第六話 心映す瞳
「海?」
「いや、湖だ」
僕らの眼前には、広大な湖が広がっていた。押しては引いていくさざ波が、静かな夜によく響く。そうして砂浜に立って水平線を眺めていると、孤島を思い出した。
「さて、始めるか」
水際にナイアが歩いて行き、膝まで水に浸かったところで、両手を湖面に押し付ける。
「集え、集え、我が懐へ」
静かな波紋が、彼女を中心に生まれた。澄んだ水の香りが濃密に漂いはじめ、波の撫でる湖面が、淡く輝き出す。明るい水色、それはまるで、ナイアの瞳の色のようだ。輝きは段々と、その範囲を広げていき。やがて、見渡す限りの湖が、淡い水色を明滅させる。
それはまるで、孤島で見た星空の、瞬きのようだった。
「こんなものか」
つぶやきと共に、ナイアは浜へと上がってきた。解けるように、湖は輝きを失っていく。
「ナイア、君が言っていた絶景っていうのは、これかい」
それは素直に絶景と呼べた。けれど彼女は少し意外そうに瞳を開けて、首を横に振る。
「こんなものは、私一人の力で組み上げた紛い物だ。足元にも及ばない」
「足元にも、かい」
そうなってくると、人形の貧困な想像力では、まったく想像もつかなかった。
「今のが、綺麗だったか?」
「ああ、綺麗だったよ」
思わず、素直な感想が口をつく。
「そうか」
僅かに彼女の目元が緩む。
「こんな力でも、綺麗と言ってくれるか」
「できれば、主にも見せてあげたい」
「ああ、機会があればそうしよう」
湖に背を向けて、ナイアは歩き出した。
◇◆◇
月あかりの下、ひび割れた煉瓦の街道を歩く。煉瓦や木で組まれた建物の多い、小洒落た街並みの廃墟街だ。それがどこか、海に沈んだあの街を思わせた。
「いいものを見つけてきたぞ」
バーと思しき廃墟でナイアが探り当てたのは、深緑色のガラス瓶だった。僕は思わず、眉根をひそめる。
「それ、お酒かい。僕は嫌いなんだ」
「なんだ。お前、呑んだことがあるのか」
彼女はカウンター席、僕の隣に浅く腰掛けると、棚からくすねたグラスをふたつ、埃を被ったカウンターに置いた。
「だがこいつは、一味違うだろう」
間に立てた蝋燭の明かりを頼りに、中身を注ぐ。紫にも似た褐色の液体が、灯光を宿して揺れていた。
「信じるからね」
意を決して、軽く一口、舌をつける。味は全くしなかった。当時の僕には、味覚が欠けていたから。けれど、甘く濃密で、とろけるような香りが鼻腔に満ちる。
「甘い」
驚く僕を、ナイアは満足そうに眺める。
「アイスワインと言うらしい。このあたりはかつて、生産地だったようだ」
言ってから自分もひと舐めして、薄く頬を緩ませていた。
ふたりしてちびちびと、グラスを傾ける。
「なあ、聞いてくれないか」
蝋燭が半分ほどに縮んだころ、ナイアはふと、語りだした。火に浮かぶ白い肌が、心なし赤らんでいる。
「私は母の顔を、覚えていないんだ。母は幻想で、私がまだ幼いころに、居なくなった」
私を捨てたのか、殺されたのか。ぽつりぽつりと、漏らすように、彼女は過去を語る。
「それからずっと、一人で生き延びてきた」
左目を覆う長い前髪を、ナイアは払った。
「この目を隠せば、人に紛れ込めると知ってな。それこそが、人間から恐れられる理由のひとつだったのに。私は小さな集落に紛れ込み、私を姉と慕う義理の妹ができた」
その結末は、前に聞いたことがあった。悲惨な結末だ。
感情を押し殺すように、淡々と、彼女は語る。
「私にとっては、ほとんど唯一の家族だった。あいつなら、混血だろうと私を受け入れてくれると、信じていた。だから私は、正体を明かして」
そっと、彼女の白い指が左わき腹をなぞった。
「あいつは私を、刺した。見たこともない、憎しみに歪んだ眼差しだった。距離を取ろうとして、幻想として未熟だった私の力は、あっけなく、あいつを潰した」
かける言葉が、ひとつも見当たらない。
「私は気づいたんだ。混血はこの世に、居てはいけない。だから、同族を手にかけ、人間を殺し、幻想を狩り。気づけば、こんなところまで来てしまった」
ただ、それだけの人生だよ。鼻を鳴らして、ナイアはまた一口、ワインを煽った。
「あげくの果てに、諦めきれずに何度も何度もやり直して、それにすらもう疲れて。だから、死のうとしたんだ。そしたらお前らが、お前が私の前に現れた」
皮肉なものだよな、と彼女は笑う。
「やっと諦めがついたと思った矢先に、どうあがいても手に入れられなかった理解者が、私の前に現れた。神様もなかなか、いい性格をしている」
彼女の言葉のところどころは不可解で、すべてを理解することは、出来なかった。
「君はいったい、どこから来たんだい」
