第十話 雲上の夜

「その戦いで、僕らは龍に勝利した」


 あっさりと、灯火は結末を告げた。


「無傷で、とはいかなかったけれどね」


 そう言って少年は、赤い法被の右袖を揺らす――本来あるべき中身のない、その右袖を。


「その右腕も、龍に?」

「うん。あいつに勝つには、必要な犠牲だったんだ」


 薄氷を踏むような戦いだったよ。

 灯火はしみじみと語る。


「もし何かが少しでも違っていたら、きっと僕らは負けていた。何かが少しでも狂っていれば――僕らの旅は、始まることなく終わってたんだと思う」


 おれはそれを、目をつむりながら聞いていた。


 深夜の空気が、徐々に薄れ始めている。


「もうじき、夜が明けるな」

「ああ、もうそんな時間かい。ずいぶんと長いこと話していたんだね」


 少年は大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。


「うぅん、良い空気だね。それじゃあ、この話にもそろそろひと段落つけようか」


 龍に勝って、それから僕らは――


「――ひとつ、素敵な出会いをしたんだ」



 ◆◇◆



 右腕を犠牲にした捨て身の一撃は、龍を撃破するのに十分な衝撃を与えたらしい。いま、その蒼い巨体が飛ぶ力を失って遥か眼下へと落ちていく。気づけば、ずいぶんと高いところまで昇ってきていたみたいだ。


