第八話 幻想の瞳

 酒を汲んで屋根に上がると、うつ伏せになった人形が頭を抱えていた。


「酔ってるのか?」

「そうかも。なんだか、心が痛いよ」


 くぐもった呻きのように、返事が返ってくる。

 ごろりと寝返りを打って、灯火は仰向けに手足を投げ出した。


「本当に未熟だったんだな、あの頃の僕は」

「少しは変われたのか」

「嫌でも変わるさ、千年も生きてこれば」

「見た目はただの子供だが」


 喉に引っ掛けるように、灯火は口の端を緩める。


「ただの子供に、見えるかい?」


 その笑みに、子供特有の無邪気さは、欠片も見当たらず。


「いや、見えん。失言だったな」


 そのくせ仕草は、少年に寄せている。それがいかにも、歪に見えるのだ。

 酒を継ぎ足した器を置くと、灯火は身を起こす。


「久しぶりに思い出すと、歯がゆいことばかりだ」

「戻れるものなら、戻りたいと思うか」


 おどけるように、少年は肩をすくめた。


「こんなちんけな想いで、それを願ったら。僕は怒られちゃうよ」


 ◆◇◆


「みなさん。今晩はお集まりいただき、ありがとうございます」


 上機嫌なエドワードが、割れた眼鏡をずりあげて、皆の前に立った。

 残り火を囲って座った男たちが、野次を飛ばす。彼らの手には、酒の継がれたグラスが握られていた。僕と廻のものだけは、果実の絞り汁だったけれど。


 エドワードの隣では、車椅子に座ったリオが赤ん坊を抱いている。誕生から四、五日。赤子の目はまだ、開いていない。リオのすまし顔は、どことなく緊張して見えた。


「ハリスを始め、君たちの尽力と、思わぬ客人の手助けもあり。僕らの娘は無事、生まれることができました」


 エドワードの視線に、廻は淡い笑みを返す。


「この常夜で新しい命が生まれたことに、大きな意味があると思います。僕らもきっと、ここからやり直せるはずです」


 すっと、壇上の男は盃を掲げた。


「何はともあれ、今宵は久々の宴会。大いに盛り上がりましょう!」


 乾杯の号令と共に、男たちの野太い歓声が鳴り響く。


「あれ、命名式は?」


 廻の呟きもかき消され。それからはもう、めちゃくちゃだった。

 酒を呑み、料理を食べ散らかし、絡み、絡まれ。唐突に始まる殴り合い、それを見ながら腹を抱えて笑う男たち。


 厄介なことに、廻は酔っ払いたちに人気だった。僕の知らないところで、彼女はずいぶと残り火に打ち解けていたらしい。呑めや呑めやと揉みくちゃにされ、さしもの少女も苦笑いする余裕すらなく。暴風のような男たちがようやく去った頃には、廻の銀髪はそれはもう見事に、ぼさぼさだった。


