第三話 すれ違う夜
「ねえ、もういいよ、灯火。やっぱりあたしは、ここから出れないみたいだから」
何回目の失敗だったかな。そのときも小舟を出して、それで、また押し戻されたんだ。転覆して、あわや溺死かと思ったっけな。
それがきっかけになったのか、廻は諦めを口に出すことをはばからなくなった。
「どうしてそんなこと言うのさ。君だって、外の世界に行きたいんだろ」
僕もそんな廻の態度に、少し苛立ってたんだ。いや、少しだよ。本当に。
「もう一回、やってみよう。次こそ出れるかもしれない」
「無駄だよ。もうやめようよ」
どれだけ言っても、廻は消極的だった。
実際のところ、僕も弱気になってはいたよ。もしかしたら、本当に、一生外になんて出れないのかもしれないって、心のどこかで思い始めてる自分がいたんだ。
そうすると、これじゃまずいって焦りが出てきてね。
「廻、どうして君は、そんなに消極的なんだい」
つい、その言葉を言ってしまった。
「君が僕に語った夢、あれは、嘘だったのかい」
その一言が、彼女の逆鱗に触れた。
触れるどころか、殴りつけるくらいの威力があったみたい。
気づけば、胸ぐらを捕まれて、砂浜に押し倒されてた。
僕にのし掛かった廻は、今にも泣きそうな、ひどい顔で僕を揺さぶって、わめき散らしたよ。
「嘘なんかじゃ、嘘なんかじゃない! あたしだって、諦めたくなんか、なかったよっ」
僕の顔に、水滴が降ってきた。雨かと思ったけど、雨じゃなかった。それは、廻の涙だったんだ。
「何度も、何度も、なんどもなんども、外に出ようって頑張ったよ! 君がやった何倍も、何十倍も、何百倍も試したっ」
でも、ダメだったの。
彼女が呟く。
女の子の涙の秘める力を、君は知ってるかい。僕はその時、初めて思い知ったよ。
呆然と、廻の泣き顔を眺めてることしか出来なかった。
そしたら廻は、まるで糸の切れた操り人形のように、唐突に揺さぶる動きを止めて。
「もう諦めさせてよ。これ以上、頑張りたくない」
だからあたしは、きみを作ったの。そう言った。
でも、僕だって諦めれなかったから。気力を振り絞って、張り合うように言い返したんだ。
「できる。絶対に、出来るから。僕を信じてくれ」
「きみには、無理だよ」
それは、分かり切ったことを言うような口ぶりだった。
「だって、きみは、あたしが作ったんだから。あたしに出来ないことが、出来るわけない」
衝撃だった。
あの明るくて優しい廻が、そんな辛辣なことを言うなんて、信じられなかったよ。当然腹が立ったし、でもそれ以上に悔しかった。
ああ、この娘は僕になんの期待もしてくれてないんだなって。
それは、生まれて初めて感じる、悔しさだった。
「なら、最後に一回だけ、賭けをしよう」
廻の手を振り払って、僕は立ち上がる。
ここまでこれば、こっちも意地だ。
「もう一回だけ、機会が欲しい。それで駄目なら、僕も諦めよう」
その代わり、ひとつだけ条件を付ける。
「だからこの一回だけは、君も本気を出して欲しい」
ほとんど睨みつけるような視線で、廻に挑んだ。
彼女は少しの間だけ目を閉じて、答えを口にする。
「分かった、その賭けに乗ってあげる」
廻も、涙を拭いながら立ち上がって、気丈に睨み返してきたっけな。
そんなこんなで、僕らの初めての
◆◇◆
「廻とは何度もケンカしたけど、これがその、記念すべき初回だったと思う」
少年の語りと、暖炉の薪が燃えるパチパチと弾けるような音が、夜の丸太小屋に静かに響く。
「ああ、もうお酒が無いや」
器を覗いて、寂しそうな声を出した少年は、物欲しそうな目をこちらに向けてくる。
まあ、もう少しだけ恵んでやってもいいか。