 終わった。勝利した。


 すぐには実感がわいてこない。そしてそれは、腕の中の彼女にとっても同じことだったみたいで。

 しばらくの間、二人して呆然とその場に浮いていた。


 ぽつりと、廻がつぶやく。


「勝った、の?」


 僕はそれに答える。


「勝った、ね」


 廻へと視線を向ける。すると、ばっちり目が合った。

 しばしの無言。


 先に口を開いたのは、廻だった。


「やった」


 気が抜けたのか、僕の首に回した両腕から力が抜けていく。

 ずり落ちそうになるその体を、慌てて支えなおした。


 そしたら彼女は、今度は逆に勢い良く抱きついてきて、安堵の笑みをこぼす。


「やったぁ!」


 それと同時に、その眼から涙があふれだした。悲しみの涙じゃない、それは、喜びの涙だ。

 人って嬉しいときにも泣くんだな、なんてズレたことを考えながら、ようやく僕にも実感が追いついてくる。


――勝ったんだ。


 すると、満たされるような達成感とともに、全身からどっと疲れが出てきて。

 今さらになって、無くなった右腕の付け根が痛み始める。


「って、そうだ灯火! きみ、右腕が」


 思い出した廻が、最後の一撃でもぎ取れてしまった右腕の付け根へと目を遣ると、そこには、木と土でできた骨組みが露出していた。

 それは、木でできた人形としての、僕の体だった。


「あれ、血が出てない」

「うん、どうもここだけ人形に戻ったみたい」


 だから、痛みも出血も最小限で済んだんだ。

 それを聞いた廻の顔から、暗い色が少しだけ消える。


「うん。それなら、良かった」


 ほっとしたように笑う廻の顔を見ていると、徐々に緊張がとけていって――


 ――あ、まずい。


 脱力しすぎて、思わず双翼を消してしまった。


「え?」


 そうすると当然、僕らは真っ逆さまに落ちていく。


「ちょっと、灯火っ。落ちてるよ!」

「うん」

「いや、落ちちゃうって!」


 激しい疲労のせいで、僕の意識はだいぶ混濁してたみたいでね。

 朧げな意識のなかで、浮遊感を感じてた。


 夜闇につつまれて、龍が創り出した雲の中を、ただ二人で落ちていく。ぶ厚くて黒い雲を、切り裂くように。

 耳元で風切り音が響く。全身で受け止める風は、戦っていた時の壮絶な不快感もあって、爽快に感じた。


 しばらくすると、だんだんと雲が薄くなり始め、視界に光が宿っていく。


 そして、創られた黒雲をくぐり抜け――


――その瞬間、僕らは息を呑んだ。


 朦朧としていた意識が、はっきりと目覚めてしまう。

 それほどの衝撃が襲ってきたんだ。


 そこに広がっていたのは――



「雲の、海」



 それは廻の声だったのか、それとも僕の声だったのか。

 ぽつりと呟かれたその一言はどこに届くこともなく、目の前に広がる圧倒的な静寂へと吸い込まれていく。


 それは、雲だった。どこまでも途切れることのない雲の連なりを、僕らはさらにその上から眺めていたんだ。


 まだ、本物の海を見たことはなかったけど。

 広大で、ただ悠然とそこに在る。海ってのはきっとこんな感じなんだろうなっていう直感が、その言葉を漏らさせた。


 それは、雲よりも高い空に至った者だけが出会うことを許される、特別な海。


 僕らは、天空の海を泳いでいた。


 見上げれば、そこには満天の星空。

 雲をも越えた天空の大気は、清らかな湧き水のように冷たく透き通っていて。目を凝らせば凝らすほど、月無き夜空を無数の星々が彩っていく。


 眼下には、果て無く広がる雲の海。

 ひとつひとつは小さな光でも、集まれば大きな光になる。今、無数の星明かりがその白き大海原を、青く、蒼く、映し出していた。


 冷ややかな風が両脇を通り抜けていく。

 その風音さえも、かえってこの静寂を引き立てるだけだ。


 果たして今自分は落ちているのか、それとも浮いているのか。

 それすら分からなくなってしまうくらいに、その景色は壮大で。五感の全てが圧倒されていた。

 小さな島では感じることのできなかった世界の広さに、心が震える。



 それはまごうことなく、絶景だった。



「浪漫、だね」


 ぽつりと廻が呟く。


「これが、世界」

「うん」


 そう、これこそが。


「これから僕らが旅する、世界だ」


 ゆっくりと、眼下の雲が近づいてくる。気付けば、かなり低いところまで落ちてきていた。

 再び双翼を広げて、ゆっくりと落下の速さを相殺していく。

 雲海への突入を目前にして、僕らは宙に静止した。


「そろそろ行こうか、廻」


 いつまでもこの素晴らしい景色を見ていたいところだったけど、そういうわけにもいかない。

 僕らは、この景色をも越えるほどに美しい絶景を、探しに行かなければならないのだから。


 もう、廻を島に縛り付ける要素はない。今の彼女は、自由だ。どこにだって行くことが出来る。


「うん、行こう」


 そして、その記念すべき第一歩を踏み出そうとして。


 ぷっつりと、唐突に、僕の中の致命的な何かが途切れるのを感じた。


 双翼が、消滅する。浮いていることが出来ない。

 直感で分かったよ。これは、どうしようもないやつだって。

 どうも僕は、力を使いすぎたみたいでね。その反動が今になって襲ってきたってことらしいんだ。

 目の前が真っ暗になる。


「灯火、しっかりして!」


 その廻の声を最後に、僕の意識はあっさりと途切れちゃって。


 そのまま廻と僕は、遥か下にあるであろう水面に向かって真っ逆さまに落ちていった。 



 ◆◇◆



「まったく、いつだって僕と廻の旅は波乱に満ちてたんだ」


 一難去って、また一難ってね。

 そう語る灯火は、窓の向こうで少しずつ白み始めた夜空を見ていた。


「とまあ、そんなこんなで僕らは孤島から脱出したわけさ。そういうわけで、このお話はひとまずおしまい」

「いや、待ってくれ」


 そうは言われても、灯火が変なところで話を区切るせいで続きが気になってしようがない。


「君らは雲の高さから落下して、無事だったのか?」

「無事じゃなかったら、今僕はここに居ないだろ」


 当り前じゃないか、と言わんばかりに灯火が答える。

 一度死からよみがえったという彼が言っても、いまいち説得力に欠けるのだが。


「まあでも、そうだな。それなら、すこしその先のことも話しておこうか。夜明けまで、まだ半刻くらいはあるだろうしね」


 本当は、明日の夜話すつもりだったんだけどな。

 なにやらぶつくさ言いながら、少年は語りだす。


「僕らが落ちた先。そこは、海だった」


 雲海じゃない。

 本物の、たくさんの塩辛い水で満たされた、海。


 そこで僕らは――


「――ひとつの幻想に、迷い込んだんだ」

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