第一話 終わりなき冬
落ちた先は、海の底に沈んだ街だった。
ワシントンD.C.。かつて絶大な権力を握っていた街の、成れの果てだ。
住人は、たったの二人。一人は、廻よりもずっと幼い少女。くすんだ金髪で、ガラス玉のように無機質な碧眼の彼女は、エミリー。もう一人は、年老いたお爺さんだ。枯れ木のように曲がった背筋と、深い皺を刻む眉根を不機嫌に歪める彼の名は、トム。
二人は僕を、家へと案内した。雪に覆われ、寂れた街道に並ぶ赤煉瓦の建物。一階は食堂のような造りで、二階にいくつかの部屋がある。
角の一室。無造作に置かれたベッドの縁に、長い銀髪の少女は腰かけていた。
開いた扉に驚く少女と、視線が交わる。彼女はぱっと笑みを咲かせて、駆け寄ってきた。
「灯火、無事だったんだねっ」
僕をぺたぺたと触りまわす廻に、胸を撫で下ろす。澄んだ声も、飛び跳ねる喋り方も、間違いなかった。
「ふむ、目覚めたか」
枯れた声がかけられる。廻は首をかしげて、老人と少女に気が付いた。
「彼らが、君を介抱してくれたんだ」
教えると、少女はごくりと唾を飲み込んだ。二人を前に直立して、勢いよく喋り始める。
「え、えと、はじめまして。あたし、廻って言いますっ」
柄にもなく硬い声音。でも、緊張するのも無理はない。彼女がどれほど、外の人との触れ合いを心待ちにしていたか、僕は知っていた。
トムが眉根にしわを寄せて黙り込んだ。それを廻は、飛びぬけた誤解をして。
「こ、言葉通じてないのかな。えー、ないすとぅ、みーちゅー」
エミリーはと言えば、未知の生物でも見るみたいに、不思議そうな視線を向けている。
「通じてるよ、言葉は同じだ」
僕は廻の脇腹を小突いた。間の抜けた顔をさらす少女。
老人の重苦しい咳払いに、壁に掛かるランタンの灯が揺れる。
「トムだ、好きに呼ぶといい」
「エミリーなの。ないすとぅ、みーちゅー」
顔を真っ赤に染め上げた廻は、今にも消え入りそうな声で呟く。
「え、えと。末永くよろしくお願いします」
思わず、ため息が零れたよ。末永くなんて、おかしいだろう?
廻が横目に睨んでくるけれど、赤く染まった顔で凄まれても迫力はぜんぜんない。
「茶でも淹れてこよう」
「わたしもてつだうの」
そんな廻に気でも遣ったのか、トムとエミリーはそう言って、ぱたんと閉じた扉の向こうに消えた。
途端に、廻がベッドに沈み込む。
「ぜったい、変な人だって思われた」
「じっさい変な人だったよ、さっきの君は」
ぴくりと、横たわる少女の肩が震えた。
「うう、嫌われたかも」
そんなことは無いと思ったけれど、言葉にはしない。
とめどなく後悔を漏らす彼女を尻目に、木窓を押し開ける。
「ほら。沈んでないで、見てみなよ」
肩をつついて外を指さす。廻はのそりと顔を上げて。
蒼い瞳を、まん丸く見開いた。
大通りを挟んで、煉瓦の建物が連なる。ところどころ崩れていて、倒れてしまいそうだ。
水の天井に揺れる月が、朽ちた街並みを照らす。音無く舞う雪の香りが、鼻腔を冷やす。
「夢じゃ、ないよね」
「うん」
「ほんとだよね」
「ほんとさ」
焼き付けるように眺める。それは、彼女の夢を叶える第一歩。
「あたしたち、来れたんだ。外の世界に」
◇◆◇
「水没した街、か。規模が大きくて、どうにも想像がつかないな」
「街全体が、大きな泡に包まれているような感じかな」
何をどうすれば、そんなことになるのか。
「それも、常夜の幻想のひとつだよ。まったく、そんなのばっかりさ」
疑問を見透かしたように、灯火は言った。
「それで、トムとお茶を飲みながら話をして、僕らは街について教えてもらったんだ」
灯火は少し考えて、口を開く。
「そうだな。まずは、終わらない冬の話からしようか」
「終わらない、冬」
言葉通りに受け取るなら、まるで悪夢だ。この森奥でそんな超常が起これば、いくら妖鬼である俺とて、生きていくのは難しい。
「その街は、季節が停滞していたんだ。いつまでたっても冬が明けずに、雪に覆われていた」
そもそも、水没した街に雪が降るというのがおかしい。それもまた、ひとつの幻想なのだろう。
「そして、もうひとつ」
人形は、右手の人差指をぴんと立てる。
「彼ら二人は、街から出ることが出来なかった」
「と、いうと?」
「僕と廻は、壁の外に手を出すことが出来た。無理やりの脱出も、出来なくは無かっただろう。でも、あの二人は違った」
「水壁の外に、まったく出れなかったということか」
