第二話 対立する冬


「そうか、出会ったか」


 机の向かいに座るトムが、ぼそりと呟く。

 エミリーはベッドにもぐりこんでしまったから、廻と僕とトムの三人で、居間の机を囲んでいた。カンテラの橙光が揺れる中、重苦しい空気が漂う。

 意を決して、廻が口を開いた。


 「トムは、あれがなんなのか知ってるの?」


 彼は黙して語らない。その沈黙は、答えを物語っていた。


「あれについて、教えて欲しいの」


 深呼吸をひとつして、老人はこちらに目を向けた。


「冬の番人。終わらない冬の、魔物だ。それは、冬に抗う者に牙をむく」


 すっと、その眼が細められる。鋭い光を瞳に宿して、トムは言葉を突き刺した。


「例えば、桜を咲かせようとするとか、な」


 そんな台詞が、出てくるってことは。


「トムはエミリーの夢のこと、知ってるんだね。どうして手伝ってあげないの」

「冬の番人が、危険だからだ。だから、禁じた」


 老人は重く言い放つ。彼は表情を硬くし、音を立てて席を立った。


「お前さんらは禁忌に触れた。ここはもう、安全ではない」


 厳しい声音は、それ以上の問答を拒んでいた。彼は居間の扉へ歩み寄る。


「多少の装備があれば、脱出できるだろう」


 扉の取っ手に手をかけて、老人は背中越しに言葉を放った。


「用意はしておく。明日、ここを発て」


 ◇◆◇


「冬の番人、か」

「季節を纏った、強大な幻想さ」

「しかし、冬に抗う者を攻撃するのなら、狙われるべきはエミリーのはずだ」


 そこが腑に落ちない。灯火は少しだけ、驚いたような顔をした。


「ああ。確かに、違和感はあった。でも僕にとって、大した問題じゃあなかったんだ」


 出て行けって言われたわけだからね。やれやれと、人形は首を振る。


「そんな危ない所に、長居しようとは思わないだろ? ところが、そこでひと悶着あったんだ」

「廻とか?」

「ああ。彼女は、夢を大事にするんだ。それが自分のものであれ、他人のものであれ」


 少年は、喧嘩の始終を語り始めた。


◆◇◆


「街を離れよう」

「いいや、残るべきだよっ」


 かび臭い寝室で、僕らは言い争った。


「灯火だって桜、見たいでしょ?」

「でもここは危ないんだ。君になにかあったら、どうする」

「あんな幻想なんて、どうとでもしてやるんだから」

「それは出来ないよ」


 あの威圧感と、あの破壊力。冬の番人は、強大な幻想だ。


「まだ回復しきってない今の僕らじゃ、まず勝てない。僕らは、弱いんだ」


 廻は唇をかんで、うつむいてしまった。床に置かれたランタンが、少女の顔に影を映す。

 彼女は肩を震わせて、小さく口を開いた。


「エミリーはどうするの。このままじゃ、桜は咲かないんだよ?」


 廻を街に引き留めているもの。それは、エミリーだった。


「あたしたちが居なくなれば、エミリーの夢はもう、叶わない」

「そんなの分からないよ」

「分かる。一人でできるなら、あの子はとっくの昔に、さくらを咲かせてる」


 だって、と廻は続ける。


「あの子、よく似てるもの」


 それは、かつての彼女自身に。


「エミリーの力になりたい。それがどれほど救いになるか、教えてくれたのは灯火だよ」


 蒼い光が、僕を射抜く。廻は断固とした口調で言い切った。


「だから、街に残る」

「それは、かなり危険な寄り道だ」

「寄り道にだって、価値はあるよ」


 少し表情をやわらげて、少女は言葉を紡ぐ。


「それってなんだか、浪漫でしょ?」


 やっぱり、理解できなかった。人の心は、人形が理解するには複雑すぎて。

 分かったのは、僕らの喧嘩の勝敗が、今の一言でついてしまったこと。僕は廻の作った人形で、彼女の従者でしかなかった。


「僕は手伝うつもりはない。番人を警戒するので手いっぱいだ」


 小さく、ため息ひとつ。


「それでも良いなら、街に残ろう」


 ◆


「あたしたちを、この街に住ませてほしいの」


