第七話 未だ開かぬ瞳
部屋の扉は、固く閉ざされていた。僅かな隙間から、胸が沈むような緊張が漏れてくる。
こちら側は、静かなものだ。
ハリスとエドワード、それから数人の男たちと、廻。僕が残り火に帰ってきたとき、彼らはすでに扉の奥で、リオの出産を執り行っていた。
僕が扉の前で待ち続けて、半日も経った頃だろうか。ぼんやりと座っていると、扉が軋み、男がひとり、落葉のような足取りで現れた。
エドワードだった。久しぶりに見る彼の顔は、橙灯に照らされて、なお白い。僕を見ると、一瞬驚いたような顔をする。
「灯火くん、帰ってきたのですか」
「うん。それより、終わったのかい」
「いいえ、まだです」
崩れるように、男は隣に座り込む。
荒く浅い息を、徐々に整えて。かすれた声音が、ぽつりぽつりと、言葉を置く。
「取り乱して、しまいました」
覚悟が、足りなかった。描き殴ったような笑みを、エドワードは貼り付ける。
「何があったんだい」
「聞いてくれますか」
しばらく黙っていると、語りだす。
腕が引っかかって、赤ちゃんが出てこれず。へその緒が圧迫されて、危険な状態に。母体の衰弱が激しい。気が動転して、追い出された。
「ああ、お願いします、神さま」
エドワードは指を組む。部屋から漏れる呻き声、叫び声。そのたび、男の肩が震えた。まるで幼子のように。
冷たく暗い廊下、壁を背に座り込んで、待つ。どれほどの時間、そうしていただろう。数刻か、あるいは数日か。
聞き慣れない鳴き声が、耳奥に響いた。鳥でも、獣でもない、奇妙な鳴き声。
エドワードが顔を上げる。表情を見て、それが泣き声なのだと知った。
生まれたんだ。
駆け出そうとする彼の腕を、強く掴む。
「何するんですっ」
「誰も入れてはいけないと、言われた」
身内でないからこそ、冷静になれることもある。
音が鳴るほど歯を食いしばって、男は座り込んだ。再び、沈黙。産声もいつしか途絶え、忙しなく揺すられる膝の振動を、床から感じる。
軸を軋ませて、扉が開いた。突っ立つ白衣の医者、ハリスの目の下はどす黒く染まり、白衣とマスクは赤く濡れて。猟奇的な佇まいに、エドワードは息を呑む。
最悪の事態すら、覚悟して。
「母子ともに存命。絶対安静だが、命に別状は無い」
血塗れのマスクを剥ぎ取って、医者は引き吊った笑みを浮かべた。
「元気な赤子だ」
最後まで聞いてか聞かずか、エドワードは早足に扉をくぐる。後を追うと、鉄臭い匂いが鼻腔に満ちた。四方に置かれた燭台が灯す明かり、真ん中に置かれたベッドに、女性は横たわっている。胸の中に、布にくるまれた小さな赤子が抱かれていた。赤らんだ頬は緩み、安心しきって小さく寝息を立てている。
「えど、わーど」
絞るような声で、母となったリオは、汗に濡れた顔に笑みを浮かべた。
「やりました」
「ああ、よくやった」
音を立てて、エドワードは膝を折った。鼻水混じりの声音で、彼は妻に笑いかける。
「ありがとう」
吹けば消えてしまいそうな言葉のやり取り。それが何故だか、眩しく見えて。思わず僕は目を閉じた。
「とう、か?」
気づけば目の前に、廻が立っていた。よほど神経を張り詰めさせていたんだろう、その顔にはありありと、衰弱が浮かんでいる。
「さっき、帰ってきたんだ」
「そう、なの」
数瞬、廻はためらうように、身体を揺らして。
両肩と胸に、どすんと重みがかかる。銀の髪が、目端を流れた。倒れるように抱きついてきた廻は、僕の胸に顔を埋める。華奢な体の小刻みな震えが、肌から伝わった。
「こわかった」
呟きはほとんど、言葉になっていなかった。小さな両手が、シャツの裾を固く握りしめる。
僕は後悔した。人の生死がかかった場面に、彼女を独り、放り出してしまったことを。少女の肩にかかった重圧は、どれほどのものだっただろう。
「こわかったよぉ」
うわ言のように繰り返す廻の頭に、少し迷って、そっと手をおいた。
「おつかれ。君は頑張った」
銀髪を撫でると、決壊したように少女は泣き声を上げる。清々しいほどにわんわんと、廻は泣いた。
エドワードはずっと泣いていた。リオの目にも涙が浮かんでいた。手伝っていた男たちも、ぐったりと座り込んで、涙を流して笑い合っていた。無愛想なハリスすら、目尻に水滴を溜めている。辺りが煩かったのか、そのうち赤ん坊も泣き出した。
みんな泣いていたのに、部屋は暖かかった。
「ああ、嫌だな」
その熱が嫌いだった。肺のあたりが、捻じれて歪むようで。だから固く目を閉じて。
それでも、腕の中の少女の体温は、熱いほどに暖かかった。
◆
残り火の中心にある篝火は、消えることがない。雨が降ろうと風が吹こうと、住民たちは炎を守り通してきた。
「残り火というは、本当はあの炎の名前なんです」
エドワードが煙草の煙を吐く。漂う匂いに廻が眉をひそめた。
「エドワード、臭い」
「ん、ああ。すいません」
男は咥えた煙草を摘まんで、残り火に放り捨てる。
「大切な炎で、そんなの燃やしていいの?」