「ほんとにもう、お酒って」


 ふてくされて、廻は座り込む。


「ごめん、なさい」


 車椅子が、僕らに近づいてきた。


「あの人、忘れてたみたい」


 リオは苦笑して、いまだに騒ぐ男たち、その中心でハリスに絡むエドワードを眺める。


「命名式、だったのに。あんなに、浮かれて」


 廻は上目遣いにリオを見遣る。


「いいの?」

「いい、よ。最後、だもの」


 目蓋の裏に焼き付けるように、リオは笑い転げるエドワードを見つめていた。


「最後って、じゃあ」


 僕の問いに、小さく女性は頷く。


「宴会が、終わったら。出ていく」


 女性は振り向いて、頭を下げた。


「お世話に、なった」

「やめてくれ。僕は何もしていない」

「いいえ。あなたが、幻想がいてくれて。ずいぶん、助けられた」


 優しく、僕の髪が撫でられる。これから独りで、赤子を育てていく手だ。


「リオ。こうするしか、ないんだよね」

「そう、です」


 廻は瞳を閉じて、迷いを捨てるように首を振ると、僕に向き直った。


「大丈夫だよ灯火、リオにはあたしが着いてる。食べ物も道具も、たくさん集めたの」


 小さな胸を張って、廻が笑う。


「最後くらい、きみには心配かけないんだから」


 けれどその笑みは、やっぱり、どこか笑っているようには見えない。


「そう、かい」


 上手く答えることは、出来なかった。リオが眉根を寄せる。


「廻、さん。やっぱり、私は一人でも」

「ううん、あたしは着いて行くよ。リオだってまだ、体力戻ってないでしょ?」


 表情の薄い顔に、沈痛な色を浮かべて、リオは黙りこんだ。


「ね、リオ。この子の名前、教えてよ」


 場違いに明るい声で、廻が尋ねる。こくりと、彼女は頷いた。


「ええ。この子の、名前は――」


 けれど、言葉は最後まで、紡がれなかった。


 赤子が突然、けたましい泣き声を上げる。慌ててリオがあやし始めた。


「急に、どうした、の」


 泣き声はどんどん激しくなる。僕は立ち上がり、廻を背に庇った。


「灯火?」


 首をかしげる廻に構わず、あたりの様子を探る。騒いでいた男たちも、尋常でない赤子の泣き声に気づいて、何事かと視線を向けてきた。


 背後で、残り火の炎が不自然に揺れて。

 湿り気を含んだ風が、いとも簡単に、消えない業火を吹き消した。


 闇が降りる。突然の暗がりに、視界が失われた。

 どよめきが広がる。すべて意識の外に追いやって、鼻に意識を集中させる。


「去れと、言ったのに」


 濃い水の香りは、肩の降れる距離に現れた。


「まあ、去らないだろうと思っていたが」


 漏らされた呟きは、リオのものでも廻のものでもなく。

 肩口で囁く低い声に、全身が緊張し、ぎこちなく振り返る。


 わずかな月明かりに照らされて、ナイアが立っていた。水色の左目が、爛々と暗闇に浮かび上がる。

 息をのんで、リオは車椅子を引いた。妻子を守るようにエドワードが、続いて他の男たちが、立ちはだかる。


「何者ですか」

「通りすがりの混血だ」


 両者が睨みあう。廻の手を引いて、僕はナイアのそばを離れた。


「ちょっと、灯火っ」

「手を出しちゃ、だめだ」


 握った手を振りほどこうと、廻が腕に力を込める。けれど、決して離さない。

 彼女はきっと、リオを守ろうとするだろう。もしナイアが廻を攻撃しても、僕はナイアを邪魔出来ない約束だ。だから、手を出させるわけにはいかなかった。


「総員、戦闘態勢」


 つい先程まで酔いたるんでいた瞳と、同じものだとは思えないほどに。男たちの眼差しは鋭く、色が無い。


「敵を排除します」


 話し合いは無かった。人間は混血を敵と決めつけ、混血は粛々と受け入れる。

 かかれ。エドワードの号令に、前列の男数人が風を切り、ナイアに接近する。意識の隙間を縫う、巧みな足さばき。

 迫る打撃を女性はつまらなさそうに見遣り、すべて無防備に受けた。しかし一歩もその場を動くこと無く、何事も無かったようにナイアは佇む。


 男たちに動揺は無かった。入れ替わり続けざま、息の合った拳を打ち込み続ける。着弾点にさざ波のような波紋が重なり、衝撃は混血に通らない。

 均衡はすぐに崩れた。ナイアが虫でも払うかのように手を振ると、男たちが派手に吹き飛ぶ。湿っぽい、澄んだ香りが濃くなった。暗がりにきらめくそれは、水しぶきだ。


 飛ばされた者たちは転がるように受け身を取り、後退する。


「撃てっ」


 腹に響く号令をかき消すように、破裂音が鳴り響いた。いつの間にか銃を手にした男たちが、混血を蜂の巣にする。

 ナイアが小さく鼻を鳴らしたのが、聞こえた気がした。次の瞬間には、男たちが座り込み、崩れ落ちていく。ある者は肩を抑え、ある者は太ももを抑え。抑えた場所から、赤い染みが服に広がっていく。