灯火はうなずく。それは、昨夜聞いた孤島の話にも似ていた。。
「そんな街だったけど、悪い場所じゃなかったんだ。どういうわけか物資は豊富で、物静かな雰囲気も悪くなかったしね。だから、僕らは戦いの傷が癒えるまで、そこにお世話になることにした」
人形は一口、酒を煽る。
「そして、いちばん大事な話が、もうひとつ」
一拍明けて、彼は口を開いた。
「それはエミリーの、夢の話。小さな少女がたった一つ抱いた、望みの話」
紡がれる言葉に、人形の抱く想いの香りが、漂い始める。
◆◇◆
月が沈み、部屋は暗闇に覆われている。眠る廻のそばに座っていると、部屋の戸がきしんだ。燭台を持ち上げて、かざす。幼い少女が、全身を防寒具で膨らませて立っていた。
「エミリー。どうしたんだい、そんな恰好で」
大きな赤いジャケットに顔を埋めて、エミリーはおずおずと口を開く。
「とーかとめぐるは、きれいなけしきをさがしてるの?」
「ああ、そうだよ」
彼女は表情の乏しい顔に、心なし安堵した色を浮かべた。
「ついてきて、なの」
「どこへ」
彼女はすっと、とある方角を指さす。
「ふたりに、みせたいけしきがあるの」
▽
僅かな星灯りは、水の壁に遮られ、波に沿って揺れていた。廻を起こし、淡い雪明かりに映る廃墟街を、エミリーについて歩くこと少し。彼女はおもむろに、足を止める。
ぐるりと、辺りを見渡した。
「何もないように、見えるけど」
戸惑うように、廻が声を上げる。
薄く氷を張る、大きな池の辺だった。一面に積もった青白い雪に、枯れた木々がまばらに立つ。
「これが、あたしたちに見せたかった景色なの?」
エミリーは、小さく頷いた。
「でも、ほんとうにみせたいのは、ちがうの」
「本当に見せたいもの?」
首を傾げる僕らを尻目に、少女は枯れ木の幹にそっと触れる。
「このき、さくらっていうの」
彼女のもう片方の手は、胸から下げた銀のペンダントを握りしめていた。
「さくらはきれいな、おはななの。はるになれば、たくさんさくの」
「へえ、綺麗な花かぁ」
廻がじっくりと、枯れ木を眺める。皺の寄った幹と、雪の重みに折れてしまいそうな枝。生命を感じられない老木に、どんな花が咲くのか。僕には想像も出来なかった。
「このへんのきは、ぜんぶさくらなの」
「え、全部?」
見渡すと、池の周りを覆うように、枯れ木が立ち並んでいる。確かにどの木も、同じような特徴をしているように見えた。
驚く僕らを、どこか満足そうにエミリーは眺める。
「わたしがみせたいのは、さくらのはなびらが、ふってくるけしき」
青く輝く幼い瞳に、どんな景色が映っていたのか。
「それってすごく、浪漫だね」
負けず劣らず、廻が目を輝かせる。
「花びらが降ってくる景色、か」
確かに、それは絶景と呼べる景色かもしれない。
けれどエミリーは、さくらは春に咲く花だと言った。
「でもこの街の冬は、明けることがないんだろう」
だからそのままじゃ、花は咲かない。それは彼女も、分かっているはず。
僕の言葉に、幼い少女は小さな手のひらを固く握った。
「エミリー、君はどうして、僕らをここに連れてきたんだい」
じっと、小さな少女を見つめる。彼女は意を決して告げた。
「さくらをさかせるのを、てつだってほしいの」
「どうやって咲かせるんだい」
「ゆきかきとか、たきび。さくらは、あたたかさで、はなをさかせるから」
少女は悔し気に俯く。
「でも、わたしひとりじゃできなかったの」
彼女を手伝っても良いものか、僕は迷った。そんな僕なんてほっといて、廻は即断だった。
「ようし分かった、あたしは手伝うよ!」
「ちょっと待って廻、相談くらいして」
その選択が合理的かどうか、僕には分からなくて。
「だって、もし咲かせられなかったら無駄足だ」
ここは休息に専念して、少しでも早く外の世界に出ていったほうが良いんじゃないか。そんな考えが、僕の頭をよぎる。
そしたら廻は頬を膨らませて、出来の悪い子供を諫めるように言ったんだ。
「もう、やっぱりきみは、何にも分かってないっ」
いったい何が分かってないのか、相変わらず僕にはさっぱり分からなかった。
「桜を咲かせるのが、エミリーの夢なの?」
廻はひとつ、小さな少女に尋ねる。迷うことなく、彼女は首を縦に振った。
夢だとか、浪漫だとか。僕にはさっぱり、理解できなかったけれど。
そういうときの廻は頑固だから、僕はそうそうに諦めることになった。
◇◆◇
「冬に桜を咲かせる、か」