絞りだした問いに、ナイアは薄く笑う。
「走って行っても、飛んで行っても。誰もがきっと、二十年はかかる。そんな場所だ」
さっぱり分からなかった。常夜には、そんな不思議な場所すらあるのだろうか。
「灯火、お前のことも聞かせてくれないか」
「僕は別に、話すことなんてないよ」
喉を鳴らすように、ナイアは笑みを零す。
「私が覗いたお前の内側は、それは大層おかしなことになっていたが?」
とぷりと、手に持つグラスにワインが注がれた。
「君に話して何になる」
「やってみると意外と大事だ、人に話すことは。おかげで、私もようやく覚悟ができそうだよ」
器を傾ける。唇が湿り、固く結んだ口が緩んでいくようだった。
「お前はやたらと人形にこだわるが、その理由はいったい何だ」
小さく、ため息をひとつ吐く。
いろいろな要因があって、けれどきっかけはひとつ。
「大切な人が死んだんだ」
冬の街の幼い少女。
僕はたぶん、あの子のことが好きだった。感情のない人形を気取っていたくせに、一緒に旅をしても良いとさえ思っていた。
「辛かったのか」
押し黙る僕の額を、ナイアはこつんと小突く。
「私が見たお前の中身は、捻れていた。お前の本来の姿、あるべき姿と、今のお前がずれているということだ」
僕が目指したのは、人形、機械。けれど廻は僕に、感情という余計な機能をつけた。
「どうりで、ずれるわけだ」
在り方と生き方の乖離。僕が死にかけている、原因。
「とぼけるんじゃない。そんなこと、分かっていたはずだろう」
肩が震える。やはり、酔っていたんだろうか。いつもなら何食わぬ顔で聞き流すことが出来たはずなのに、彼女の言葉が頭に響く。
そうだ、元の力を取り戻す方法なんて、分かっていた。
感情を受け入れればいい。
それでも僕が、人形にこだわった理由は。
「怖いのか?」
いつになく穏やかなナイアの問いに、ごく自然と、頷いていた。自分でもよく分かっていなかったことを、ようやく理解する。
僕は、怖かったんだ。また、あんな辛い思いをすることが。
だから、人の心なんて、捨ててしまおうとした。
「エミリーはまだ、小さい女の子だったんだよ」
他人に人生を弄ばれ、夢すら人に与えられ。
「そうして、最期にやっと叶った夢の中で、あの子は死んだ」
それが、そんなものまでもが浪漫だと、廻は苦しそうに言った。
「僕には分からない。あれで良かったなんて、思えない」
他に道が無かったことは分かってる。廻の選んだ道が、最善だったに違いない。
「それでも、エミリーの決意も、廻の決断も、僕には理解出来ないんだ」
知らず、声音が熱を帯びていた。
「どうして、命を捨てれる。なんで、死を選べる。夢って一体、何なんだ」
頬杖をついて、ナイアはグラスを揺らす。
「なあ、灯火。その子、笑って逝ったのか?」
ぐらりと、目眩がした。瞼の裏に、幼い少女の最期の笑顔が浮かび上がる。
「笑って、いたよ」
「そうか」
音もなく、ナイアは息をついた。
「私は、自分で命を絶とうとするようなろくでなしだ。苦しんで、何も残せず、消えるように死ぬつもりだった」
だから、笑って死ねたその子のことが、心の底から羨ましいよ。
「きっと、幸せだったんだろう」
「理解できない」
「ああ。こんなことを言えてしまう私のほうが、きっとどこかおかしい」
双色の瞳が、僕を見つめた。
「理解できないから、逃げるのか」
「ダメかい」
「いや、良いんじゃないか?」
否定されると思っていただけに、驚きがあった。
「常夜には、悲しいことなんていくらでもある。しかもお前の主は、こんな私を助けようとするほどのお人好しだ。きっとこの先、幾つもの辛いことがある」
幼子のようなお前の心では、耐え切れまい。
「なら、ずれたまま消えるのだって手だ。あるいは、主と縁を切るという手もある。上手く行けば、異なる性質の幻想となって、生きていられるかもしれない」
「廻と、縁を切る?」
そんなこと、考えたことも無かった。けれど僕は、その選択肢を、即座に切り捨てることが出来なかった。自分の根幹が揺らいでいることを、実感する。
「いや、でも」
それでも、やっぱり、そんな手段を受け入れることは出来ない。
「約束したんだ。絶対に、連れて行くって」
まだ、その誓いだけは見失っていなかった。
「お前に、その覚悟があるのか」
試すように、ナイアは問う。
「人が一人死んだ程度で折れてしまうお前に、出来るのか」
出来るとは言えなかった。けれど、出来ないと言うわけにはいかなかった。
「やって、みる」
結局口をついて出てきたのは、弱々しい、そんな言葉。出来の悪い弟を窘めるように、ナイアは微笑んだ。
「駄目だな。覚悟っていうのは、そうじゃない」
