十八
足が重い。こんな重い足がなぜ前に出るのだろう。踏み出そうと思ってもいない足が、また一歩前に踏み出された。そのまま動きが止まる。しばらくしてまた一歩、足が前に踏み出される。
「武雲…」
広耜は鬼へびに襲われて行方が知れなくなってしまった王子のことを思い出していた。
「大王の落胆のご様子といったら、もう目のやり場のないほどだ。」
「ご心痛のあまり、このまま崩御されてしまうのではあるまいか。」
「あれほどのご気落ちでは、あながちないとも限らぬな。」
「そうなってしまっては、我らは今後どうしたらよいものか。」
「何とか大王を元気づける方法がないものだろうか。」
大王の側近たちは皆、心底大王の身を案じていた。
「それだけ大后と王子のことを大切に思われていたということなのだな。」
「大王の情けの何と深いことか。」
「まったくだ。あれほど鋭気の漲っていた大王が、ここまで気落ちしてしまうとはな。」
「亡くなられたお二人にどれだけ思いを傾けておられたか偲ばれるというものよ。」
しかし大宮の仮住まいで大王は、周りのものが思っているように大后と王子を悼んで嘆き悲しんでいるのではなかった。
「武雲が失われてしまった。武雲が……。あの神託はやはり現実となるのだ。避けられないものなのだ。」
大王の思いはただそれだけであった。大王はただ我が身の行く末のみを怖れおののいていた。
そんな大王が次第に気力を取り戻していったのは、大王が新しい妃を迎えてからであった。落胆している大王に尽くして身の回りの世話をする大宮の巫女を大王が気に入り、妃としたのである。玉代には及ばないにしても、美しい娘であった。
「子はまたつくればよい。」妃を迎えて大王はそう思うようになった。
「武雲を失ったが、子をまたつくってその子に大王の位を譲ればいいことだ。」そう思うようになってから、大王にはまた以前の精気が甦ってきた。
「何で今まで気づかなかったのか。簡単なことではないか。」
大王は鬼へびによって打ち壊された宮の跡地に、さらに大きな新しい宮を造営した。そして生き残った側近たちを政の中枢に置き、武官たちを将軍に、武者たちを武官に取りたてた。新しい軍は強大であった。新たに屈強な若者を多く集め軍を再編したからでもあるが、何よりも気迫が違った。戦いに場においては誰もが鬼神の如き働きを見せた。大王への忠誠心がそうさせたのである。もはや大王は、彼らにとっては神にも等しい存在であった。鬼へび襲撃の際の冷静さや剛胆さ、近親者に向ける情の深さ。どれもが周りのものたちの思いこみであったのだが、大王を仰ぎ見るとき、彼らには大王が光り輝いて見えた。誰もが大王のそば近くにいて、その威光に照らされていたいと強く願った。
しかし一年たっても妃に子はできなかった。二年たっても三年たっても子はできなかった。
人々の落胆ぶりも大変なものであった。宮を建て直すのに、いつも以上に厳しい苦役が課せられた上に、そのあとは年を降るごとに、大王の政はさらに人々を苦しめる方へと傾いていった。税は年々重くなるし、少しでも不平不満を漏らそうものなら、たちまち捕らえられて処刑されるのであった。
「一族を皆殺しにした後は、俺ら草々のものを根絶やしにするつもりだ。」
人々は小さな小さな声でひっそりとそう噂し、多くの民が宮京を離れていった。しかし宮京を離れても命をつなぐための生業を見つけられず、また宮京に戻ってくる民も少なからずいた。大王の課す苦役に耐え、圧政への不満を押し殺して、人々は毎日を暮らしていた。
立ち枯れて色を失った木々が散り散りに見受けられる。そしてそこかしこには白くなった人骨が転がっている。しかし広耜にはそれが目に入らない。
どさっ。とうとう広耜は倒れた。疲れ果てて前のめりに倒れ込んだ。意識も朦朧としている。
「広耜。」誰かが呼ぶ声がした。ような気がした。
(空耳か…)はっきりとしない意識の中で広耜はそう思った。
遠ざかる意識に広耜が目を閉じかけたその時。
「
(空耳ではないな…)
閉じかけた目を何とか開き、広耜は顔をほんの少しだけ上げて前方を、声の聞こえてきた方を見た。中空に浮かんだ黒い影、あるいは拡散して消滅してしまうことなく集まりあって中空に留まっている黒い煙。よく見ると人の形に見えなくもない。
「惨めなものよなぁ、広耜。」
「何だ、おまえは?」
「俺はな、おまえ達が『魔』と呼ぶものだよ。」
「魔……鬼へび………」
「鬼へびではない。鬼へびそのものではないといった方が正しいかな。」
「魔の…大元か……」
「まあ、そんなところだ。」
「災厄をもたらすという魔が…」広耜は歪んだ笑みを浮かべた。「今さら俺に何の用だ?」
「俺は待っていたのだよ、広耜。お前がこの荒れ野にやってくるのを。」
「待って…いた?」
「俺にはわかっていたのだよ、広耜。お前がいつか、この荒れ野にやってくると。」
「どういう…ことだ?」
「いつかおまえも憎悪と怨嗟の固まりとなってこの荒れ野にやってくる。俺にはわかっていたのだ。」
「なぜ…わかっていたのだ?」
「おまえが他の者にしてきたことの報いがいつかおまえに訪れて、おまえもその者どもと同じ道を進むことになる。手に取るように、すべてわかっていたのだよ、広耜。」