 朝食の机で、廻はトムへ切り出した。老人はことりと、缶詰を机に置く。


「ならん、出ていけ」

「お願い、トム。どうしても、桜を咲かせてみたいの」


 お願いと言ってはいても、頑として譲るつもりのない声音だ。しばしの間をおいて、トムはひとつ溜息をついた。


「この家からは出ていけ。それと、もうひとつ条件をつける」


 それが呑めるのなら、住まわせてやろう。

 廻の瞳が輝いた。すぐにでも頷きそうな彼女を抑えて、トムに尋ねる。


「条件っていうのは?」


 ごほんと一つ、老人は咳払いをした。


「十日後。お前さんらがこの街にいられるのは、それまでの時間じゃ」

「短すぎるよっ」


 顔色を変えた廻が噛み付く。トムの視線は変わらず、冷たいまま。

 少女は深く目を瞑って、しばらく唸り声を響かせると、しぶしぶ顔を上げる。


「分かった、その条件を呑むよ」


 老人は意外そうに片眉を上げると、皮肉げに引きつった笑みを浮かべる。


「ならば、いいだろう」

「めぐる、どこかにいっちゃうの?」


 おろおろと視線をさ迷わせていたエミリーが、心配そうに問いかける。彼女の頭を、廻は優しく撫でた。


「大丈夫、しばらくはこの街にいるから」


 それでもどことなく、幼い少女の表情は暗い。


「ありがと、なの」


 ぼそりと呟くその声は、いつもより淡泊に聞こえた。そんな少女の頬を、廻がつまむ。


「それにしてもエミリーって、なんだかヒンヤリしてるね」

「ひえしょう、なの」

「冷たくて、気持いい」


 試しに僕も、エミリーと手を繋いでみる。暖炉の効いた部屋の中に居るのに、少女の小さな手は驚くほど冷たかった。


「なかなか、なおらないの」


 いっそう表情を暗くさせるエミリーの頭に、手を置く。


「大丈夫さ。手が冷たい人は、心が温かいらしいよ」


 硬い表情のエミリーの頬を、ぐにぐにと動かして廻が遊んでいた。


「エミリーのほっぺた、柔らかい!」

「やめて、なの」


 じゃれつく二人を横目に、トムに尋ねる。


「どうして、許してくれたんだい?」


 彼は遠くを見るように、視線を彷徨わせた。


「これも、きっかけだ」


 その言葉は、僕でない誰かに向けられているように聞こえて。

 漏れた呟きに、問い返すことは出来なかった。皺だらけの顔に、あまりにも多様な色彩が混じっていたから。人形には到底、推し量ることなんてできない。


「よし、新しい家を探しに行こう」


 廻の号令に、朝食を飲み込んで、僕は席を立った。


 ◆


「あたし、この缶詰っていうのあんまり好きじゃないな」


 廃墟の棚の中から出てきた銀色の缶を、渋い表情の廻が棚に戻す。


「どうしてなの?」


 不思議そうに尋ねるエミリーに、廻はため息をついた。


「だってなんか、ヘンな味がするもん。ねえ、灯火」

「そうかい? 僕はあんまり感じなかったけど」


 廻が戻した缶詰を手にとって、背嚢に放り込む。


「でも、好き嫌い言ってちゃだめだ。君は食べないと生きていけないんだから」

「そうだけど、さあ」


 力なくうなだれる廻の袖を、エミリーが引っ張った。


「じゃあ、めぐるはなにがすきなの?」


 しばらく考えて、廻は人差し指を立てる。


「子山羊の丸焼きとか、炒め赤幼虫とか、あとつぶつぶの青い実とか」

「めぐる、むしたべるの?」


 顔を青くして、エミリーが数歩後ずさる。廻は不思議そうに首をかしげた。


「白や青のは不味いけど、赤い幼虫はほんとに美味しいんだよ」


 言いながら思い出したのか、少女の口端が僅かに緩んだ。


「今度見つけたら、エミリーにも食べさせてあげる!」

「ううん、いらないの」


 力強く首を横に振るエミリーに、廻は残念そうに肩を落とす。


「ほら、行くよ二人とも」


 力なく歩く廻を引き連れて、エミリーの案内の元に、僕達は食料を探していた。街の廃墟にはどういうわけか、缶詰みたいな保存食の蓄えが多く残っていたんだ。まるで、滅びることが分かっていたかのように。

