとした。
「今度はこの俺に対する憎しみかな?憎しみ、怨みというものは、大きな力で造られる。それを奪われれば、命を火灯す力が失われるのだ。」
武雲はずっとその右手に握られていた天威神槌を、あらためて強く握りしめた。
「おまえが魔の本相だというのならば、俺のやるべきことは魔を討ち倒すというこの天威神槌でおまえを滅ぼすこと。」
「ならばその剣で己が胸を突き刺すがいい。」
「何?」
「俺からすれば、おまえの一族の方こそ『魔』。………我が父祖の地に攻め入り、俺を殺し、俺の一族をすべて滅ぼした。………それが『魔』の行いでなくて何だというのだ。………その上一族で殺し合いを繰り広げ、他の氏族を滅ぼし、名も無き民を苦しめた。………おまえたちの一族が大王の座を手にしなければそんなことはおきなかった。俺の一族がこの地を治め、代々民を慈しんで善き政を行ったであろうに。おまえ達こそ『魔』であろう。」
「違う!俺は鬼へびを討ち倒した。人々を救った!」
「よくぞ討ち倒したものよ。それも二度までも。あとはここでおまえが滅びれば、鬼へびはもう人の世には現れはしない。おまえは『魔』の血脈を継ぐ最後の一人だからな。」
「俺は…、俺は『魔』などではない!」
「では俺が、『魔』なのかな?」
「そうだ。おまえこそが『魔』。この世に鬼へびをもたらして人々を苦しめ、命を奪う。それが『魔』の行いでなくて何だというのだ。」
「おまえとて同じではないか。」
「俺は人々を苦しめたり、殺したりはしてない。」
「しかしおまえの父は、おまえの一族は、さんざんに民を苦しめたではないか。」
「俺は違う!」
「おまえも同じようなものだろう。母の復讐のため俺を滅ぼそうとしているおまえと、一族の恨みを晴らすためおまえを亡き者にしようとしている俺と、何の違いがあるというのだ?」
「おまえはただおまえ自身の望みを叶えるためだけ。俺は…、俺はただ人々を苦しめていた鬼へびを討ち倒したのみ。」
「鬼へびを討ち倒し、父を追いやり、人の世に戦乱を巻き起こしておきながら、あとは知らぬ振りではないか?」
「………」
「所詮、根は同じよ。お前も俺も、誰も彼も。そもそもおまえの一族が存在さえしなければ、人々はおまえの先祖達に苦しめられることも、鬼へびによって苦しめられることもなかったのだ。おまえの血が、すべての始まりだ。」
「ならば我が一族の犯した罪を贖うためにも、俺はおまえをここで討ち倒し、人々に平穏を取り戻す。」
武雲は天威神槌を正眼に構えた。
「無駄なことだ。ここは俺の支配する場、その剣に雷電は降りては来ない。」
冷たい笑いを含んだ声で、冥気は言った。冥気の言うとおり、武雲が剣を構えても雷鳴が響くことはなかった。
「だいたいおまえはずっと前からその剣を、抜き身のその剣を携えていたではないか。」含まれた嘲笑いがさらに冷たいものへとなっていた。「………その剣はここでは、この俺の荒れ野ではただの剣と変わりはない。」
「ならば己の力のみでおまえを倒す!」
武雲は冥気に向かっていって袈裟懸けに斬りつけた。冥気はすっぱりと二つに斬り裂かれたが、しかし冥気は二つに分かれたまま武雲の体を取り巻いて、そして一つになって離れていった。武雲は後頭部を内側から後ろに引かれるような感覚とともに、一瞬意識が薄れた。
「俺には実体がないのだから、剣で斬りつけられてもどうともならぬ。」
「くっ…」
武雲にも力が奪われていることがわかった。腕や足が重い。それでも武雲は冥気に向かって剣を構え突進していった。
「うおあぁーーっ!」
