壱

「どうだ!」

 そう言って右手に掴んだ兎をぐいと得意そうに突き出したのは、体は立派に成長してはいるが、顔にはまだ幼さの残る少年であった。

「おお、おお。たいしたものよ。」突き出された獲物を見て逆登実さかとみは大きな体を大袈裟に揺すって嬉しそうに笑い、無精髭を撫でながら言った。「たいしたものよ、武雲たけくも。」

 逆登実の隣に腰掛けている鷹勢たかせが、その精悍な目元を涼やかに微笑ませた。

「だがあの時の大猪とは、比べものにもならんなぁ。なあ鷹勢。」

 『あの時の大猪』とは、以前に逆登実と鷹勢とが二人で仕留めた大猪のことで、体長が逆登実と同じくらいもあった。武雲は口をへの字に結んで鼻を膨らませ、顎をしゃくり上げた。こう言えば武雲が悔しがるのを逆登実は知っている。逆登実には武雲の、この負けず嫌いなところが可愛くてならなかった。逆登実と鷹勢が大猪を仕留めて以来、狩りに来ると武雲は一目散に獲物を追い求める。その様子を見守りながら、逆登実と鷹勢は火を熾して武雲の戻ってくるのを待っているのである。逆登実にからかわれて武雲は、また馬に飛び乗って駆けていってしまった。

「日増しに逞しくなってくるな。」武雲の後ろ姿を見送りながら逆登実が言った。

「ああ。」

「もうそろそろ、だな。」

「ああ。」

「武雲が鹿渡ししわたりに来てどれくらいのなるかな。」

「十と……何年になるだろう?」

「明日…かも知れぬな。」逆登実が少し寂しそうに言った。

「ああ。」鷹勢はいつもと同じように、静かに応えた。


「鷹勢。」夕方、焚き火の前に腰を下ろしていた武雲が突然口を開いた。「宮京が見てみたい。」

「ん。」小屋の入り口の前で鷹勢は弓の手入れをしているところであった。「見てどうする。」

「俺は元もと、宮京で生まれたんだろ。」

「ああ。おそらくな。」

「一度、自分の生まれたところを見てみたい。それに…宮京に行けば、自分が何者なのかわかるかも知れない。」

「わからないかも知れない。」

「わかるかわからないかは、わかる。」

「なるほどな。…で、そのあとはどうする。」

「わからない。」

「…では明日にでも、村長むらおさに馬を借りて宮京に行ってみるか。」


「あれが、大王の住まう楠岡くすおかの宮だ。」

 山間やまあいの路を抜けて先の見渡せるところに出ると、馬の足を止めて遠くを見やりながら鷹勢が言った。

「楠岡と呼ばれる、なだらかな低い岡の上に建っている。」

「ふぅーん。」武雲はどうということもなく、生返事をした。

 岡の頂に大きな建物が建っており、その傍らに高い櫓が屹立していた。それらの周りをぐるりと外壁が囲っている。宮の南の斜面には、小さな建物がごみごみと並んでいた。

「宮というものはだいたい、平らな土地に建てられているものだが、今の大王の宮だけはあのように広い平地の中にぽつんとある岡の上に建てられているのだ。」馬を再び進めながら鷹勢が言った。「岡の上からなら周囲をよく見渡すことができる。何者も、密かに宮を襲うなどということはできないようにするためだろう。もし何者かが攻めてきても、すぐにそれを知ることができるからな。」

「なるほど。」鷹勢のすぐ横に馬を並べて進めながら、わかったふりをして武雲が応えた。

「あの岡には楠木が多く生い茂っていて、それで古くから『楠岡』と呼ばれているのだ。かつては楠木のほかにも生えていたのだが、それらの木はすべて切り倒され根を掘り起こされて、宮の築材とされてしまったから、今の楠岡には楠木しか生えてはいない。」

 鷹勢の話を聞きながら、武雲は次第に近づきつつある宮の大きさに驚いていた。遠目に見た時から大きなものだと思ってはいたが、近づくにつれその大きさがどれほどのものであるかわかってきた。武雲は、鹿渡の村長の館より大きな建物は、今だかつて見たこともなかったが、この宮はそれとは比べものにならないほど大きい。