不可能では無いだろう。しかし、言うほど簡単なことではない。
それは、自然の摂理を無視するということなのだから。
「焚火程度でどうにかなるものとも思えないな」
おれの問いに、人形は肩をすくめる。
「その通り。僕らが思っていたよりずっと、それは難しいことで。それに、思いもよらない障害もあったんだ」
◆◇◆
月が昇るより先に家を出て、三人で街へ向かった。食料探しの日課だ。
「おおものなのっ」
くぐもった声が響く。廃墟の一棟、煤けた一室にある古びた木棚。埋もれるように半身を突っ込んだエミリーが、もぞもぞと動いていた。
「とーか、ひっぱってなの」
エミリーの腰を掴んで引っこ抜く。すすだらけになった幼女の両手には、一抱えほどもある大きな瓶が、宝物のように抱きしめられていた。
「それ、飲み物かい?」
金髪についたほこりを払って尋ねると、エミリーは力強く頷いた。
「あらまさ、なの!」
「なんだいそれ」
「にほんしゅの、めーがらなの」
それはお酒の一種なんだ。間違っても、幼女が目を輝かせて飛びつくようなものじゃない。
「これ、おいしいの」
相変わらずの無表情だったけれど、弾む声音が喜びを物語っていた。
「飲み物なんて、雪を解かせばいくらでも手に入るじゃないか」
そんなことを呟いてみると、不満そうな幼女に睨みつけられてしまった。
「とーかはまったく、わかってないの」
廻みたいなことを言う。顔をしかめると、エミリーは得意気に胸を張った。
「とくべつに、あとでのませてあげるの」
飲めば少しは、エミリーの言うことも分かるかもしれない。
「じゃあ、遠慮なく」
そんなやり取りをしていると、部屋の外から声が聞こえてきた。
「灯火、エミリー! そろそろ行こうよ」
「うん。今行くよ、廻」
▽
雪の積もった道を歩いていく。並び立つ朽ちた赤煉瓦の建物が、水壁越しの月光に照らされて、ゆらゆらと揺れていた。
「ほんと、不思議な街だなぁ」
落ち着きなく、廻がきょろきょろと辺りを見渡す。
「廻、よそ見してると危ないよ」
「そーなの、あぶないの」
僕とエミリーの心配もどこ吹く風とばかりに、彼女はどんどん進んでいく。
「大丈夫、あたしこれでも、運動には自信あるんだから」
振り返ってそんなことを言うものだから、廻には前が見えてなかった。そしたら案の定。
「うわぁっ」
つまづいて転ぶ。その体が、舞い散った雪煙の向こうに隠れてしまった。
「めぐる、だいじょーぶなの?」
「ほら、言わんこっちゃない」
駆け寄ってみると、廻は雪の中に埋もれて仏頂面をしていた。
「うぅ、冷たい」
その手をつかんで引き起こす。貸してもらった分厚いコートが、雪まみれだ。
「もー、ちゃんということきいてなの」
「あはは、ごめんねエミリー」
ふくれ面のエミリーに、廻は恥ずかし気に頬をかく。
「一体、何につまずいたんだい?」
「これだよこれ、木の根っこ」
白い大地に、黒い木の根が顔をだしていた。近くに生える桜の木の根だろう。
「みんな、枯れちゃってるね」
池の畔を見渡して、廻は近くの一本へと歩み寄る。
そして何気なく、痩せた幹に手を伸ばして。
突如、轟音と共に大地が爆ぜた。
「きゃぁっ!」
廻の叫び声。もうもうと雪煙が立ち込めて、視界が曇る。考えるよりも先に、廻を抱えて枯れ木から飛び退いていた。
何だかわからないけれど、それは攻撃だ。雪煙の向こうに、隠しきれない大きな気配があった。
抱えた少女を鍵に、孤島の星空を脳裏に呼び起こして。幻想を発現させる。
それは、一対の翼。
「灯れ、双翼」
顕現した炎翼を大きくはためかせて、雪煙をかき消した。そこにはもう、敵の姿はない。雪煙と共に大きな気配も掻き消え、元と同じ景色が広がっているだけだ。
ただ、一つだけ違うところがあった。それは、大地に残った傷跡。桜の根元が、砲撃でも受けたかのようにえぐれていた。
あまりにも強い力に、思わず身震いがする。戦って勝てるかどうかは、分からない。
「めぐる、とーか! だいじょうぶなのっ?」
雪まみれのエミリーが駆け寄ってくる。
「僕はなんともない」
「あたしも大丈夫。だけど、今のはいったい」
「分からない。けど」
廻を抱えて跳んだとき、雪煙の向こうに影が見えた。僕より二回りは大きな影だ。
そしてそれは確かに、人間の形をしていた。
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