エピローグ 海底の夜
――おじいちゃん。
――どうした。
――あのね。人がたおれてたの。
――人、だと?
――うん。女の子と、男の子。
――ふむ、迷い込んだのか。
――おじいちゃん、おじいちゃん。
――こら、引っ張るな。
――はやく。助けなきゃ。
――しょうがない。
――こっち、はやく。
――分かったからそう慌てるな。しかし、外の人間がここに来たということは。
あるいは。
――いよいよ、時節が来たということなのかもしれん。
◆◇◆
冷たい場所に、寝ころんでいた。
「寒い」
背筋が凍える。吐いた息は、白い靄となった。
ゆっくり立ち上がると、体のあちこちが悲鳴を上げて。思わずついた膝が、真っ白な大地にめり込んで止まる。
「これは、雪?」
ふわふわで、押すと硬くなるなにか。その上、すごく冷たい。
両手で掬ってみようとして、思い当たった。
「ああ、そうか」
左腕が無かった。朦朧としていた記憶が、蘇ってくる。
孤島からの脱出、龍との戦い。そして気付いたんだ。廻がいない。
あたりを見渡すと、目に入るのは白く染められた景色。月明りに照らされ、星のように輝いている。どこにも、廻はいない。
「どうしよう」
焦りに焦った僕は、その場で右往左往してたんだ。
ふと、何かが近づいてくる音が聞こえた。ざくり、ざくりと、雪を踏みしめる音が。
「廻?」
振り返る。そこにいたのは、よく知る銀髪の少女じゃなかった。
「残念ながら、違うようだ」
茶色の分厚いコートを羽織った、一人の老人と。
「おきたの」
ぶかっとした深緑色のジャケットを着こんで、銀のペンダントをぶら下げた、まだ幼い少女が立っていた。
「君たちは、誰だい?」
少女が透き通るような声で答える。
「わたし、エミリー」
「エミリー。初めまして、僕は灯火っていうんだ」
「とーか?」
「うん、そうだよ」
背筋の曲がった老人は、じっと僕を観察しているようだった。やがて何か結論が出たのか、彼はひとつ息を吐く。
「わしは、この子と二人でここに住んどる者じゃ。名はまあ、トムとでも呼べ」
しかし、分からん。
トムと名乗った老人は、眉根を寄せて尋ねてきた。
「お前さん、いったいどこから来た?」
僕にだって、分からなかったよ。困惑していると、にわかにトムは、踵を返した。
「まあいい、ついて来い」
僕は歩きだした。あちこちが痛んだけど、歩けないほどじゃない。
老人が、ちらりと振り向く。
「お前さんが探しとるのは、銀髪の少女じゃろう?」
まじまじと、トムの顔を見つめてしまった。不機嫌そうに、彼は鼻を鳴らす。
「無事じゃよ。気を失っとったから、家に運び込んだ」
彼の言葉に、知らず張り詰めていた緊張が、抜けていく。
「そう、か」
ようやく、周りに意識が向き始めた。
相変わらずの、夜だ。僕が倒れていたのは、ちょっとした広場だったみたいで。少し離れたところに、雪をかぶった植木が並んでいる。
辺りは明るかった。雪が月明かりを蓄えて、景色を白く映し出していたんだ。
そして、驚くべきものが、僕の視界に映っていた。
見つめる視線の奥。白い景色に紛れるようにして。
「これは」
山のように大きく、真っ白な宮殿が鎮座していたんだ。
「きれい、でしょ?」
エミリーが無表情に、それでいて自慢げに胸を張って言う。
壁、屋根、そして正面に連立する荘厳な柱。そのすべてが、白い。月に照らされ、神聖さを際立たせる、その建築の名は。
「ホワイトハウス。かつて栄えた大国を象徴する、歴史ある建物じゃ」
今となっては、こんな海中に埋もれてしまっとるがの。老人はしみじみと呟きを漏らす。
「海中だって?」
「なんじゃ、気づいとらんかったのか」
老人はおもむろに、上空を指さした。つられるように、空を見上げて――こんどこそ僕は、驚きに打ちのめされる。
思っていた月は、そこにはなかった。星の一つさえ、見当たらない。
ただ、月と思しき何かなら、そこにある。ゆらゆらと揺らめく、無数の光。月夜を水中から見上げたら、あんな感じだろう。星明りが、水の膜を通して曲がりくねっていた。
「滅びた大国の都、その成れの果て。冬に覆われておって、わしら以外に住人もおらん。そしてなにより」
老人は静かに、空を見上げる。厚い水壁に覆われた、その空を。
「この地は、海の底に沈んでおるのじゃ」
息を呑んで聞き入る僕に、トムは皮肉げに、乾いた声で笑う。
「ようこそ、海底の街——ワシントンD.C.へ。まあ、歓迎はせんがの」
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