 廃墟の外に出ると、相変わらず水に覆われた夜空が見えて、月が揺れていた。


 ◆◇◆


「新しい家と食料は、そうたいした問題じゃなかった」


 トム宅からそう遠くない場所に、ふたりは拠点を移したという。


「問題は、桜をどうやって咲かすか」


 方針は、ひとつしかなかった。


「暖かくなれば、桜は咲く。廻とエミリーは、さっそくたき火を初めて」


 彼女らが思ってたよりも、遥かに、それは困難だった。


「僕らは、思い知ることになる」


 自然の流れに抗うことの、難しさを。


 ◆◇◆


 池の畔に立つ、一本の枯れた桜の木。僕を二人縦に並べたくらいの高さで、両腕を伸ばせば抱えられるくらいの太さ。それが、初めに選んだ一本だった。


「さっそく、ゆきかきするの!」


 エミリーの一声のもとに、少女二人は桜の世話を始めた。始めたところまでは、良かったんだけど。

 数刻も経つころには、最初の威勢はもう、見当たらなかった。


「ひ、きえちゃったの」


 寂し気にエミリーが呟く。へとへとになって廻は座り込んでいた。


「ま、またかぁ」


 積り積もった雪は、鉄のように硬く、分厚い。廻が掘ってエミリーが運んで、周りの雪を除けきるころには、彼女たちの体力は底を突いていた。

 やっとの思いで火を起こしても、雪と風のせいで、すぐに消えてしまう。


「このままじゃ、だめなの」


 エミリーの嘆きが、すべてを物語っていた。


 ◆


「ちょっと、冬を甘くみてたよ」

「みてたなの」


 ぐったりした廻とエミリーが、連れ立って帰路を歩く。その日は成果を残すことなく終わり、後ろから眺める二人の背は、どこかくたびれていた。

 廃墟街を歩いていると、ふと、エミリーが立ち止まる。


「ねえ、めぐる」


 か細い呼びかけに、廻はきょとんと首を傾げた。


「どうしてめぐるは、てつだってくれるの」


 尋ねる声は、怯えているようだ。


「わたし、だまってたの。さくらをさかせるの、だめっていわれてたこと」


 少女の肩は、小刻みに震えている。


「いったら、てつだってくれないとおもって」


 ぽたり、ぽたりと、水滴が滴って、雪に染みる。


「でも、そしたらめぐる、あぶないめに、あって」


 幼いながらに、責任を感じていたらしい。眼尻に涙が浮かんでいた。

 廻の細い腕が、幼い少女を優しく抱きしめる。


「大丈夫、あのくらいへっちゃらだから」


 だって、龍より強い人形が守ってくれるんだもの。少しばかり棘のある視線を向けてくる廻に、僕は肩をすくめた。


「あたしがきみを手伝うのはね、景色が見たいってだけじゃないの」


 廻は、少しばかり頬を染める。照れを隠すように、彼女は微笑んだ。


「友達に力を貸すのは、当たり前のことでしょ?」


 せき止めていた川が決壊したように、エミリーは声を上げて泣いた。廃墟の街に、少女の泣き声が響く。相変わらず、空には月が揺れている。

 思う存分泣いた後に、エミリーは大きな声で宣言した。


「わたしも、めぐるのゆめ、かなえてあげるの!」

「それじゃあ、一緒に旅をする?」

「うん、めぐるとたびするのっ」


 小さな手のひらを握って張り切るエミリーに、僕はなんとなく、もやもやした気分になった。廻と絶景を探しに行くのは、僕の役割であって、使命だ。その役目をエミリーにとって変わられるのは、なんだかこう。