 ただ一人、無傷のエドワードは銃口をナイアに向け、しかし引き金を引くことは無かった。

 それが無駄であることは、分かりきっていた。


「いかにも、混血のやり方ですね」


 割れた眼鏡の奥で、憎々しげに灰色の瞳が歪む。


「リオと子供を殺せば僕は、僕らはいともたやすく、絶望に堕ちる。ずっと、効果的なタイミングを計っていたわけだ」


 そうやってあなたがたは、狡猾に、残忍に、何人も殺してきた。吐き捨てるエドワードを、ナイアは一瞥する。


「そうじゃないぞ」


 一歩、彼女は踏み出した。右肩に被弾しうずくまるハリスが、左手で短剣を投げつける。軽く摘まれ、投げ返された刃は、彼の銃創を正確にえぐった。


「お前の絶望は、そんなものじゃ済まない」


 雄叫びを上げて跳びかかった男たちが、作業のように処理されていく。


「なぜならお前は、裏切られるからだ」


 腰から刃を引き抜き、エドワードは斬りかかった。それも同じように捌かれ、蹴り飛ばされ、火の消えた残り火の残骸に彼は打ち付けられる。

 次の瞬間、ナイアの立つ大地が爆ぜた。咄嗟に廻に覆いかぶさる。飛び散った幾つもの小石や泥が、背中を殴打した。

 置き土産とばかりに、エドワードの放った手榴弾。土煙の中から現れたナイアは、当然のように無傷だ。


 そうして、ナイアとリオの間に、遮るものは無くなった。

 その間、僅か数歩。


「詰みだ、オンタリオ」


 エドワードからくすねた短剣を手に、ナイアは投擲の構えをとる。


「死ぬか、化けの皮を剥がすか、選ばせてやる」


 立ち上がろうと、男たちが足掻く。かすれた声でエドワードが叫ぶ。

 歯を食いしばり、赤子を強くかき抱いて、リオはナイアを睨みつけた。その眉間に、空を縫って刃が迫り。


 リオの瞳が、明るい水色となって、光を放つ。


 薄い水の膜が、短剣を絡めとった。それはナイアと同種の力、幻想としての発露。

 耳先が尖り、風も無いのに藍色の長髪がなびく。自由が効かないと言っていた脚が透け始め、そこにドレスのようなヒレを纏った、魚の半身が現れた。


 紛うことなき、人魚。


 抵抗を忘れた人間たちが、呆然と目を見開く。視線に囲まれる中、リオ――湖の人魚オンタリオは、操る水流を支えに車椅子から立ち上がった。


「嘘、だ」


 いっそ雪のほうが白いのではないかと思えるほど、エドワードの顔は蒼白で。それを受けるリオの眼差しは、透き通るほどに無感情。


「あなたは何者?」


 流暢な言葉遣いで、オンタリオがナイアに問いかける。


「どうしてその力を使えるの。私達姉妹と、どういう関係?」


 答えることなく、ナイアは詰め寄る。オンタリオは幾重にも、水の膜を展開して。しかしその全てを、薄紙のようにナイアは破った。

 人魚が驚きに固まり、ナイアの指先が赤子に迫る。エドワードは未だ呆け、ハリス達も動けない。

 力いっぱい握っていた僕の右手の平から、少女の手がすり抜けた。


「だめっ」


 熱のこもった呟きとともに、廻の右足に重心が移る。駈け出そうとする少女の目的は、明白。けれどそれは、死にに行くようなものだ。

 やらせるわけには、いかない。幻想であることを、隠している場合じゃない。


「灯れ」


 少女の背に指を伸ばし、かすれて消えた雲上の景色を、脳裏にでっち上げた。歪で弱々しい炎を爆発させて、ナイアに突進する。初めて会った夜のように、横から彼女を掻っ攫った。

 腹を蹴られて、吹き飛ばされる。地に着く直前に転がり、勢いを殺して立ち直った僕に、ナイアは鋭く言い放った。


「約束を、破ったな」

「ごめん」


 奥歯を噛みしめる。それでも、廻を害させるわけにはいかなかった。


「お願い旅人さん、リオを殺さないでっ」


 すがる廻の声は、冷たい視線にかき消される。


「邪魔をするなら、押し通る」


 空を裂いて、混血が僕らへと踏み込んだ。


「灯れっ」


 傍らの廻に手を伸ばし、手綱の握れぬ熱のままに、燻ぶる炎をかき集める。


「灯火だめ、それ以上はっ」


 叫ぶ少女の腕を振り解き、背負う炎を弾かせて。


 流石に、そこまでだった。


 ずれた力を使い続けた代償が、稲光のごとく血管を食らいつくすようだった。

 為すすべ無く硬直する。意思をもって動かせる器官が、どこにも無い。


 瞳を見開くナイアの刃は、すでに振り下ろされていた。緩い、牽制の一閃。普段なら掠りもせずに避けれるはずだった軌跡に、倒れる僕の首筋が重なる。

 濃密な死が迫ってくる。寸前、乱雑に肩を押し出されて。


 紅く、熱い液体が、僕の顔に飛び散った。

 棒のように倒れ伏す。動かない眼球に、うずくまる少女が映った。両手の平を左目に押し当て、尚も溢れる血液が、褐色の頬を伝う。低く激しいうめき声が、鼓膜を震わせた。


「ちく、しょう」


 あえぐように呟く。二度と流すことは無いと思っていた涙に、視界が霞む。

 守らなきゃならない人なのに、守る力を得たはずなのに。僕をかばって深い傷を負った少女を前に、指先一本動かない。


 よじれる痛みが頭蓋に鳴り響く。手足が痙攣するたび、命が流れていく。


「廻さんから、離れなさいっ」


 どういうわけか呆然と立ち尽くすナイアの背を、リオの水の砲弾が撃った。

 水しぶきにまみれてよろめく混血の姿は、おぼろげに霞み、霧となって消えて。

 人魚は、かざした手を下ろし。


 そうして、場は静まった。

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めぐる月夜の旅人形――君と僕とで絶景を―― アワイケシキ @kennta0920

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