第六話 決断の冬


「海底の街は、散っていった多くの命が願った、最後の夢だった」


 生と死の狭間に位置する、ゆらぎの街。厚い水の壁は、現界と幻界を隔てていた。


「本当はトムもアルマも、もう生きてはいなかったんだ。かろうじて命を保っていたエミリー以外はみんな、散り際にわずかに残った幻想に過ぎない」


 そう解釈すれば、少女と老人が壁の外へ出られないのも頷ける。現界へと帰るには、彼らは死に近づきすぎてしまったのだ。


「僕は桜を咲かせようとしながら、知らず、エミリーを死へと追いやっていたわけだ」


 自嘲的に、灯火は笑った。


「だがそれは、きみにはどうすることも出来ないことだ」


 問題は、真実を知った人形が、如何なる決断を下したか。桜を咲かせれば、少女は死ぬ。咲かせなければ、彼女の夢は叶わない。

 あるいは、全て見なかったことにして、逃げるか。


「きみは、どの道を選んだのだ」


 人形は、目を伏せた。


「僕は――」


 ◇◆◇


 番人の夢から目覚めると、床に倒れ伏していた。トムの家の居間だ。

 灯りは無かった。暗闇の中を、目を凝らして眺める。火の消えた暖炉の前に、少女が倒れ伏していた。淡く輝く銀色の髪を見間違えはしない、廻だ。

 駆け寄って肩を揺する。身体のいたるところに、火傷のような生々しい傷があった。


「とう、か?」


 弱々しく、青ざめた口が動いた。彼女を運ぼうと、肩に手を回して。


「まって」


 かけられた声に、僕は動きを止める。

 彼女の右腕がよろよろと動いて、人指し指を上へ向けた。


「おねがい灯火、エミリーを」


 指差す先。強烈な冷気が、天井越しに伝わってきた。思わず、身を震わせる。

 今にも泣き出しそうな声で、彼女は言った。


「エミリーを、たすけて」


 ◆


 一面白銀に覆われている。寝室は計り知れない冬に支配されていた。

 踏み入れた足先に、痛みが走る。足首まで硬い氷がまとわりついて、近づけない。

 見つめる先。老人の遺体に伏せる、幼い少女がいた。動かない彼女の周囲には、白い靄のようなものが、きらきらと渦巻いている。外の世界全てから、自分を守るように。


「こないで、なの」


 締め出されるような、頑なな拒絶。エミリーの中で、強大な何かが脈打っているのを感じた。荒々しく、どこまでも冷たい力。完全に目覚めてしまえば、彼女の夢は街と共に、凍りついてしまうだろう。


 止めないと。そんなことは、分かってた。


「エミリー、やめるんだ」


 口をついて出るのは、陳腐な言葉。深く、暗い冬の奥底にいる少女には届かない。ほんの数歩が、縮められなかった。言葉が凍りついてしまったように。

 どうすればいい。どんな言葉なら、彼女に届く。


「それ以上は、戻れなくなるよ」


 呼びかけても、少女の背中はぴくりとも動かない。

 人の心の複雑さが、自分の不器用さが、憎かった。僕は人形だ。廻の言う通り、何にも分からないし、分かり合えない。


 肌に刺さる冷気が、一段と強くなる。歯を食いしばった。僕に出来る手は一つだ。しかし余りにも、勝算が薄い。

 エミリーを見捨てて、逃げるべきだった。廻を抱いて、水壁まで飛べれば。街は凍りついてしまうだろうけど、僕らが生き残れる可能性は高いだろう。


 命を賭けるか、逃げるか。


「ああ、くそっ」


 エミリーに背を向ける。僕の使命は、廻の夢を叶えることだ。

 階段を一息に駆け降りた。僕らが逃げたって冬の番人が、アルマがいる。始末は着く。

 がり、と歯を食いしばった。口の中に、鉄臭い味が広がる。足は止めない。

 壁に背をもたれて、廻は眠るように気を失っていた。華奢な肩を抱き寄せる。手に触れた感触を鍵に、思い出すのは孤島の夜空。


「灯れ、双翼」


 背中に炎の大翼を灯す。


 そして僕は、再び廻を横たえ、真上へ飛び上がり、天井を木っ端微塵に突き破った。


 一線を越え、全身を蝕もうと冬が襲い来る。させじと、炎を体に薄く纏う。

 エミリーを助けろ。それが主の命令だ。僕はそれを実行する。 残されたのは力ずくの手段だけだ。真っ正面から、冬の女王を押し戻す。

 呆然とこちらを見上げる少女がいた。床を突き破って現れるなんて、想像もしてなかっただろう。その隙が、最初で最後の機会。触れさえすれば、僕の炎で冬の女王を押し返してみせる。失敗すれば、僕も廻も凍りついて死ぬ。