「どうしたの灯火、そんな仏頂面して」


 廻が不思議そうに、顔を覗きこんでくる。


「別に、なんでもないよ」


 思わず目をそらしてしまう。それがいけなかった。

 いたずらを思いついた子供のように、少女はにやりと笑う。


「ははぁ、さては灯火、エミリーに妬いてるんだ」


 少なからぬ衝撃が、僕の全身を駆け抜けた。


「妬いてる、僕が?」


 それが嫉妬という感情なのだと、僕は初めて知った。


「うんうん、きみにもちゃんと感情が芽生えてるみたいで、あたしは嬉しい」


 自分の感情は、いまいち掴みきれてなかったけれど。訳知り顔で頷く廻にどうにも腹が立ったから、足元の雪を掬い取って、投げつけてやった。

 弧を描いて飛んだそれは狙い違わず、にやけ面に命中して砕け散る。


「わぷっ」


 正面から食らった廻が、立ち止まった。少しの間をおいて、その肩がふるふると震えだす。慌てて、エミリーが口をはさんできた。


「とーか。けんかは、よくないの」


 その進言は、僕が雪を投げつける前にするべきだった。


「よくもやってくれたね、灯火」


 雪を被った廻から、くぐもった声が聞こえてくる。


「覚悟、できてる?」


 声音を聞けば、僕にでも分かった。彼女は怒っている。

 廻はおもむろに、大地へ手を伸ばすと。


「とりゃっ」


 雪玉を投げつけてきた。けど、簡単に当たってやるつもりはない。一直線に飛んできたそれを受け止めて、勢いのままに投げ返してやる。雪玉はまたしても、吸い込まれるように、廻の顔面へと直撃した。


「遅いよ。僕に当てたきゃ、龍の一撃くらい速くないといけない」


 廻の顔が引きつる。エミリーが、やや青い顔で忠告してきた。


「ほんとに、けんかはよくないの」


 でも、そうなってしまえば止まらない。僕も廻も火がついてる。


「ああもう、怒った! ぜったい当ててやるっ」

「できるものならやってみな」

「もう、わたしじゃとめられないの」


 そうして、壮絶な雪合戦が始まった。

 僕らは騒々しく、家へと走っていく。途中から、なぜかエミリーも雪玉を投げつけてきたから、僕はきっちり投げ返してやった。怒った二人が、やたらめったら投げつけてくるものだから、僕も何発か被弾したよ。でもその数倍は当ててやったから、僕の勝ちだ。