「こいつは、きみの語りに対しての、先行投資みたいなもんだからな」
詰まらない話をしてくれるなよ、と脅しを入れて、器を片手に重い腰を上げる。
「はは、それは緊張するなぁ」
汲んできた酒を手渡すと、言葉とは裏腹に、全く緊張していなさそうな弛緩した笑みで、少年は器を嬉嬉として豪快にあおった。
「ああぁ、美味い。腹の底が沸き立つよ」
「酒のわかる子供は長生きしないぞ」
「人間にしてみれば、僕はもう十分以上に長生きさ」
ああ、そうだったな。こいつは、常夜の時代の住人だった。
この
「ほぅ、旨い」
我ながら、良い酒だ。街売りの高級品にも負けちゃいないだろう。こいつを売ってやるつもりは更々無いが。
そう、それで、話の続きだ。
「最後の一回の機会で、少年、きみは何をしたのだ」
「特別なことは、何も。今まで通り、舟を出しただけだよ」
ただ、と少年は続ける。
「違うことが二つあった。一つは、廻がやけくそながらも、消極的じゃなかったこと。もう一つは――」
――その晩が、嵐の夜だったこと、だ。
◆◆◆
その晩、にわかに嵐がやってきた。
それはもう、酷いやつだよ。天地がひっくり返ったみたいに雨が降って風が吹いて、僕と廻のボロい小屋なんて吹き飛んでしまいそうだった。
「こんなの、はじめて」
轟轟と風の
「君にとっても、そうなんだ」
「うん、これまでこんなに激しい雨は、一度も無かった」
星月の尽くが雲の向こうに隠れてしまって、小屋の中は本当に暗かった。互いの姿もはっきり見えなかったくらい。すきま風ですぐ消えちゃうから、灯りもつけなかったんだ。
暗闇の中で、廻と僕は言葉を交わす。
「ねぇ、灯火。どうして急に、嵐がきたんだろうね」
廻の問いかけに、実のところ僕は、なんとなく想像がついていた。
これはきっと、僕と廻が外に出ようとしていることに、無関係じゃないだろうなって。だって、まるで僕らの賭けに呼応するように嵐が来たんだから。
そしてもう一つ、確信があった。
「今しかないよ、廻。きっとこれ、最初で最後の好機だ」
廻は目を見開いた。そして、恐る恐る聞いてくる。
「好機って、何の」
「そりゃもちろん、島の外に出る好機さ」
「この雨風だよ?」
「だからこそ、だよ」
信じられない、といった声音で廻は呟いた。
「きみってやっぱり、馬鹿だったんだね」
「ひどいな、いちおう理由はあるよ」
もちろん僕だって、普通なら嵐の荒波の中を突破しようなんて思わない。
でも、この嵐は普通じゃない。ここで長く暮らしてきた廻でさえ初めて経験するというんだから、めったに起こることじゃないんだ。
「今までと違うことが起こってる。ならもう一つくらいは、いつもと違うことが起こるかもしれない」
とはいえ僕も、何か具体的な方針を見つけたわけじゃない。でも、これまでと同じことをしていても、結果は変わらないだろう。なら状況が決定的に違う今、試してみるしかない。
それを半刻ほど熱弁すると、ついに廻は折れた。
「わかったよ、もう、なるようになれってことかな」
しぶしぶ、って感じだったけどね。
「でもこれ、失敗したら本当に死んじゃうかもしれないよ」
「それは今更だね、廻」
「それもそっか」
僕らは、腹を括った。
小屋の奥に避難させていた木舟を二人で引っ張り出して、今にも吹き飛びそうになっている引き戸の前に立つ。
「泣いても笑っても、これが最後。それじゃあ行こうか、廻」
まだどこかためらいのあった廻は、迷いを振り切るように首を振った。そして、宣言する。
「うん、行こう」
それを合図に、僕らは二人で一歩、踏み出した。
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