「大王は、『楠岡大館くすおかのおおだての大王』と呼ばれている。あのように大きな宮を構えているからだ。先の大王の宮はあれほど大きくはなかった。大きな宮を築いたのは、自分の力の強大さを示すためのものだろう。誰にも反乱を起こそうなどとは思わせないようにするためのな。それに、警護のための武者を何百人も住まわせるのに、大きな宮が必要であったからでもあろうな。……大王は、臆病者なのだ。だから警護のための兵を常に何千と側に置いておく。しかしその兵達のことも、信用してはいないだろう。……不安なのだ。自分の行く末が。だから楠岡を宮の地に選んだのだ。楠木は秋冬になっても枯れることのない常葉とこはの木だ。常に枯れることない木々の生い茂る岡に、自分の行く末の安泰を託したのであろう。」


 宮の正門に続く大路のはずれまで来たところで、鷹勢は馬を止めた。

「さて、目立たぬように馬は降りていくぞ。」

「なぜ?」

「目立てば、良からぬことがおきる。」

「どんな?」

「命も危ういかも知れぬ。」


「鷹勢、もう少し宮のそばまで行ってみたい。」宮京を見て回っていた武雲は、宮に興味を持ち、じっくりと宮を見てみたいと思った。

「いや。それはやめておいた方がよい。」

「なぜ?」

「見知らぬ者が宮京の中で何かを訊き回っていると知ったら、大王は直ちに我らを捕らえるだろう。悪くすれば即刻打ち首だ。」

「どうしてそんなことを?」

「大王はな、かつて王族を悉く亡ぼした。王族といえば皆、自分の親類縁者だ。大王の位を、そして己が身を守るために、自らに連なる一族をすべて滅ぼしたのだ。恐ろしいお方だ。人々は、大王のことを陰では『大悪逆おおあくぎゃくの大王」と呼んでいるのだ。

「だからって何で我らまで?」

「大王は怯えているのだ。いつ誰が、自分の位に取って代わろうとするのかと。だから少しでも不審な者があれば、すぐさま捕らえて、おそらくは殺すだろう。」

「臆病者だからか?」

「うむ、そうだ。」

「だからなるべく目立たないようにしているのか。」武雲は小さく頷きながら、独り言のように言った。


「そうら来た。俺たちを捕まえに来たぞ。」

 あちらこちらを歩き回りながら、もう何人に同じことを訊いただろうか。数がはっきりしなくなってきた頃、鷹勢が宮の方を向いて突然言った。鷹勢の視線の先には、砂埃を挙げて馬を走らせてくる数人の男たちの姿があった。鷹勢はこうなることを予想して、常に宮の正門が見えるところで、道行く人に声を掛けていたのだ。

「それっ。逃げるぞ武雲。」

 そう言うや鷹勢は馬に飛び乗った。武雲もあわてて同じように馬に飛び乗る。左の手綱を引き馬の首を向け直そうとしたその時、いきなり馬がいなないて竿立ちになった。

「うぅおぅ!鬼へびだっ!」鷹勢が大声を上げた。

 振り向きかけたその目線の先、宮京の西に鬼へびが姿を現していた。

「武雲っ、ついて来い!」

 鷹勢は馬の首を東に向け直し、駆けだした。武雲もそれに続く。武雲達を捕らえに来た騎馬の男達も、とって返して宮に向かっていった。鬼へびは宮に向かって進んでいく。鷹勢と武雲は宮京の東の端で馬を止め、鬼へびを見ていた。

「あれが鬼へび…」武雲が言った。「あれが……」

 宮からは武者たちが次々に出てきて、弩の準備をしている。鬼へびは誰もいなくなった宮京を、建物を踏みつぶし蹴り倒しながら宮に向かってまっすぐに進んでいる。

「んぬあーーー。」

 武雲は逆登実からもらい受けた剣を抜き、鬼へびに向かって馬を走らせた。

「あっ。よせっ、武雲。」

 しかし馬は怯えて鬼へびの近くに行こうとはせず、武雲の手綱に逆らって足を止めてしまった。武雲は馬から飛び降り、剣を振りかざして鬼へびに向かって走る。

「うわぁぁーー。」

 鬼へびには武雲の姿など目に入らない。武雲は鬼へびの足下まで走り込み、その右足を斬りつけた。武雲の一撃は確かに鬼へびの足を捉えはしたが、渾身の力を込めて斬りつけた剣は折れ、武雲は跳ね飛ばされてしまった。足を止めて下を見た鬼へびは、武雲が斬りつけたその足で武雲を蹴り上げた。武雲の体は宙を大きく舞い、そしてどさりと落ちた。

「武雲ーっ!」

 鷹勢が武雲に駆け寄って、その体を自分の馬に引き上げた。さらに鷹勢は武雲の乗っていた馬の手綱をとり、馬を疾駆させて宮京から走り去っていった。

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