第六話 再起する夜

 白銀の長髪が風になびく。

 ひんやりと心地いい感触が、その命を僅かに繋いだのかもしれない。少女は今まさに閉じようとしていた瞳を、ほんの少しだけ開いた。


 すると、やわらかな光が彼女の目を刺激する。


「――ぅ、ん?」


 今にも消えてしまいそうなかすれた声で、廻はつぶやいた。

 その光は青白くて、しかしまぶしすぎるほど強烈でもなく、ただ静かに、横たわった少女を照らしているようだった。

 光の正体が気になって、廻はゆっくりと、目を慣らすように目蓋を上げていく。

 その蒼い瞳に映ったのは。


「ぁあ」


 思わず、万感の思いが声となって漏れ出てしまう。


 小屋の薄汚れた天井は、跡形も無くなっていた。もともと崩れかけていたのが、風に吹き飛ばされでもしたんだろう。


 そこに広がっていたのは、吸い込まれてしまいそうになる夜空の黒。それを彩るべくして散らばった、色彩豊かな星々。


 そして――


「まん、げつ」


 呆然とつぶやいた廻の視線の向こう。夜空の真ん中で、大きな満月が青白く輝いている。

 ただそれだけの、ごくありふれた景色なのに。彼女の心はどうしようもなく揺さぶられてしまったんだ。

 廻にはそれがまるで、少女と人形が初めて出会ったあの日の、あの晩の満月のように思えて。


 ――やあ、良い夜だね。

 ――君と一緒に旅がしたい。

 ――僕が、君を連れ出す。


 そう語った人形は、もういないけれど。

 今ここで、その夜空を見て。廻は、心の底から思い知ってしまった。

 一人で頑張って、一度はあきらめた。二人で頑張ってもダメで、絶望した。


 でも。それでもやっぱり彼女は――


「どうしてこんなに、惹かれちゃうのかなぁ」



 ――どうしようもなく、好きだったんだ。美しいこの夜空けしきが。



 そのことを、廻はやっと思い出した。


 すると、胸の内に何か熱いものが、とめどなく溢れてきて。

 一度は枯れようとしていた彼女の涙が、再びこぼれ始める。でもその涙は、さっきまでの涙とは少し意味合いが違った。


「やだ、いやだよ」


 噛みしめるように、激情を吐き出すように廻は言葉を紡ぐ。


「こんなのって、ダメだよ」


 そうだ。どうせ死ぬというのなら、まだ出来ることはある。

 まだ自分は、動ける。


「あたしは、ここから飛び出て、世界中を旅するんだ」


 粛々と自分の運命を受け入れようとしていた、さっきまでの声音とはまるで違う。か弱さの中に、確かな力強さが混じった声で。


 涙でぐちゃぐちゃになった顔を歪めて、夜空に叫んだ。



「こんなところで、終わってたまるかっ!」



 それは、一人の少女が生きる意味を見定めた瞬間。


 身体はボロボロ。夢を叶えるだけの力もない。仲間も居なくなった。

 それでも――


 ――その心は今、再び立ち上がる。



 ◆◇◆



 夜もだいぶ深くなってきた。虫の音は鳴りを潜め、暖炉の薪も燃え尽きようとしている。

 それに気づかないほどに、聞き入ってしまっていた。


「そんなこんなで、廻は立ち直ったわけだ」


 灯火は、暖炉の火を眺めながら語る。


「それから廻は、再び小舟を作り始めたんだ」

「うん?」


 ふと疑問に思ったことを、尋ねる。


「確か、木材は無くなったのではなかったか?」

「そうだよ」

「それでは、どうやって舟を作るんだ」


 ふふっ、と笑みをこぼして灯火は愉快そうに答える。


「あるだろ? 大量のが」

「ああ、なるほど」


 つまり。


「彼女は、君の体になるはずだった人形を使って、舟を作ったのか」



 ◆◇◆



 弱った体に鞭打って、這いずり回るように小屋を出た廻は、まず体力を取り戻すことから始めた。

 幸い、非常用の飲み水と保存食は、小屋の中に残っていた。けれど初めは、水を飲むのも精一杯。固形物を食べようとしても吐き出してしまう。そんな日々が続く中で、少しずつ、しかし確実に廻は回復していった。

 そして月の満ち欠けが一巡するころには、廻は元の美しさを取り戻したんだ。


 そしたら次に、廻は舟を作り始めた。材料は、大量に放置されていた失敗作の人形たち。それに、見るも無残な姿になってしまったおんぼろ小屋。外の世界に行くと決めた彼女には、もう必要のないものだ。それらをばらして、使えそうな木材を選び抜いて、蔓のひもで結び付けていく。

 二人で作った舟と比べると粗末な出来だったけど、廻はどうにか舟を作り上げた。


 当然、それだけであの龍を突破できるわけもないし、彼女もそんなことは分かってる。

 僕ら二人でどうしようもなかったあの龍に対抗する術なんて、そうそうあるものじゃない。


 でも廻にはたった一つだけ、僅かな勝算があった。


「これなら、ひょっとしたら」


 彼女は、動物を捌くための、石でできたナイフを皮のカバンに仕込んだ。孤島を脱出するための、起死回生の一手として。



 月夜の中で、着々と準備を進めていく。小屋は木材にするために解体してしまったし、食料の鶏も逃がしてしまった。もう一度舟を作って、脱出を試みるだけの資材は、ない。

 だからこれが、最後の一回だ。後戻りは効かない。


 そして、出発の夜。星のない、今にも雨が降ってきそうな真っ暗闇に曇った夜だった。

 長い白髪を、頭の後ろで一つに結ぶ。全ての準備は、整った。


「行こう」


 小舟は静かに、広大な湖へと乗り出した。






 廻は静かに舟を漕いでいく。しばらくの間は、順調に進んでいった。

 でも、そのまま何事もなく素通りできるわけもない。


 やがて、静かな湖に波紋が生まれ始める。


「来た」


 前方に大きなな渦潮うずしおが現れた。これまでに何度も煮え湯を飲まされてきたそれを、突破できたためしはない。

 このまま進めば、またいつも通り転覆して島まで押し戻されてしまう。でも舟はもう渦潮の波に呑まれつつあって、廻の腕力では脱出もできない。

 万事休すと思われた、その状況。


 でも廻は、諦めてなかった。


 彼女の立てた作戦では、渦潮を突破する必要なんてなかったんだ。


 息を大きく吸い込み、ゆっくりと吐き出す。それで、最後の覚悟が決まった。

 廻はゆっくりと、カバンの中からナイフを取り出すと。


 順手に構えたそれで――



――自分の首筋を、掻き切った。

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