そんな言葉を、どこか上の空で聞く。意識が朦朧としてきていた。どうにも顔が熱い。
「なるほど、あまり酒に強くはないようだ」
ぱさりと、僕の肩に深緑のコートが掛けられる。
「ほら、これは返しておくぞ」
ズボンのポケットに、布で包まれた、何か小さなものが詰められた。それが何かを確認できるだけの意識は、残っていなくて。
「今は少し、眠ると良い」
そうして僕は、眠りに落ちた。
◇◆◇
ごく自然に、灯火は笛を下ろした。
「いい演奏だった」
風音と調和する笛。少しだけ吹けると言ったが、謙遜も良いところだ。
「だが、独奏曲ではないのか?」
「分かるかい」
懐かしそうに、人形は手に持つ笛を眺める。
「本当は二人で演奏する曲なんだ」
笛をしまい、灯火は夜空を見上げた。
「いつか、一緒に吹こうってね」
◇◆◇
隙あらばナイアから笛を借りて、僕は練習した。その甲斐あって、幾日かすると、それなりに演奏できるようになったんだ。
大きな川のほとり、岩に腰掛けて、演奏を終える。
「どうだい」
「ずいぶん良くなった」
ぱちぱちと、ナイアが手を叩いて応じた。けれど僕には、疑問があった。
「君が演奏していたのと、僕が教わったのって、少し違っていないかい」
「ああ、それはな」
懐かしむように、ナイアは目を細める。
「もともと、二人で吹く曲だからだ。昔は妹と、よく演奏したよ」
そういうことなら、一度二人で合わせてみたかった。けれど、笛は一本しか無い。
「ナイア、この笛作れないかい」
「これをか?」
考えこむように、ナイアは眉根を寄せた。
「もともと、妹が自作したものだ。材料があれば、あるいは」
彼女は夜空を見上げる。
「ただ、もうあまり、時間がないんだ」
流れる川面に、丸い月が漏れている。淋しげに、双眸が細められた。
「ナイア、どうしてもやるのかい」
たたずむ女性に問いかける。
「僕も廻も、君たち混血を差別したりしない。居場所はあるんだ」
「おまえたちは背負えるか? 混血と旅をする、大きなリスクを」
静かに、諭すようにナイアは語る。
「混血は、隠し通すのが難しい。それに、常夜に生きる者は誰もが皆、混血を警戒している」
彼女は微笑みながら、呟いた。
「私たちを匿うことは、ほとんど、世界を敵に回すのと同じことだよ」
「世界を、敵に」
思わず、言葉に詰まる。
それでも、と言葉を続けることは出来なかった。
ゆるやかに流れる時を切り落とすように、呟きは川の流れに溶け込む。
「笛の件、考えておく。もし、機会があれば」
二人で、演奏しよう。
◆
それから、すぐのことだった。近くの廃墟を歩いていた僕とナイアは、一人の大柄な男と出くわした。出会うや否や、彼はナイアに銃を向ける。
「貴様、混血だな?」
筋肉質な肉体に、刈り上げた金髪。その瞳は、光を宿さず剣呑に細められていた。見覚えがあった、彼は残り火の住人だ。
突然、右腕を捻り上げられた。首筋にナイフを突きつけられる。
「動くな」
ナイアは僕にナイフを突きつけて、言い放った。
「動けばこいつの命はない」
「その子供は確か、廻ちゃんの連れていた」
苦々しく、男は顔を歪める。
「その子を離せ」
「離せば私を撃つのだろう?」
石ころでも眺めるような目で、ナイアは彼を眺めた。男のナイアを見る瞳も、似たようなものだ。
「こいつは解放する、ただし私を見逃せ」
きっと、拳銃程度じゃナイアは討ち取れない。だから、彼女の持ちかけた取引の意図は、僕を残り火に帰すことだった。
抗議の声を上げようとして、強く腕を拗じられる。
「お前は主を連れて、早く去れ」
耳元で囁かれる。しかし、そうはいかない。僕はまだ、ナイアを救っていないし、絶景も見せてもらっていないのだから。
「先程の川に沿って歩けば、見つけることは出来るだろう。ここで、別れだ」
見越したように、ナイアは言葉を付け足した。
「取引に応じてやる、その子をこちらに引き渡せ」
「いいだろう」
勢い良く、背中を蹴飛ばされた。数歩たたらを踏んで振り返ると、そこにもう、混血の女性は立っていない。
「坊主、もう大丈夫だからな」
男が駆け寄ってくる。彼は、膨れ上がったカバンを手にしていた。口からは包帯のような布が、収まりきらずに溢れている。
「悪いが時間がない。少し急ぐぞ」
男は僕を小脇に担ぎあげて、走りだした。
「もうすぐ、始まっちまうんだ」
「始まるって、何が」
「出産だよ」
目を丸くする僕に構わず、焦りを帯びて、彼は走り続けた。
「リオの子供が、生まれるんだ」
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