天威神槌

澤山 銀河

 序

「出たぞ-!鬼へびだーっ!…出たぞ-っ!」

 物見櫓の上で若い舎人が叫んだ。

 宮の内の空気が一瞬で張り詰める。誰もが櫓を見上げる。

「西…西に鬼へびが出たーっ!」

 西に目をやると、そこに鬼へびの姿があった。

「ずぅっしぃぃん………ずぅっしぃぃん………」

 地響きをおこしながら鬼へびは宮に向かってくる。宮京みやこの人々は慌てふためいて、我先にと東へ向かって逃げ走った。宮の内でも人々が騒然と走り回っている。馬に馬具をつける者、鎧を身に着ける者、武具を運び出す者。

 鬼へびが宮に近づいてくる。宮京にはもう人の姿はない

「んぐぅうわぅぅおぅぅー。」

 鬼へびが吼え声をあげた。鬼へびの身の丈は十ひろ余り(一尋は大人の男が両手を広げたほどの大きさ)。頭のてっぺんから尻尾の先までは十五尋もあるであろうか。ぎょろりとした目の下に突き出した口は大きく裂けていて、時折口を大きく開いて吼える。その声は大熊が何頭も一斉に吠えたような声であった。吼えるたびに凶暴そうな牙が覗く。牙は、もはや地上からでは遠目になってしまうのでよくはわからないが、一本が一柄ひとつか半ぐらいの大きさはあるであろう(一柄は大人の男が親指と人指し指をいっぱいに広げたほどの長さ、十柄で一尋)。そんな牙がずらっと並んでいるのを見ただけで、もう恐ろしさに足が竦んでしまう。太い腕は大木を片腕で簡単に薙ぎ倒す。足は巨大である。一歩進むごとにその巨大な足が地面に一柄もめり込む。足の大きさは一尋半ほどもあり、つま先には一柄はあろうかという爪が四つ並んでいた。この二本の巨大な足で、行く手にあるものを蹴り倒し、踏み潰しながら進んでくる。だから鬼へびは何もよける必要がない。長い尾は左右に振り回され、運良く足を避けられたとしても、この尾っぽの一撃ですべては破壊されてしまう。

 宮の西の外壁の前には、まだ鎧を身に着けていない武者たちが居並んで、鬼へびを待ち受ける。彼らの前にはが置かれ、槍のような矢がつがえられていた。宮の中では多くの者たちが、鎧甲を着けるのを急いでいる。大王おおきみは玉座について目を閉じ、ただじっとしていた。何かを考えているようでもあったが、運命を天に委せたかのようでもあった。そして奥の部屋では大后おおきさきが、幼い王子みこを胸に抱いて蹲っていた。大后は怯えているようではあったが、その瞳は毅然として輝いていた。王子は何が起きたかよく理解はできないのだろうけれども、騒然とした宮の中の様子に驚ろき、怯えて泣いていた。

てーっ!」

 号令とともに弩から矢が放たれた。三人がかりで引き絞られた弩から放たれた大きな矢が、宮へと近づいてきた鬼へびの胸をめがけて飛んでいく。十本の矢のうち、六本が鬼へびの胸の突き刺さった。

「んぐぅあーーー!」

 鬼へびは足を止めた。痛みを感じ、叫び声を上げたようだが、その体から血は出ない。鬼へびは斬られても刺されても出血することがない。鬼へびは足を止め、胸に刺さった大矢を右腕で払い落とすと、また進み出した。

「次の矢、射てーっ!」号令がかかる。

 号令がかかるや否や、新たな十本の大矢が鬼へびに向かって飛んでいた。鬼へびはまた足を止めたが、突き刺さった矢を払い落とすと再び宮に迫っていった。

「次の矢ぁーっ!」

大矢を繰り返し鬼へびに向かって射かける。その度に鬼へびは一旦足を止める。

 宮の中から鎧甲を身に着け終えた武者たちが、弩の元に走ってきた。今まで弩を射っていた武者たちと、言葉を交わすことなく交代する。

「射てーっ!」

「大王、仕度が調いました。」玉座の大王に、側近の舎人が告げる。

「いつもより…時がかかったようだな。」

「はい。申し訳ありません。王子様がいつになくひどく怯え、大后様の胸元からなかなか離れなかったものですから。」

「ふっ。」大王は唇の片側だけを僅かに上げて小さく笑った。「王子も、物心がついてきたか。」

(笑われた。普段笑うことのない大王が。鬼へびに側近くまで迫られているこの時に、王子様の成長を喜んでおられる。)

「では…出立しよう。」

 これまで幾たびも鬼へびに宮京を襲われ、宮を破壊されてきた。しかし大王はいつでも、いささかも動揺することなどなかった。

(ふんっ。鬼へびなど、一旦やり過ごしてしまえばまたしばらくは出ては来ぬ。それに俺が鬼へびに殺されるわけがない。俺を追放して新しく大王の位に即くのが、鬼へびであるわけがない。あの化け物を操っている者があるのやも知れぬが、それとて鬼へびと共に宮に攻め入ってくるほどの力は持たぬ者。取るに足りぬ。)