 手を伸ばす。足先が凍りついた。構わない、右手さえ凍らなければいい。

 指先が、なびく金髪を掠める。


「こないで」


 エミリーの肩が震えた。氷が、腰まで上がってきている。

 ほんの僅かな距離だ。纏わりつく氷に白い稲妻を走らせて、肩を前へ押し出す。伸ばした指先が、いく度か撫でた、流れる髪の感触を捉えた。

 残った全ての炎を、手の平に込めて。


「こないでなのっ!」


 僕の目論見は、叶わなかった。ぱしんと乾いた音が響く。エミリーが、僕の手を打ち払った音。距離が開いた。腕一本分の、絶望的な距離が。冬は纏った炎ごと、腕を侵蝕する。

 死が、僕の首筋に指をかけていた。頭の中が真っ白になる。


「エミリー、聞いてっ」


 ただ、口だけはまだ動いた。


「君なら、乗り越えられる!」


 焦りの任せるままに、舌を回す。


「蕾が散ったときも、廻が離脱したときだって、乗り越えてきたじゃないかっ」


 エミリーはうつむいたまま、微動だにしない。


「君は強い! だからエミリー、正気に」


 僕の口は、それより先を言うことが出来なかった。顔を上げた少女の大きな瞳が、雪崩のように、泣きはらしていたから。

 とめどなく、大きな瞳から、氷の雫がこぼれ落ちる。


「どうしてなの、とーか」


 鈍器で殴られたみたいだった。僕は勘違いしていた。


「どうして、どうしてっ」


 吐き出される音が、熱く膨れ上がっていく。


「わたしは、さくらがみたかっただけなのに」


 また一段、吹き付ける冷気が強くなった。少女の慟哭に、呼応するように。


「どうして、ふゆがおわらないのっ」


 冬は終わらない。彼女の中に、幻想がいる限り。


「どうして、おじいちゃんはしんじゃったのっ」


 分からない。彼が何を思っていたのか、ついぞ推し量れなかった。


「どうして、おねえちゃんはかえってこないのっ」


 アルマはずっと、街にいた。少女の敵、冬の番人として。


「どうしてっ」


 泣きわめくエミリーの姿は、年相応の、ちっぽけな少女そのもので。

 エミリーが強い? 彼女はただ、人より我慢強くて、とびきり不器用だっただけだ。どこにでもいる、普通の少女に過ぎない。


「どうして、わたしのなかに、こんなのがいるの?」


 少女は胸を抑えた。そこに、化け物でも潜んでいるかのように。

 もっと早く、彼女の我慢に気づけていれば。僕にだって、彼女の重荷を少し分けてもらうくらい、出来たかもしれないのに。


「ねえ、おしえてよ、とーかっ!」


 涙に濡れた紺碧がふたつ、うねり狂う吹雪となって、僕を見つめている。

 答えを求める瞳を前に、人形に出来ることはひとつだけ。


 真実を話そう。それが彼女を、寒く、凍て付いた暗闇へ誘うことになろうとも。


 深く、深く息をつく。向き合え。氷塊に押し潰されそうな魂の奥底で、誰かがそう叫んでいた。喉を鳴らし、双翼の残り火を燃やす。取るに足りない幻炎は、僅かに口を回すことが出来る程度に、冬を食い止めてくれた。凍てつく空気を、肺に満たす。