 トムの家に着くころにはもう、三人で夢中になって雪玉を投げ合ってた。

 それは久しぶりに、心から楽しいと思えた出来事だった。




「わたし、みんなといっしょに、おはなみがしたいの」


 暖炉の前で、濡れた髪を乾かしていたエミリーが、そんなことを言った。きょとんと、廻が首をかしげる。


「みんなって?」

「おじいちゃんと、おねえちゃん。みんなさくらをみて、わらってたの」


 小さな少女は、首にかけた銀色の大きなペンダントに触れた。


「これ、おねえちゃんがくれたの」

「へえ、中に何か入ってるのかな」


 エミリーがぱかりと、蓋を開ける。中身は空っぽだったけれど。


「何か、入っていたみたいだね」


 そこに、小さな玉を埋め込めそうなくぼみがあった。


「おねえちゃんが、もってっちゃったの」

「そのお姉さんは、いま、どこに?」


 今度は僕が尋ねる。エミリーは、悲し気に俯いた。


「もう、あえないの。とおくに、いっちゃったから」


 気を取り直すように、金髪の少女は顔を上げる。


「でもいまは、おじいちゃんといっしょ。だからおじいちゃんと、おはなみするの」


 そうすれば、またきっと。


「おじいちゃん、むかしみたいにげんきになってくれるから」


 嬉しそうに、無邪気に語る少女。


「じゃあ、トムのために桜を咲かせようとしてるのか」

「それも、りゆうなの」


 エミリーは頷いてから、何かに気付いたように表情を固めて、慌てて言葉を付け足す。


「とーか、めぐる。これ、おじいちゃんにはないしょなの!」


 僕は頷きを返して、廻は柔らかな微笑みを浮かべた。


「うん、あたしたちだけの秘密にしよう。灯火も言っちゃだめだよ?」

「分かってるさ」


 ようやく安心したのか、エミリーはほっと息を吐く。

 気合を入れるように頬を叩いて、廻が勢い良く立ち上がった。


「よーし、そういうわけなら、明日からもっと頑張らないと。トムに、とびきりのさくらをプレゼントしてあげよう!」

「おー、なの!」


 掛け声と共に、小さな拳を天井に突き出すエミリー。そんな光景を眺めていると、二人の瞳が僕を捉えているのに気付いた。


「ほら、なにしてるの。灯火も一緒に」

「僕は手伝うつもりは無いって」

「でも、あたしたちを守ってくれるんでしょ? だから、ほら」


 僕の一本しかない腕をつかんだ廻が、無理やりそれを頭上に掲げる。


「はい、掛け声!」

「お、おー」


 なんとなく勢いで、言っちゃったよ。


「うん、それでよし!」


 廻は満足そうにうなずいて、エミリーも嬉しそうに掛け声を繰り返している。僕はなぜだか、体が暖かくなるのを感じていた。暖炉の灯とはまた違う、胸の奥から湧いてくる暖かさ。それが何かは分からなかったけど、心地よくて。

 街に残るのは、遠回りなだけだと思っていた。そのはずなのに。

 居心地の良さを感じてしまっている自分が、確かに居たんだ。


 ◇◆◇


「エミリーの願いを聞いて、廻のやる気はさらに高まったわけだけど。やっぱり僕らには、知識と経験が足りなかった」

「それで、どうしたのだ」

「知識がありそうな人の、力を借りようとしたんだ。その夜、廻はトムに助力を頼んで」


 そしてそれは、彼と僕らの間に、大きな溝を生んでしまった。


 ◆◇◆


「さくらを咲かせる知恵はないかな」


 エミリーが寝てしまった後。廻はトムに尋ねた。


「自分たちで考えることだ、もう帰れ」


 言い捨てて、老人は暗い廊下を歩いていく。

 廻はあきらめの悪い女の子だ。素早く回り込んで、言葉を浴びせる。


「お願いトム、力を貸して。エミリーの夢を叶えられるかもしれないの」


 必死に訴えかけるも、彼は聞く耳を持たない。


「そこをどけ。部屋に入れん」

「トム、待ってくれ」


 彼の落ち窪んだ瞳を見つめる。まるで濁ったガラスのようだった。


「ほんの少し、知恵を貸してくれるだけで良いんだ」


 追いすがる言葉に、トムはちらりとも視線をよこさない。何か噛み合わなかった。違和感のまま、曲がった背中に声をかける。


「エミリーの願い、叶えてあげたいだろう?」


 初めて、トムは振り返った。僕らを一瞥すると、大きく溜息をついて。


「勘違いするな。そんなものは、叶わんほうがよい」


 廊下の暗がりに、言葉が吸い込まれる。冷え切った冬の、寒く重たい沈黙。廻の体が、揺れた。一瞬のことだ。彼女はトムの胸倉を、思いきりつかみあげていた。蒼い瞳が、暗がりに爛々と輝く。

 犬歯をむき出して、流れる銀髪を振り乱して、廻は叫んだ。


「トム、あなただけはっ」


 つかんだ胸倉を揺さぶる。やり場のない激情が、吐き出される。


「あなただけは、それを言っちゃダメなんだよっ」


 まっすぐにトムを睨みつける少女。冷めた顔で、老人は廻を眺める。


「廻、落ち着いて」


 間に入って、胸を掴む手を引きはがした。なおも廻は歯を食い縛って、息遣い荒くトムを睨みつける。


「言いたいことは、それだけか」


 彼はぼそりと漏らして、部屋へと入っていった。

 扉が閉まると、少女は力が抜けたように、床にへたりこむ。


「どうして、あんなことが言えるの」


 声音には、少しだけ湿っぽいものが混じっていた。廻の背中に、手を添える。


「もう、帰って寝よう」


 少女は小さくうなずいて、ふらりと立ち上がった。

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