弐十八


「宿禰殿っ!………いかがなされたか?」

 楠岡の頂に引き上げてきた鷹勢が櫓を見上げて言った。武雲を襲っていた彼奴らは、鬼へびが討ち倒されるや、まるで波が引くようにさああーっと退いていった。斑とその一隊は歓喜の声を上げて頂へと凱旋してきたのであるが、宮に戻ってみると櫓の上の多宜留と宿禰の様子がおかしい。二人してただ呆然と鬼へびが消えいっていった辺りを見ている。

「親父殿っ!どうしたのだ?」斑も櫓に向かって声をかけた。

 櫓上の二人は何かを諦めたかのように降りてきた。

「……何事かありましたか?」櫓の下で厳蔵の軍を指揮していた靫田が訝しげに訊いた。

「武雲が消えた。」

「消えたって…鬼へびを倒してそのまままた宮京を出て行ってしまったのですか?」鷹勢が訊いた。

「いや…そうではない。」宿禰は答えた。「そうではないのだ……」

「倒した鬼へびとともに消えてしまったのだ。」多宜留が言った。

「何と!」鷹勢と斑と靫田の声が重なった。

「武雲様は、我らより先に頂に来たものと思っておりました。」斑が言った。

「わたくしは、武雲様は斑殿や鷹勢殿のとともに凱旋してくるのかと…」

「どういうことなのか、どこに行ってしまったのか………」

 意気揚々と引き上げてきた武者たちも、頂で待ち受けていた者たちも、皆押し殺した声で話を伝えあった。

「どうしたんだ?」

「宮京に還ってきた新しい大王が、またいなくなってしまったらしい。」

「また宮京を出て行ってしまったのか?」

「いや。鬼へびを討ち倒したあと、鬼へびとともに消えてしまったそうだ。」

「消えた?」

「どういうことだ?」

「宿禰殿にもわからぬらしい。」

 ………………

 将兵たちのひそひそ声が、突然騒がしいどよめきに変わっていった。彼らが一団となっている只中の中空に淡い光の玉が現れたのだ。

「おおおーっ!」

 彼らは驚き後ずさった。将兵たちの中に丸い空間ができる。鷹勢や宿禰達が騒ぎに気づいてやって来た。光の玉は次第に大きくなり地面に降りてきた。淡い光がさらに淡く淡くなっていく。

「たっ武雲っ!」鷹勢が叫んだ。

 光の中に武雲の姿があった。


「俺は死んだりしない。もとより命はないのだから。おぼろで儚く、力無い存在となってはしまったが、それでも俺は在り続ける。いつまでも、永遠に。いつかまた、俺の力は大きくそして強くなる。誰かがおまえの父と同じように、憎しみ、怨みの思念を俺の荒れ野に送り込んでくる。……たとえおまえがしなくても、おまえの後に大王となる、おまえの子々孫々の中の誰かがやる。決して遠くはない時に。大王の位を巡って、同じことを必ず繰り返す。まちがいない………」


「武雲っ!おい武雲よ!」宿禰が走り寄った。

 淡い光が薄く薄くなって消え去り、そのあとには武雲が倒れていた。

 宿禰は倒れている武雲の傍らに膝を突き、両腕で武雲を抱きかかえた。

「武雲っ!しっかりせい!」

「ああ…宿禰殿……」ゆっくりと目を開けて武雲が言った。

「無事か?武雲。何事もないか?」

「はあ……大丈夫です。ただ……ひどく疲れました。」

「何が……、いやどこに………」宿禰はなんと聞いていいやら言葉に困った。

「魔の本相と、戦いました。……荒れ野で。………夢……だったのでしょうか?」

「いや…夢ではあるまい。………おまえは鬼へびを倒すとともに姿を消し、そして今、突然戻ってきた。…………どこかこの世ではないところで、おまえはその『魔の本相』と相まみえたのじゃろう。」

「天威神槌が魔の本相を倒してくれました。」

「『魔』の本相とは何だ?」

「鬼へびを産みだしていたものです。」

「『魔』とは鬼へびのことではなかったのか。」

「そういうことのようです。」

 武雲は右手にしっかりと握りしめている剣をゆっくりと目の前にかざした。

「ああ。剣から、」武雲がまるで何かを確かめるかのような口ぶりで言った。「天威神槌から龍の刻印が消えている。」

「おお、何と。」武雲のすぐ横で片膝をついていた鷹勢が剣に目をやって言った。

「ふぅむ。どれ、見せてみよ。」宿禰が剣を手に取った。「魔の本相を打ち破り、龍は剣から抜け出て還っていったのじゃな。」

「あの場所へ…時のないあの異界へ…」

「うむ。」

「天威神槌剣は、元の剣になった……」

「そうじゃな。………さあ、立てるか?武雲。」

「はい。」

 斑と鷹勢に支えられた武雲は宙に浮いたような足取りで、本陣となっている幄屋へと向かった。

「馬に乗った者が一騎、こちらに駆けてきます!」伴部の軍勢の中の一人が言った。

 振り返ってみると確かに一騎、宮に向かって岡を駆け上ってくる。伴部の者たちが武雲を取り囲み、剣を抜いた。

「いや、あれは逆登実だ。」鷹勢が言った。

「本当だ。逆登実だ。」鷹勢の声に首を伸ばした武雲が透きとおってしまったような声で言った。

「ははははっ。」鷹勢は朗らかに笑った。「大丈夫。あれは我らが住んでいた村の男だ。」

「馬上には一人ではないな。」斑が言った。

「うむ。後ろにもう一人乗っている。」鷹勢が応えた。

「……あっ。あれは奇志室だ。」武雲が言った。

「開けてくれ開けてくれ。あれは我らの友だ。」

 鷹勢の声に武雲たちを取り囲んでいた軍勢が二つに割れた。

「おーーい、武雲ーっ。鷹勢ーっ。」逆登実が声を上げる。

「おおおー。」鷹勢が右の拳を挙げて応えた。

 逆登実は伴部の軍勢にも何臆することなく武雲のそばまで近づいてきて馬を下りた。馬上では奇志室が困ったような顔をしている。

「どうしたんだ、逆登実?」武雲が訊いた。

「『どうした』って武雲。宮京で何がおき、何がおきていて、これから何がおきるのか。おまえがどうして、どうなっているのか。それが気になって気になって、もうじっとしていられなかったのよ。それでおまえのあとを追って馬を走らせてきたんだ。」

「奇志室は?」

「今度は絶対自分も一緒に行くと言って、馬の尻に乗ったまま下りないのだ。仕方ないからそのまま駆けてきた。」

 馬上で奇志室が恥ずかしそうに微笑んだ。

「下りてこいよ、奇志室。」武雲が言った。

「うん。」

 奇志室は馬から飛び降りた。

「とても疲れているみたいだね、武雲。」奇志室は武雲のそば近くに歩み寄って言った。「声が何だか、あの世に吸い込まれてるみたいだ。」

「ああ…すごく疲れてるんだ。いろんなことがあって。」武雲は薄く微笑んだ。「少し眠りたい。」

 そう言うや武雲は、膝から崩れた。

「うぉわっ。」

 奇志室は武雲の体を抱き止めようとしたが支えきれず、武雲を抱きかかえたまま、武雲と一緒にゆっくりと崩れた。

「武雲、大丈夫?」

 武雲は気を失っていた。しかしその顔は奇志室の腕の中で安らかであった。

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