気合いとともに天威神槌剣を上段から真一文字に振り下ろす。冥気は真っ二つに切り裂かれた。すかさず武雲は剣を真横に払う。冥気は四つに分かれる。さらに右斜めから斬り下ろし、あとはめったやたらと剣を振り回した。
「くくくくくっ。無駄だよ。無駄。」千々に切り裂かれた冥気がぞっとするような冷たい声で言った。
無数の断片となった冥気が渦を巻き、つむじ風となって武雲を襲う。つむじ風は武雲を巻き捉え、真上に巻き上がっていった。
武雲は頭のてっぺんから何かが引き抜かれていくような気持ちの悪さを感じた。頭の中が靄に満たされたようになり、全身に鳥肌が立った。
「俺を倒すことなどできないのだ。誰にもな。」
頭の上で声がした。ばらばらになった瞑気が武雲の前方の中空にすぅーっと降りて集まる。瞑気は再び一塊となって人の形に戻った。武雲は立っているのがやっとであった。焦点が定まらない。頭の中は白く霞がかかっている。体は前後左右に揺れ動いて姿勢を保つことすらできない。
「おまえの最期だ。そしておまえの一族の。」
冥気がさぁああっと動いて武雲に近づいてくる。武雲の意識は薄れそしてぼやけているが、それでも武雲はその希薄な意識の中でもまだ、闘うことを諦めはしなかった。魔を討ち倒すという己の意志を捨て去ることはなかった。拡散していこうとする意識を集中させ、力のうまく入らない腕を何とか操って、武雲は天威神槌の切っ先を迫りくる瞑気に向けて構えた。その時である。武雲の両の拳のすぐ上が淡く小さく輝いた。武雲がそれに目をやると、それは天威神槌自体が光を発しているのだった。ぼやけた目を凝らしてみると、剣に刻み込まれた龍が光輝いていた。武雲はその光に心を強くし最後の力を奮い立たせた。手元を上げて腕を伸ばし、天威神槌を顔の前に真っ直ぐに立てて構える。光は段々と強く、そして大きくなっていた。
「っはああーーーっ!」
武雲は迫りくる冥気を見据え、体全体に渾身の気力を漲らせた。天威神槌は輝きを増し強い光に包み込まる。武雲は両の手で握りしめた天威神槌を大上段に振り上げた。
「うぅおおおおーーーっ!」
ひと声叫ぶと、襲いかかってくる冥気に向かって武雲は天威神槌を振り下ろした。その剣の切っ先から、眩い光の中から、輝く銀の龍がほとばしるように躍り出てきた。龍は瞑気の胸のあたりに突っ込み、突き抜けた。
「うぐっ。」冥気の動きが止まった。
冥気の向こうに突き抜けていった光輝く銀の龍は、体を反転させて再び冥気に向かっていく。光の龍は冥気を絡め取るようにぐるぐると巻きついた。
「ぐぐぐぐぐ。」瞑気が濁った声を上げる。
輝く龍は冥気に巻きついたあともその螺旋の回転を止めることなく、冥気を絡め取ったまま少しづつ天に向かって上がっていった。冥気も銀の龍と一緒に廻りながら昇っていく。
「ううぅぅぅぅ……」
冥気は高く上がるにつれ色が薄れていく。煙が上るにつれ薄くおぼろになるように、冥気の形もおぼろなものへとなっていった。それを目で追っていた武雲が背を反らして見上げるほどの高さになった辺りで、遂に冥気は消えてなくなった。
「ああ…」武雲の口から声が漏れた。
冥気を絡め取っていた銀の龍は、冥気の消えてなくなったあともそのまま天へと登っていく。高く高く、どこまでも高く。武雲の目に龍は小さな銀の点にしか見えなくなっていった。そしてもはやその光の点も消えるかという瞬間、天空から目が眩むほどに明るい真っ白な光が降りてきた。大きな光が武雲を包み込み、武雲は頭の中まで光に満たされた。
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