「報い…」
「無念であろう、広耜。……大王の座を追われ。……そしてもう直に、おまえはここで惨めに死に、肉体は雨に打たれ風に曝されて朽ち果ててゆくのだ。……おまえが、そして
「んむ……」
「憎いであろう、広耜。」
「むむむむ…」
「ぅわぁっははははぁ!憎め!怨め広耜!その強い憎しみ、怨み、その強い無念の思いが、また俺に力を与える。大きな、大きな力を与えるのだ。」
「ぐぅううう……」
「ぅわぁっははは!ぅわぁっははははぁ!憎しみ、怨みを吸い上げて、強い負の思念を吸い上げて、俺の力はいや増すのだ。」
「おまえは…何ものだ?」
「俺はな、はるか…はるか遠い昔、おまえの遠い遠い祖先に滅ぼされた者だよ。」
「……」
「小甘美稚広耜。臆病者。心弱く欲深き者。猜疑心の固まり。………おまえは本当に、役に立つ男だった。いとも簡単に操られてくれた。二人の兄を殺して玉座に登りつめたあと、多くの王族を滅ぼしてこの荒れ野に送ってくれた。そして最後には、自分までここにやって来た。」
「二人の兄を…殺してはいない。」
「何を今さら。………二人の兄が相次いで死んだことが、ただの偶然だというのか?偶然がそんなに都合よく重なるものか。」
「俺は…何もしてはいない。」
「人間は己の欲望を満たすために肉親さえも殺す。おまえの遠い祖先がしたように、おまえも二人の兄を殺した。おまえの心の奥深く蠢くどろどろとしたどす黒い欲望、その闇に覆われた力、それがおまえの二人の兄を滅ぼしたのだ。おまえの、意思だよ。思いだしてみろ広耜よ。兄たちの死んだ時のことを。よおくよおく思いだしてみろ。」
大王小甘美稚広耜は、まだ王子であった頃には、まさか自分が大王の位を継ごうとは夢にさえも思っていなかった。広耜には兄が二人おり、ものごころつく頃には長兄がすでに立太子していた。この長兄は子どもの時分より、行く末は器量の大きな人物になるであろうと誰からも思われていた。衆目の一致するところに違わず、度量の大きな優れた人物に成長し、王家に連なる者たちからも群臣からも信望が厚く、将来の大王として誰も異を唱える者はなかった。次兄は肝の据わった猛々しい男で、臣下に対しては情け深く誰からも慕われ、将軍としての資質はすべて兼ね備えていた。長兄が大王として人々の上に立ち、次兄がその補佐として諸豪族をまとめ上げて、この国は末永く安泰であろうと人々は期待していたしまた安心もしていたのである。しかし広耜はといえば、政治や戦のことにはまるで興味がなかった。毎日を気の向くままに過ごしていたし、そのように過ごすことを好んでいた。長兄が父の跡を継いで大王の位に即いたならば、長兄の補佐をして政に携わらなければならないのであるが、それが悩みといえば悩みであった。できれば今のままで気楽に気ままに生きていたいと思っていた。ところが、どうしたことかこの二人の兄が次々と身罷ってしまったのである。
兄弟三人で狩りをしていた時に、獲物を追って走らせていた長兄の馬が突然竿立ちとなり、そのままもんどり打って倒れた馬の下敷きになってしまい長兄は亡くなった。そしてその翌年のこと、次兄と広耜と二人して国見も兼ねて遠駆けに行った時に、突然次兄の馬の足下の崖が崩れ落ち、次兄は馬もろとも谷底に落ちて亡くなってしまった。思いもかけなかったことに、あとに残った広耜が
さらに立太子してまもなく、今度はあろうことか、父である大王が崩御なされてしまったのであった。病死であった。突然の熱病により、床についてからわずか一日で身を儚くされたのである。
「………!!」
「思い出せたか?広耜。そうだろう…すべておまえが謀ったことであろう。記憶が消え去っていたのだろうが、ここに来ればすべて思い出せるのだ。俺がおまえの耳にそっと息を吹きかけると、おまえは物陰に潜み、長兄の駆る馬の耳元をかすめるように矢を放った。俺がおまえの耳にそっと息を吹きかけると、おまえは今にも崩れ落ちると知っていた崖の突端に、次兄を導いた。………そうやって大王となったおまえの、いつかは自分も殺されるかも知れないと怯えるおまえの、猜疑心に囚われたおまえのその耳に、俺がそっと息を吹きかけると、おまえの疑念は沸々と煮えたぎって、そして誰ぞを滅ぼした。………おまえの心の深い闇が紡ぎ出した強く
「鬼へび………」
「あれはな、負の思念に反応した人間どもが、負の思念に与えた姿形だよ。人間どもが太古より持つ記憶の中で最も恐ろしいものの姿、人間どもの恐怖を形にしたものだ。」
「なぜそんなことを……」
「世の中が平穏では、誰も大王を倒そうとは思わぬだろう?大王も誰ぞを自分の地位を狙う者ではないかと疑ったりしないでははないか。…………さあ、もう疲れたろう、広耜。目を閉じて永遠の眠りに落ちろ。おまえの無念は俺が引き受けた。おまえの闇の力を得て、俺は遂に、大王の一族の最後の一人を滅ぼすのだ。」
「最後?………」
広耜は力尽き、目を閉じて、無へと墜ちていった。しかし、死してなお残る広耜の微かな思念が、荒れ野を覆う湿った大気の奥底で、消え入る前に小さく呟いた。
「武雲………」
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