「アルマとトムが、君に、冬の幻想を植え込んだんだ」


 ぱり、と、凍りつく。


「幻想が君の中にいる限り、この街で桜は咲かない」


 呆然と、青い瞳が見開かれる。言葉が無数の刃となって、聞くもの言うもの構わず、全てを斬りつけているようだった。


「幻想を倒す手段はある。使えば冬は過ぎ去って、桜は咲く」


 一転して、少女の表情に、希望が差す。僕はその光を、容赦なく踏みつけた。


「けれど君は、幻想無しじゃ、生きていることが出来ないんだ」


 だから。硬く、堅く目をつむる。


「君の前で、桜は咲かない。幻想を倒して、桜が咲けば。君は、死ぬんだ」


 刃が僕を貫き、少女の胸に袈裟斬りを浴びせた。

 彼女は口をぽかんと開けて、誰に問うでもなく呟く。


「わたしが、しぬ?」


 吹雪の向こうに狼を見つけた、子羊のごとく。華奢な体が、がたがたと震え始める。ようやく寒さに気づいたように、小さな両手で肩を掻き抱く。


「さくらをさかせたら、しぬ? いや、どうして、なんで?」


 うわ言のように繰り返す。血の気の失せた頬に、ぴきりと、一片の氷塊が張り付いた。


「さむい、さむいよ」


 少女は独り、厳冬のただ中で震えていた。


「しにたく、ないよ」


 彼女が死なずに済む方法を、僕は一つ知っていた。


「エミリー、こっちを見て」


 ふらふらと彷徨っていた彼女の瞳が、焦点を取り戻す。


「よく、聞いて」


 この口も、もうすぐ動かなくなるから。


「いいかい、エミリー。君が死ぬことなんてない」

「でも、さくらをさかせたら、しぬって」


 彼女は端から、ひとつの選択肢を除外していた。


「咲かせなければ、いい」


 小さな体の震えが、ぴたりと止まる。彼女の瞳が、信じられないものを見るかのように、僕を映している。


「さかせ、ない?」


 冷たい氷が、僕の胸を凍りつかせた。


「そう、君が桜を、咲かせなければいいんだ」


 夢ってのはたぶん、簡単に諦められるものじゃないんだろう。エミリーは願いを抱きながら、それを押し込めて生きていく。

 それで良いんだ。命を失うことに比べれば。廻はきっと、冬の番人に僕と同じ真実を知らされた。そして、手伝うのをやめた。夢より、エミリーの命が大切だったから。

 凍える唇を動かしながら、彼女と自分を説得する。


「もう一度、冬の女王を抑え込むんだ。それで、時間は稼げる」

「でも」

「大丈夫。僕が君を、外の世界に連れ出して見せる」

「そとの、せかい」

「そうさ」


 そこには、まだ見たことのない景色が、たくさん広がっているんだ。


「旅をしよう。美味しいもの食べて、いろんな人と出会って、いろんな場所に行って」


 そんな文句は、廻の受け売りだ。彼女の言う浪漫は未だ、分からない。それでも、エミリーがいてくれれば、楽しいだろう。


「さんにん、で?」

「そう、三人で」


 ずるずると、首まで這い上がってきていた氷が、ほんの一瞬、遮られた。


「だからエミリー、お願いだ」


 世界がぼやけて、きらきらと明滅している。凍りゆく意識の端に、流れる金色。

 息をするように、するりと、口が開く。


「死なないでくれ。君は、生きるべきだ」


 それはたぶん、生まれて初めて抱いた僕自身の願い。

 口が凍りついて、音の形が崩れた。意味を成さないうめきが、木枯らしとなって、喉の奥から這い出る。合わせた瞳が、最後のしるべ星だった。

 舞い落ちる粉雪のように、ふわりと、少女が立ち上がる。


「わたし、は」


 青い瞳が、ともし火となって揺れている。トムを抱いていた手が、僕へと伸ばされる。


「とーかと、めぐるといっしょに」


 小さな足が、薄氷を踏むように一歩、踏み出された。


「たびを」


 声が届いた。伸ばされた手が、僕の胸に触れる。


 寸前。


 甲高い音と共に、足場が消えた。

 凍りついた体は受け身を取ることも出来ずに、重い衝撃とともに激痛が走る。崩れた天井が、雪崩となって降り注いだ。

 衝撃で氷が剥がれて、少しだけ手が動く。頭の上に覆いかぶさる瓦礫を殴り飛ばすと、頬に冷たい感触が、ふわりと乗った。崩れ落ちた天井の向こうから、雪が舞い落ちる。


「ありがとう、なの」


 エミリーの涙が、雪となって舞い落ちる。

 覗きこまれた小さな顔は、泣きながら、笑っていた。笑わない少女の笑顔は、無垢で、無邪気で。何かを必死にこらえるように、張り詰めていた。


「とーかはずっと、わたしといてくれて」


 今動かないと、彼女は遠くに行ってしまう。


「いきててほしいって、いってくれて」


 だから。


「わたし、たたかえそうなの」


 話す少女の表情を、見たことがあった。小さな孤島でたった一人、龍に抗う決意をした時の廻に、そっくりだ。

 彼女はそっと、両手を胸に当てる。首からかけられた、大きなペンダントに。


「いまなら、ふゆにだって、かてる」


 僕はそんなことのために、言ったわけじゃない。


「エミ、リー」


 かすれた声が漏れた。どうにかうつ伏せになって、腕を少女へと伸ばす。

 ふっくらとした頬に触れる寸前、すっと、彼女は逃げるように顔を上げた。


「ごめんね、なの」


 エミリーが背を向ける。どれだけ力を込めても、僕の体は前に進まない。


「きっととーかは、わたしをとめるから」


 絞りだすように、声を上げる。


「行っちゃ、だめだ」


 かけられた言葉を振り切るように、少女はくるりと振り返って。


「はるがきたら、ふたりで、みにきてなの」


 微笑みとともに言葉を残すと。一歩、歩き出した。


 ◆


 瓦礫に包まれて、夜空を眺める。

 体を覆う氷は、薄くなってきていた。だからといって、動く気にもなれなかった。

 僕はエミリーを、冬の女王の束縛から救った。彼女を止めることは、出来なかった。頭上で揺らめく夜空に、ひときわ大きな光の粒が浮かんでいる。番人はもう、動き出しているだろう。


 瞳の端に、きらりと、艶やかな銀が流れた。流星のような色彩を、目で追う。その先に、一人の少女が横たわっていた。崩落に巻き込まれて煤けた髪は、それでもまだ、光を残している。


 ぺきりと音をたてて、胸を覆っていた氷が砕けた。行け、と。そう言われた気がした。

 尺取り虫みたいに地を這って、瓦礫を押しのけ、伸ばした指先が廻に触れる。何が僕を、突き動かすのだろう。正体不明のそれが体を支配する。不思議と、悪い心地じゃなかった。


 二人で眺めた孤島の夜空を、思い浮かべる。


「灯れ、双翼」


 暖かな灯が体を覆い、冬の欠片を吹き飛ばした。

 少女のぐったりとした体を抱えて、背に翼を広げる。


 桜の咲く、入江へ。

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