 鬼へびは宮しか襲わない。大王は即位すると、先の大王の宮をそのまま引き継いだ。その宮を突如鬼へびが襲ってきた。初めて見る化け物に誰も皆驚き怯えた。大王も早々に宮を逃げ出した。鬼へびは宮を壊滅させ消えた。大王は別の場所に新しい宮を建てたが、その宮がまたも鬼へびに襲われた。どこに宮を遷しても、鬼へびは必ず宮の近くに突然現れ、宮を襲ってくる。大王は察した。

(鬼へびは俺を襲ってくるのだ。誰かが俺を亡きものにしようと、あれを操っているのかも知れぬ。どこに宮を建てても同じことだ。)


 大王は宮の東側にある馬廓うまくるわに向かった。

「出立するぞーっ!」

弩を射る武者たちに声がかかる。武者たちは弩を残し大慌てで退いていった。

「んぐぅうわぅぅおぅぅー。」

 鬼へびは一際大きな声で吼えると、太く長い尾を凄まじい勢いで一振りした。残された弩が薙ぎ払われて飛んでいった。鬼へびは宮の外壁を踏みつぶし、蹴り倒し、薙ぎ倒した。

 鬼へびの打ち壊した宮の外壁の板やら柱やらが飛んできた。。

「大王、お急ぎくださいっ!」

 しかし大王は少しも慌てずに馬に跨り手綱を引いた

(さすがは大王、大悪虐の大王と呼ばれるだけのことはある。)大王の周りのものは皆、妙に感じ入っていた。

 大王の周りを二十数騎の騎馬武者が取り囲み、さらに後には幾多の騎馬武者・徒武者が従っていた。大王を守っているのは小さな氏族の若い武官や身分の低い舎人達である。彼らは皆、大王に自分の人生を賭けていた。当然士気は高い。

 時を待たず、大后が馬に乗って馬廓に現れた。後ろには馬上の人となっている大后宮近衛府おおきさきのみやのこのえふおさの胸にすっぽりと抱かれている王子の姿があった。さらにその後ろに大后宮の近衛兵達も騎上の人となって従っていた。

「では…大宮へ。」いつもと同じ声で大王が号令した。

「おぉ。」武者たちは響き渡るほどの声で応えた。


 大宮とは御祖高御神大宮みおやのたかみかみのおおみやのことであり、大王の一族の祖神を祀る神宮である。宮京の北方にある山の斜面に建てられており、まわりを強固で高い石累に囲まれていて、後ろは深い山になっている。神宮は古くからこの地に建てられてあった。後ろの山は神宮の聖なる山であり、人が足を踏み入れてはいけない場所とされていた。しかし大王はこの地形を利用して、神宮に堅固な城としての機能を持たせ、呼び名も大宮と改めたのである。大宮は、楠岡の宮が何者かに攻め込まれた時の拠り所として使うために、大王自らが手を加えて築き上げた要害だった。大宮には武具や食糧を蓄えておく貯蔵庫としての役割もあった。各地から税として集めた米・粟などを一旦大宮に運び入れ、蓄えておき、必要な時にそれを宮京に運ぶのである。

 宮が鬼へびに襲われるたびに、大王は大宮に遷って宮の再建を待つのであった。食糧は充分に蓄えられている。また大宮には楠岡の宮を再建するための木材も蓄えられていた。鬼へびによって破壊されてしまった宮を速やかに再建するための備えである。いつまでも大宮に籠もっているわけにはいかない。楠岡の方が断然、地の利がいい。大宮は、守るだけなら優れているが、山を背にしているので、楠岡の宮を取り囲むための兵の半分の数で囲まれてしまう。囲まれてしまったら、大王に勝ち目はない。大王を援けるために軍を率いて駆けつける者など一人もいない。取り囲まれて、食糧が尽きるのを待ち続けられれば、敗れる。それに大宮は、周りに山や丘が点在していて見晴らしが悪いため、奇襲を受けやすい。


 大王は宮の東の門―常ならば軍が進発しまた凱旋するための門を駆け抜けていった。武者たちがそれに続く。

「まったく大王の、何と胆の太いことよ。」

「鬼へびがすぐそこまで迫ってきているというのに、いつも通り落ち着いてどっしりと構えておられる。」

 大王に続いて、一行が連なって宮を駆け出たところを、鬼へびの凶悪な尾の渾身の一撃が襲いかかった。鬼へびの尾が宮の正殿を打ち壊した大きな音と大勢の悲鳴を聞いた大王は、手綱をぐいっと引き、竿立ちとなった馬上から振り返った。 

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