「いいですよ。あれは別に、神聖なものじゃないですから」
もっと身近で、気の置けないもの。
「まあ、手のかかる息子みたいなものです」
「ふぅん」
廻は折り曲げた膝に顎をのせて、蒼い瞳に炎を映した。
「このあたりは、ひどい水害に襲われて。だから火を灯そうって、誰かが言いました」
「水害って何だい?」
「ああ、灯火くんには話していませんでしたね」
廻のそばに立って、座り込んだエドワードの大きな背を見遣る。
「五つ、大きな湖があります。そこに棲む五体の人魚は強大な力を持っていて、人間の敵でした。奴らは多くの人を、殺した」
それが、水害。廻がそっと顔を伏せ、額を膝に当てた。
「人魚の討伐は、僕達の使命です。戦時中、四体の人魚を葬りました。けれど最後の一体が姿を現す前に、朝が来なくなって」
それからずっと、あの夜に囚われたままです。
エドワードは顎を上げて、ぼんやりと霞む夜空を見上げる。
「でも僕は、リオに出会えた。子供まで授かった。少し、変われてきている気がします」
「そう」
廻の相槌は、丸めた体にくぐもった。少女を横目に、エドワードは口を開く。
「以前君達が言っていた、この辺りにあるという絶景ですけど」
のそりと、廻は顔を上げた。
「確かにあります。世界でも指折りの、とっておきが」
ただ、あそこは人魚の領域に近くて。エドワードは唇を固く結ぶ。
「今度、僕たちで連れて行きますよ」
「いいの?」
「もちろん。それくらいの恩返しはさせてください」
「あたし、大したことしてない」
ぼんやりと炎を眺める廻に、エドワードは笑いかける。
「ぜひ、君らに見て欲しいんです。わが子の誕生に立ち会った、君らに」
男は懐かしむように、目を細めた。
「あそこは、特別な場所ですから」
くすりと笑みを零して、エドワードは口を噤む。廻が首をかしげると、彼は小さな掛け声とともに立ち上がった。
「近いうちに、娘の命名式をやろうと思います。宴会みたいなものです。ぜひ参加してくれませんか」
「うん。二人で行かせてもらうよ」
薄く微笑む廻は、どこか上の空に見えた。エドワードは満足そうに頷いて、家へと早足に歩き去っていく。
その夜は曇っていたせいか、吹く風がぬるかった。轟々と音を上げて燃える残り火の麓で、廻はじっと座っている。僕は男の去った場所に、腰を下ろした。
「ねえ灯火」
顔の下半分を組んだ腕に隠して、少女は覇気無く語る。
「あたし、リオからいろんな話を聞いて。リオが逃げるのに、着いて行こうと思うの」
「そうかい。さっきの話の人魚、あれってやっぱり」
「リオだよ」
小さく頷いた廻が、目を閉じた。
「彼女は、人魚の幻想なの」
そうだとすれば、彼ら二人はお互いの
「どうしてリオは、エドワードと結ばれたんだい」
「分からない。ただ、最悪で、最低な理由だって、言ってた」
意を決したように、うつむいた顔を、少しだけ上げて。
「ねえ、灯火。きみはどう思う? あたし、間違ってるかな」
恐る恐る、少女は聞いてきた。いつものように答えるのは簡単だ。君のやりたいようにやればいい、僕は従う、と。
けれど僕は、彼女に話さなければならないことがあった。
「廻。その前に少し、僕の話を聞いてくれないかい」
驚きに、少女は大きな瞳を見開く。蒼い瞳には薄っすらと、期待の光が宿っていた。
「僕さ、今のままだともう、長くないんだ」
「長く、ない?」
ゆっくりと、少女は言葉の意味を噛みしめる。
「幻想としての根幹が、ずれてきてる。双翼がうまく使えなかったのも、そのせいだ。このまま行くと、僕は死ぬ」
やたらと重い舌を回して、告白した。少女は呆然と僕を見つめ、けれど瞳にはもう、光が見当たらない。
「ごめん、今まで黙ってて」
顔を逸らす。少女のそんな顔を、見ていられなかった。
轟々と、炎の燃え盛る音だけが、あたりに響く。
「あたしの、せいだ」
そんな呟きが、聞こえた。
「あたしと一緒にいたから。あたしが何にも分かってなかったから、灯火が」
違う、着いて行けなかったのは僕が弱いからだ。
言おうとして、振り向いて、言葉が引っ込んだ。
「ね、灯火。あたしたち、ここまでだね」
蒼い瞳の少女は、立ち上がり、涙を溜めて、笑みを浮かべていた。
なのに、ぜんぜん笑えていなかった。
「ここで、お別れしよう」
「何を、言って」
「あたしはリオに着いてく。きみはここに残るか、旅人さんに着いてくか、自由だよ」
何も、言葉が出なかった。廻は僕に、微笑みかける。
「きっとそうすれば、灯火は死なないんだよね。あたしはきみに生きて欲しい、生きていて欲しいから」
だから、これが最初で最後。いっかいだけ、主として命令するよ。自分に言いきかせるように呟いて、主になんてなりたくないと語った少女は、瞳を閉じる。
待ってくれと、言いたかった言葉は、張り付いた喉に遮られて。
そして少女は、言った。
「灯火。あたしとの約束は忘れて、自由に生きて」
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